週報にもあります通り、本日は教会暦最後の週にあたり、末日主日と呼ばれています。来週は暦も改まって、新しい年が待降節をもって始まります。本日はまた、収穫感謝祭の聖日にあたります。ご存知の通り、1620年にメイフラワー号に乗った106名の清教徒たちが信教の自由を求めてニューイングランドに辿りつきました。厳しい冬を生き延びて半数になった清教徒たちが、ネーテイヴ・アメリカン(アメリカインデイアン)から地元にあった農作物を教わって、1621年の秋に原住民と一緒に収穫を祝った故事にちなんで、リンカーン大統領が1864年に11月第四木曜日を収穫感謝の日に定めてから、教会でも、それに近い日曜日に感謝祭の礼拝がもたれるようになりました。皮肉なことですが、南北戦争が終わり、リンカーン大統領が暗殺された後、共に祝いあったインデイアンは白人による西部開拓の犠牲者になって、僻地へ追いやられ、最後はサウスダコタのウンデイッド・ニーの大虐殺によって部族としての輝かしい歴史と文化は消滅したのであります。1621年の麗しい話とは全く反対に、虐殺と征服の悲しい出来事が、収穫感謝を制定したリンカーン大統領の精神とは裏腹に存在していることを悲しむものであります。収穫が或る特定の人種に占有され、他の民族を支配する力として使われた時、それは恐ろしい武器に変わってしまうと云うことを、アメリカの歴史は物語っていないでしょうか。私達が、収穫や勤労を祝い喜び、感謝の礼拝を捧げる意味は、富の占有を防ぎ、全ての人、とり分け、収穫が乏しく、喜びに与れなかった人々を招き入れて、分かち合うことでなければ、収穫を主に捧げる意味もありません。清教徒が乏しいながらも、玉蜀黍とカボチャ、野生の七面鳥の飼育を教えてくれた原住民を招いて収穫を分かち合った、あの原点に帰るべき事を感謝祭は伝えています。
聖書には、農耕にまつわるエピソードを比喩にして、私達の生き方や信仰を伝えている物語が多く存在しています。とりわけイエスの譬話に多く見受けられます。誰もが思い起こすことの出来る物語に「種蒔きの譬」があります。その他にも「からし種の譬」や「自ずと成長する植物の譬」、「どく麦の譬」などがありますが、いずれも農夫が汗水ながしながら、収穫を目指して働く姿の中に信仰のあり方が表されています。本日は、そうした譬話と同じような内容を持った「山上の説教」の最高峰とも云える、テキストに注目したいと思います。
ご存知の通り「山上の説教」はマタイ福音書の5章から7章に亙って展開されている有名な説教集であります。全体が内容上、5つに分かれていて、招きの言葉にあたる序論(私達もどれかの祝福に与ることが出来るような「幸いなるかな」で始まる祝福の呼びかけ:5:3~12)に続いて、地の塩、世の光として存在するキリスト者の特質が語られています(5:13~16)。第三の所では、キリスト者の義についてユダヤ教の義と対比したり(5:17~20)、旧いユダヤの掟と新しいキリストの掟を対比したり(5:21~48)、施し、断食、祈りについての比較を通してキリスト者の義とは何か(6:1~18)が展開されています。そして、今日のテキストが含まれている第四の内容ではキリスト者の生き方、キリスト教倫理が6章19節から7章5節に掛けて語られています。なかでも本日の6章25節から34節はキリスト者の生き方の真髄が語られています。
私はキリスト教に全く接したことない若い世代の人達に聖書を講じているのですが、講義の最後に、「あなたが最も心に残っている聖句は何ですか」と聞くのを楽しみにしています。毎年聞いておりますと、定番の答えが返ってくるようになりました。コリントの信徒への手紙・13章13節と、マタイ福音書6章34節はベストテンの最上位を争そっています。「信仰、希望、愛。このうちで最も大いなるものは愛である」。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(だから、明日のことを思い煩うな。明日のことは明日自身が思い煩うであろう、1日の苦労は、その日1日だけで十分である。)
こうした聖句が選ばれるということは、今の若い人達が、思い悩むこと、思い煩うことを多く抱えもっているからであると思います。しかし、それ以上に聖書は普遍的価値を伝えているからでもあります。こうした聖句が選ばれるということは、人生で「愛」が究極的目標であることも分かっているからではありませんか。信ずること、望みをもつこと、愛すること、そして思い悩むことから解き放たれること。これら全ては、6章25節から34節の中に含まれています。
ルドルフ・ブルトマンという新約聖書学者は『イエス』という本を著しました。その中で、この個所を評して、彼は「子供らしい摂理信仰で、自然と世界についての素朴な楽天主義が語られている」、と述べています。
"kindlichen Vorsehungs-Glauben und einen naiven Optimismus der Natur- und Welt-Betrachtung enthalten." (P.135)
