今日の個所は、他のどの福音書にも出ていない、ルカの特殊資料である。ここでは、その頃起こった二つの事件が話題になっている。新聞もテレビもない時代だし、江戸時代の「瓦版」のようなものもまだない。ニュースの伝わり方はゆっくりしていた。それでも、現代の我々が想像するよりはずっと早く人々の口から口へ語り伝えられたであろう。古来、この種のニュースは「千里を走る」と言われた。
新しいニュースの一つは、ちょうどその時、何人かの人によってイエスのもとにもたらされた。ロ-マ総督ピラトが恐ろしい虐殺事件を引き起こした、というのである。はっきりしたことは分からない。ヨセフスの「古代史」にも、これらについての十分に詳しい記述はないという。多分、サマリヤのゲリジム山の神殿かエルサレム神殿で、人々が犠牲を捧げようとしていた矢先に、群衆の中にいたガリラヤ人の集団をピラト配下のローマ軍が襲い、彼らの血が犠牲の動物の血に混ざるほどの惨劇が行われたということらしい。いくらローマ総督でも理由もなく殺すということはないから、ある注解者は、ピラトは「反ローマ独立運動」を行っていた「ゼロテ党」の人々をここで「血祭りに挙げた」のではないかと推測しているが、これも確かではない。
もう一つは、エルサレムの「シロアムの池」付近で、恐らく要塞の塔の建築作業中に起こった崩落事故である。あるいは、ピラトが進めていた水道工事と何らかの関係があるのかもしれない。いずれにせよ、不幸にも18人が命を落としたこの事故は、既に周知の事実であったようだ。
さて、イエスはこの問題について、次のようなコメントを加える。
「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(3)というのだ。第二の事件についてのコメントも、本質的には同じだ。
先ず、このイエスの言葉の前半部分について考えたい。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」。
この背景をなしているのは、当時のユダヤ人の中に根強くあった「因果応報」という通念である。ある人が殺されたり、不幸な災難に巻き込まれたりすると、周りの人々が、「あの人は罪を犯した報いで、このような裁きを受けたのだ」と言う。口に出して言わなくても、心の中でそう考える。日本では、「罰が当たった」と言うのに当たる。災難に遭った人々は、それだけでも苦しいのに、このような周りの視線に晒されて、二重の苦しみにあえぐことになる。
このような苦しみに遭った人の代表は、ヨブであろう。彼は正しい人であったが、ある日突然、不幸が襲いかかる。全財産とすべての子供たちを失い、その上に、「サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった」(ヨブ記 2章7-8節)。
そこへ、三人の友達が彼を慰めるためにはるばるやってくる。「彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛をみると、話しかけることもできなかった」(2章13節)。この友達の真実な友情は、疑えない。
だが、ヨブの絶望的な嘆き、神に対する恨みつらみを聞く内に、まず、テマン人エリファズが口を開いて、つい本音を吐いてしまう。先程朗読したヨブ記4章1節以下がそれである。特に7節だ。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか」。これが、当時の一般的な通念であった。
残りの二人も次々に口を開いて、同じような「因果応報」の節を述べ立てる。ヨブは、どうしても納得が行かない。それに反論する。議論は次第にエスカレートする。ヨブ記では、このような激しい応酬が延々と繰り返されるのである。これを見ても、この「因果応報」の考えがどれほどヨブのような人を苦しめていたかが分かるであろう。
だがイエスは、「そんなことは断じてない」と、言下にこれを否定するのである。彼のこの言葉は、当時の人々にとって正に解放の福音だった。ヨハネ9,1-3によると、彼はこの苦しい現実から出発して、正反対の方向に、つまり、神による希望に目を向ける。我々が心から求めているのは、この解放だ。
それでは、後半の「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」という言葉はどう理解するべきだろうか。これは脅かしの言葉ではない。
宗教は、堕落した時、人を脅迫する。中世の教会が「煉獄の教理」によって人を脅かし、免罪符を買わずにはいられないように誘導したように、また、中世の日本の仏教寺院が「地獄絵図」によって人々を震え上がらせ支配したように、さらに、新宗教がおどろおどろしい教えによって人々の精神を金縛りにして思うが侭に操作するように。
だが、イエスの言葉は脅かしではない。「悔い改め」への招きである。そして、「悔い改め」(メタノエイン)とは、正に方向転換のことなのだ。どんなに辛い現実でも、過去の罪の結果だと運命的に受け取るのではなく、この現実から出発して神の国の光り輝く将来へ目を向け直す! それが、我々の悔い改めなのだ。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
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Emmanuel
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