「柔和な方の到来」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

 今年、待降節第一主日の説教テキストとして選ばれたのは、マタイ福音書21章である。イエスが生涯最後の段階でエルサレムに入って来る場面だ。

 都の東、オリーブ山の東斜面に近いベトファゲという村で、イエスは千里眼のような不思議な能力を発揮し、二人の弟子を遣わしてろばを連れてこさせる。マタイはそこで、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」(4)と言っている。この預言者とはゼカリヤのことである。マタイは、ゼカリヤ書9章9節以下の預言を、イエスの本質をよく表したものとして是非とも引用したかったのであろう。

 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」(9)。

 ゼカリヤはここで、「あなたの王が来る」と言う。「王」とは、「この世を救う方」、つまりメシアである。そのメシアは、「高ぶることなく、ろばに乗って来る」。マタイはこの表現に少しばかり変更を加えて用いているが、中身は同じだ。「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」 つまり、猛々しい軍馬に乗って来るのではない。柔和なろば、戦争をするためには何の役にも立たない子ろばに乗って来る、というのである。泥沼のような悪循環から我々の世界を救い出すためには、暴力は役に立たず、むしろ柔和であることが唯一の方法であると預言者たちは洞察していたし、イエスはこれさらに深く掘り下げて高く掲げたのであった。だからマタイは、イエスのエルサレム入場の場面で、「お前の王がお前のところにお出でになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」と言ったのである。

 しかし、マタイはここで、預言者ゼカリヤの言葉を断片的に引用したのではない。実は旧約聖書の深層に流れている根本的な信仰に注目したのである。それは、「この世界は見捨てられてはいない、メシアが来る」、しかもそのメシアは、「軍馬ではなく、柔和なろばに乗って来る」という信仰である。

 「軍馬の思想」は断固として斥けられる。旧約聖書には血腥い戦争を肯定するような記事が少なからずあって、我々を困惑させるが、実はそれらの真只中に、「軍馬否定の思想」があたかも清らかな伏流水のように途切れることなく流れているのである。我々は、このことに注目しなければならない。

 たとえば、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」(イザヤ2,4)。また、「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを絶ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」(詩編46,10)。そして、マタイは引用していないが、ゼカリヤも先ほど引用した9節に続けて次のように預言している。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」(10)。

 マタイは、この「軍馬否定の思想」こそ聖書の本流であり、イエスはそれを最も良く受け継いでこの世界に生まれてきた、と言っているのである。

 「軍馬」は、今日の言葉に置き換えるならば、ピストル・自動小銃・火炎放射器・地雷・ミサイル・戦車・潜水艦・航空母艦・戦略爆撃機・ナパーム弾・クラスター爆弾・生物化学兵器・核弾頭等々であろう。メシアがこれらを装備することは決してない。あくまでも柔和に「ろばに乗って」来る。

 小柄で耳の長い、可愛い目をして、どことなく「メルヘンチック」(?)なろばを見て、微笑を誘われない人がいるだろうか? そのようにあくまで人を脅さず、むしろ善意を呼び起こし、そして人の心に微笑を誘うような仕方でメシアは来る。

 イエスは「山上の説教」の中で、「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5,5)と言った。ドイツのある神学者は、この「柔和な人々」(ホイ・プラエイス)を、「力を持たない者」(Machtlos)と訳した。これは単に弱い人という意味ではない。腕力や政治的権力・膨大な経済力や軍事力を使って無理やり人に言うことを聞かせようとしない人のことだ。これら柔和な者にこそ、将来は約束される。

 今の世界には、結局ものを言うのは「力」だ、という信仰が根強くある。大人しくしていたら先にやられる。性能の良い武器をより多く持つ者が勝つ。しかも、先制攻撃をかける方が、それも徹底的にやった方が勝つ。この考えが抜き難くあるために、世界には攻撃と反撃・テロと報復の悪循環が絶えない。そしてそれは増幅する。

 多くの「現実主義者」は、この世界ではそれだけが現実的な行き方だ、と言う。それでは反問したい。人類の歴史上、「軍馬の思想」で本当の平和が達成されたことがかつてあっただろうか? パレスチナでもアフリカでも東南アジアでも、この思想はより激しいテロを生み出すだけである。これは誰の目にも明らかだ。

 新しい生き方が生まれなければならない。そうでなければ人類に将来はない。

 柔和なイエスがこの世界の歴史の中に誕生したということは、我々にその将来が約束されたということである。「お前の王がお前のところにお出でになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って」!

 我々は今待降節を守り、主が来られることを待ち望んで祈っているが、これは、全世界にとって不可欠なことなのである。

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