「子供らしい摂理信仰」、また、「自然と世界についての素朴な楽天主義」は決して大人があなどるようなものではありません。今の時代にどれだけ大切な生き方ではないでしょうか。「乳飲み子のように全てを他者に委ねた生き方」こそ、思い煩いから私たちを開放してくれるのです。乳飲み子が母親に寄り添う、あの姿に思い煩いがあるでしょうか。アイデンテイテイという言葉を心理学に定着させた、エリック・エリックソンは母親とそのの胸に抱かれている乳飲み子との間には基本的信頼の関係が形造られていく、と云っています。また、高橋和巳(昭和9年~昭和46年)は『孤立無援の思想』と題したエッセイ集に「わが宗教観」を載せておりますが、その中で「わが愛する者に幸あれ、と祈るのは常に母親である。献身や愛など、宗教的感情はつきつめて行くと母の子供に対する関係の在り方に帰結する。抽象的な教義が先にあって、人は人を愛するのではなく、誰が教えずとも母は子を慈しむような関係が先にあって、さまざまの世の汚濁からの救いとして愛や慈悲の観念が生まれる。有能だから愛するのでもなく、報酬を欲して世話をするのでもない存在そのものを尊重する母の愛がおそらく、すべての宗教的感情の原型なのではなかろうか。」 そのように高橋和巳は述べています。エリックソンは乳飲み子に焦点をあわせて、子供にとって母親からうける愛情が、これからの人生で荒波を乗り越える力として基本的な信頼の関係が生み出されていく所を見ています。それに対して高橋和巳は母親の側に目を向けて、母親が愛する者に捧げる献身的愛に注目しています。愛を無条件に受ける側にも、また無条件に愛を注ぎかける側にも、宗教性はこの応答の関係の中で育って行くものであります。問題は「子供らしい、素朴な基本的信頼の関係」が人間の成長過程の中で何時まで保ち得るのか、と云うことではないでしょうか。エリックソンは、人が幼児期の初めに与えられた基本的信頼の関係は終生、人を生かすものであることを強調しながらも、大人になるにつれて、自我の目覚めや、自分の意思が激しく周囲と衝突して行く中で、基本的信頼が後退したり、無視されたり、捨てられたりして、アイデンテイテイ・クライシス(つまり、自分とは何者かが分からなくなってしまう状態)に陥ってしまう、と指摘しています。これを聖書の言葉に置き換えるならば、私たちが、食べること、飲むこと、着ること、住むことなどに主たる関心を向け、現状に満足出来ないで、さらに上を目指して働いているうちに、思い煩いに取り付かれて、命のこと、今ある恵に感謝する、基本的信頼の関係を見失っている状態に陥るのです。どうしたら思い煩いから解き放たれるのでしょうか。事柄は簡単です。それは既に十分に頂いている基本的信頼に私たちが立ち返ることではありませんか。既に親はなく、幼児期を過ぎた大人でも、母を介して広く無限に高大なもの、母をも与え、母子共に包み込んで愛しておられる天の神様への信頼を寄せるだけで良いのです。エリックソンは乳幼児期に母との関係で頂いた基本的信頼の中にいる自己について、I am what I am given. つまり、私は与えられた存在としてのアイデンテイテイを自覚するのです。
それに対してイエスが私たちに語っている天の父なる神との信頼関係をエリックソンの言葉におきかえれば、I am what I am. になるでしょう。私は天の父との関係を通して私となり、他の全ての人との関係も、身内や血縁、母子をこえて、神との基本的関係のなかでアイデンテイテイを回復するのです。エリックソンは心理学者として神を持ち出してはいないのですが、従って、彼は基本的信頼の中にいる自己が I am what I was given. であるのに対してI am what I am. は先在の自己との関係である、と云うのです。しかし、私はマタイ6章25節以下の御言葉が、エリックソンを最も相応しく補完しているように思います。先在の自己とは何でしょうか。母も、幼児をも包む自己を超えでた自己、それは聖書が天の父と呼んでいる方に適合します。もとより私たちは乳飲み子に帰ることは出来ません。食べること、着ること、住むところを、より良く、また快適に整える働きは毎日続けるに違いありません。しかし思い煩うことから自由であるべき道を聖書は私たちに伝えています。それは、日毎の働きの土台に、幼な子のように全てを天の神に委ねる基本的信頼をもち続けることであります。
皆さんはチャ-ルス・シュルツという、50年間「スヌーピー」を描き続けた作家をご存知のことと思います(1924~2000)。彼の作品には聖書のメッセージが随所に散りばめられていて、ロバート・ショートという牧師はシュルツのことを現代の名宣教者であり、スヌーピーはキリストである、とさえ評価をしています。私も彼の作品は大好きで、大学では学生と一緒にスヌーピークラブを立ち上げています。私の研究室には学生たちが持ち寄ったスヌーピー・グッズに囲まれて、ご神体にスヌーピーが祭られたスヌーピー神社が設けらています。何しろスヌーピーはキリストである、と言う人もいるのですから、その位は許されても良いと思います。スヌーピーは自分が犬に生まれていることを、最高の存在であると考えています。
スヌーピーの独り言: 1.どうして犬に生まれるものもいれば、人に生まれるものもいるんだろう。 2.なんたる偶然だろうか。それとも何だろうか。 3.なんだか、あまりフェアーじゃないような気がするなあ。 4.どうして僕は犬に生まれるなんて恵まれているんだろう。
チャーリー: 1.パパは床屋をやっているのが好きなんだ。 2.自分以外の人間になりたいと願いながら、人生を送るのは耐えがたいって。 3.(スヌーピー)僕は犬以外のものに、なりたいなんて思ったことないな。
