わたしたちの喜び

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「わたしたちの喜び」

村上 伸
イザヤ書42,1-4;

今日は降誕祭直後の主日。「ヘルンフートの星」も「アドヴェント・クランツ」も、1月6日の「顕現祭」(エピファニー)まではこのままだ。クリスマスの喜びが持続するということの象徴である。そして、今日の説教テキストはで、これもクリスマスの余韻の中で読まれる箇所である。

先ず、この手紙の著者について一言述べておきたい。彼は第1世紀終わり頃の人で、ほかに第2、第3の手紙も書いており、そこでは自分を「長老」と名乗っている。そこから見ると、当時の教会で指導的な立場にあった人物らしい。ヨハネ福音書の著者と同じ名前だが、別人だろう。しかし、言葉遣いに共通のものが多く、考え方もよく似ているので、広い意味で「ヨハネの教会」に属していたと考えられる。

それだけ述べた上で、今日のテキストに目を向けよう。

1節後半に「命の言について」(1節)とあり、続いて2節前半には、「この命は現われました。御父と共にあったが、わたしたちに現われたこの永遠の命」と言われている。これは、表現はやや違うが、、つまり、クリスマスに好んで読み上げられるあの有名な聖句と極めてよく似ている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」。これがイエス・キリストの誕生を指していることは明らかだ。今日のテキストも同様である。

しかし、一体、その言が「あった」とか、「あった」などというのは、どういう意味なのだろうか?

聖書に繰り広げられている歴史を見るとき、時間の系列の中では確かに天地創造が初めにあり、それから人間は罪に落ちて楽園から追放される。そして、長い歴史の後で、やっと救い主が現われる。イエスが貧しい馬小屋で生まれ、苦しむ人々の友となり、ただ人を愛するために30年の生涯を燃やし尽くされたということである。これは、すべての人が耳で聞き・目で見・手で触ることもできるような歴史的現実として物語られる。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(1節前半)と言われているのは、このことであろう。

だが、それらの歴史的経験に先立って、キリストは「初めから」あり、「御父と共に」存在していた、とヨハネは言う。つまり、神が天地を創造される前に、キリストは既に神の御心の中に「永遠の命」として存在した、というのである。ヨハネ福音書も、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1章1-2節)と書いている。一般に「先在のキリスト」とは、このことを指す。これをどう理解すればいいのだろうか?

カール・バルトという人は20世紀前半に活躍したスイスの神学者で、現代のキリスト教に大きな影響を与えた人だが、この人は、「契約」、つまり、神が深い愛をもって人間と結んだ「約束」を何よりも重んじたことで知られる。彼によれば、この「契約」は時間系列の中では確かに天地が創造された「後で」結ばれた。だから、「天地創造が契約の外的根拠だ」と言うことができる。だが、神が深い愛をもって祝福するという約束がなければ、天地創造の御業そのものも起こらなかったであろう。だから、「契約こそが天地創造の内的根拠である」と彼は言う。「初めに言があった。言は神と共にあった」というのは、そういうことではないか。

神の深い愛による約束、つまり「契約」が、一切に先立ってあった。これを、滝沢克己は「インマヌエルの原事実」と言い表した。この世のすべての現実の根底には、「神が共にいて下さる」(インマヌエル)という原事実がある、というのである。それがなければ、道端に転がっている石ころでさえ、そこには存在しなかったであろう。

では、「インマヌエル」とはどういうことか?

を思い起こして頂きたい。そこには、「イエス・キリストの誕生の次第」について、こう書いてある。「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(18-19節)。

ヨセフは「正しい人であったので」(19節)、夫である自分と関わりのない仕方で妊娠してしまったマリアを、どうしても許すことができなかった。人間の「正しさ」にはそういうところがある。「正しくない」人と一緒に生きて行くのは御免こうむる、といった狭量さだ。それに、この件が表ざたになれば、人から何を言われるか分からない。「正しい人」という評判をとっていた自分にも傷がつくだろう。そんな心配もあって、ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」。

ところが、主の天使がヨセフの夢に現われて、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」(20節)と言った。どうしても許せないと感じていたマリアを「迎え入れる」ことこそ神の意志だ、ということが示されたのである。

しかも、マタイはこれとの関連でイザヤ書の「インマヌエル預言」(23節)を引用した。このことは重要である。罪深い人間を神は赦し、受け入れる。そのようにして、神はどんな人とも「共にいる」(インマヌエル)。これが一切に先立つ神の意志なのである。イエスがその生涯を通じて明らかにされことは、このことにほかならない。

ヨハネは、実に「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」(4節)に、このことを書いたのであった。



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