「みことばに聞く」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

[子どものためのメッセージ]

昔、ユダヤの国にハンナという名の若いお母さんがいました。ハンナは、「赤ちゃんが生まれるといいなあ」と願っていたけれど、なかなか生まれません。でも、一生懸命お祈りしていたら、神様はとうとうその祈りを聞いて、赤ちゃんを恵んで下さいました。とても元気な男の子で、サムエルという名前をつけました。

サムエルがまだ小さかった頃、お母さんは、「この子は神様から頂いた子だから、神様のために捧げよう」と思いました。そこで、神様に仕える「祭司」のエリというお爺さん先生に預けました。神様のことをいろいろ勉強するためです。サムエルは一寸寂しかったけれど、お母さんが毎年小さな上着を縫って届けてくれるので、「母さんはいつも僕のことを思っていてくれるんだ」と、安心していました。

エリ先生には大きな男の子が二人いましたが、この息子たちはとても乱暴でした。誰かが神様にお供えする肉を焼いているところに通りかかれば、「うまそうな肉だ、俺たちによこせツ」と取り上げたりします。エリ先生は悲しい。「神様に仕えるわしの息子たちがこんな悪いことをするなんて」! でも、一緒に暮らしているサムエルが素直な子なので心を慰められます。この少年をとても可愛がっていました。

ある晩、歳とったエリ先生は、疲れて眠っていました。サムエルは少し離れた神殿でたった一人で寝ています。すると、「サムエル! サムエル!」という声が聞こえました。「はーい」と答えて先生のところへ行き、「お呼びですか」と言うと、エリ先生は驚いて、「いいや、わしは呼んでないよ。ま、いいからお休み」。

サムエルが自分の布団にもぐってウトウトし始めると、また声が聞こえました。「サムエル! サムエル!」。「はーい」と言って先生のところへ行くと、「おかしいなあ。わしは呼んでいないよ」。その後で、また同じことが起こりました。「サムエル! サムエル!」。「はーい」。これで三度目です。エリ先生は考えました。「ははあ、これはもしかしたら神様が呼んでいらっしゃるのかもしれない」。そしてサムエルに、「今度呼ばれたら『主よ、お話し下さい。僕は聞いております』と言うのだよ」と教えました。

それは本当に神様の言葉だったのです。神様は目には見えませんが、大切なことを言葉で話して下さいます。サムエルはその声を聞いて言われた通りにしました。大きくなってからは、神様と人々のために大切な仕事を沢山しました。

神様は、聖書や教会学校のお話しなどを通じて、皆さんに話しかけておられます。「サムエル! サムエル!」という声は聞こえないかもしれないけどね。一番大切なのはイエス様の言葉です。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。皆さんも、この言葉をサムエルのように注意深く聞いて下さい。


 
 

[成人参加者のための説教]

(ヨハネ福音書 1,1-5)

先程、私は子供たちにサムエルの話をした。聖書の神は目に見えない。手で触ることも出来ない。だが、言葉によって常に繰り返し我々に語りかける。そして終わりに私は、神の言葉の中心はイエスの言葉である、ということを指摘した。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 13,34)。我々は、大人も子供も、このみ言葉に聞かなければならない。

これと関連して、今朝は特にヨハネ福音書冒頭の聖句に耳を傾けよう。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1)。

文語訳聖書では、ここは「初めに言ありき。言は神と共にありき。言葉は神なりき」となっていた。最近、日本の政治家たちがこれをモジって盛んに「…ありき」という言い方をする。とくに、何かが既成事実として扱われることに反発する場合である。もちろん、ヨハネはそんな浅薄なことを言っているのではない。

ところで、ギュツラフという名を知る人は、今日ではもう多くないかもしれない。この人物は、1832年に東南アジアや中国を経て沖縄に上陸したドイツ人のプロテスタント宣教師である。尾張の漂流民から日本語を習い、1837年にはヨハネ福音書を初めて日本語に翻訳したことで知られる。

だが、彼は「初めに言があった」という冒頭の一句には苦心したらしい。結局、「ハジマリニ カシコイモノゴザル」と訳した。「カシコイモノ」には「人間の知恵を高く超えた神の知恵」というようなニュアンスがあるから、ギリシャ語の「ロゴス」の訳語として満更不適当でもない。ヨハネがその後に、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(3)と続けていることからも、「言」(ロゴス)には、我々が日頃しゃべり散らしているような軽い言葉とは似ても似つかない、深い意味があることが分かる。

ヨハネが「万物は言によって成った」と言うとき、彼は創世記第一章の「天地創造」の物語を念頭においていたことは疑えない。第一の日に、「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1章3節)。光は、「光あれ」という「言」によって成った。第二の日に、神は「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」と言われた。この「言」によって水に代表される「混沌」の力が制御され、万物が生存できる空間が成った。このようにして神の創造の業は続き、第六の日に神は遂に人間を創造された。万物は「言」によって成った。成ったもので、「言」によらずに成ったものは何一つなかった。

そうだとすると、この「言」は単なる「言語」ではない。「言」とは、人間には思いもつかない神の深遠なる知恵であり、生きとし生けるものの生存と保持を望む神の不動の意志であり、それを実現させる神の命の力である。「言の中に命があった」(4)と言われるのも、そのためである。つまり、この世界の一切に先立って、それらを成り立たせる根底に、このような「言」がある。「ハジマリニ カシコイモノゴザル」!

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