この二つの作品には思い煩いから自由に生きる秘訣が語られているように思います。基本的信頼の関係の中で犬は犬として、床屋は床屋としてその存在を感謝を持って受け入れ、誇りをもって生きているチャーリー・ブラウンのお父さんとスヌーピーの姿が描かれています。本日のテキストを最も反映させている作品として、私は安心毛布の存在を挙げたいと思います。ルーシー・バンベルトの弟は大きくなっても安心毛布(security blanket)を手放すことができません。姉を含めて世間の人は幼児の名残のようなタオルケットやぬいぐるみを、大きくなっても肌身離さず持ち歩く子供をからかっています。幼稚である、とか、まだ大人になれない子供であるとか。しかし、シュルツは弁護します。人は一生、安心毛布を手放せない存在ではないのか。事実シュルツ自身、母親が乳がんで亡くなったその翌日に応召されて、ヨーロッパ戦線に行ったのですが、母の片身として安心毛布の切れ端を肌身離さず持ち歩いたのです。
1.ライナス:僕の毛布を埋めたって。 2.そんなことしちゃだめだ! 毛布なしではぼくは死んでしまう。水からあがった魚みたいなものだ! 死んじゃう! 死んじゃう! 3.どこに埋めたか教えてくれ! 頼む! 4.頼む、頼む、頼む、頼む、ねえ頼むよ! 5.スヌーピーはそれを聞いて庭の中を嗅覚を効かせて探し回る。 6.毛布を見つけ、口にくわえてライナスのところに持ってくる絵。 7.ああ、スヌーピー、よく見つけてくれた、よく見つけてくれた。よく見つけてくれた。 8.ぼくの存在の正しさが認められたと感じることが、時にはあるな!
チャーリー・ブラウンによれば、安心とは両親の車の後部座席で眠れる状態である、といっています。 1.ペパーミント・パテイ:最近、思い煩うことばかりね。チャーリー:どう云うこと? 2.ペパーミント:安心て、どんなものだと思う、チャック? チャック:安心? 3.安心とは、車のうしろの席で眠っているような状態のことだよ。 4小さいときにママとパパと一緒にどこかに車で出かけて、夜になって、家に向かって走っているんだ。君はうしりの席で眠っている。 5.君は何も心配しなくていい。前の席にはママとパパがいて、心配事は全部引き受けてくれる。何から何まで面倒見てくれる。
実に良く其本的信頼の関係を描いていると私は思います。このあとシュルツは一転してこう続けます。 6.ペパーミント:なるほどね、言えてるわね! チャーリー:でも、それはいつまでも続かない。あるとき突然、君は大人になって、もう二度と同じ気持は味わえないんだ! 7.突然おわってしまう。もう二度とうしろの席で眠ることは出来ない!二度とね。 8.ペパーミント:絶対に? チャーリー:絶対に絶対(absolutely never) 9.チャック、わたしの手を握って。
マタイ6章25節以下の聖書が「こどもっぽい、幼稚な神信仰」であると云う人がいるならば、安心とは何かを知らない人であると思います。思い煩いから自由になる秘訣がわからない人になってしまうでしょう。私たちは、基本的信頼を抜きにして安心はありませんし、思い煩いから解き放たれる術をも弁えることが出来ません。大人になって安心毛布が姿を変えても、基本的信頼は形を変えて、私たちには必要なのです。幼児期に与えられた基本的信頼をそのまま持ち続けることの出来る人は、ライナスのような人は、むしろ幸いであると云うべきではありませんか。シュルツはそう云っているのです。そして、イエス・キリストも本日の御言葉を通して、大人になった私たちが基本的信頼の関係を回復する道を伝えているのです。
私達は今週も、より良く食べること、着ること、住むことのためにあくせくとは働かざるを得ない大人、成人です。そう云う営みの根底に基本的信頼を保ち続けるには、イエスが譬話で述べておられる、農夫のような、天の父への信頼の関係が基本的に必要であります。数ある農夫の譬話のなかで、結びとして、マルコ福音書4章26節以下の(68頁)、「自ずと成長する植物の譬」に注目したいと思います。良い収穫を目ざして一所懸命働く農夫を想定してイエスはこう言っています。「神の国は次のようなものである。人が土に種をまいて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず芽、次に穂、そしてその穂には豊かな実が出来る。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
自ら働く勤めと、その根底で天の父にお任せする信頼の関係が実に良く、この物語には織り込まれています。今日は収穫感謝の礼拝です。夫々がこの1年を振り返り、一所懸命働いたことと、なお、それを支えて下さった天の父に感謝を捧げる日であります。自分の物差しで収穫の良し悪しを量るのではなく、神への基本的信頼の中で捧げたものは全て、夫々が達し得たところを喜び、感謝することが出来るはずです。そのような思いをもって、この年を締めくくり、来週のアドヴェントより新しい年を迎える備えを共に致しましょう。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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