「将来と希望」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します
2000・1・2

「将来と希望」

村上 伸
エレミヤ書 29,4-14 ;マタイ 7,7-12

「日々の聖句」によると、2000年の年間標語は「わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ書29,10-14)である。この年の最初の礼拝は、この聖句について語ることにしたい。

 

歴史的背景について先ず説明しよう。――紀元前605年にバビロニアのネブカドレツアル王が即位してから、彼は度々ユダ王国を脅かし、597年にはエルサレムを陥れてヨヤキン王と重要人物をバビロンに強制連行した。第一次「バビロニア捕囚」である。ヨヤキンの後に即位したゼデキヤ王はバビロニアに反逆、このため、ネブカドレツアル王は一年半の包囲の後、586年エルサレムを落とし、ユダ王国はここに滅亡する。王家の者たちと重要人物は処刑されたり、バビロンに強制連行されたりした。これが「第二次バビロニア捕囚」である。この民族的苦難は、539年に新興ペルシャ帝国のキュロス王によって捕囚の民が解放され、故国に帰還することを許されるまで、約半世紀の間続く。エレミヤは正にこの時代に預言者として活動していた。

この29章は、エレミヤがエルサレムからバビロンに捕囚となっている人々に宛てて書き送った手紙である(29,1)。この中には非常に興味ある叙述が見られるが、特に、4節以下に目を留めたい。

ここで彼は、「捕囚も長くは続くまい」という、預言者や占い師たちの甘い希望的観測に騙されないようにと戒め、むしろ、この現実の中で腰を据えて着実な生活するようにと勧めている。「家を建てて住み、園に果樹を植え、妻をめとり、子供をもうけ、人口を増やしなさい」というのだ。単に経済活動のことを言っているのではない。問題は人生の根本的姿勢に関している。及び腰であってはならず、積極的でなければならない。また、「町の(=バビロンの)平安を求め、その町のために主に祈りなさい」(7)と言う。現地の人々を敵視せず、彼らと平和に共存する生き方を真剣に追求せよ、ということである。

明治の頃、北海道に派遣された屯田兵たちは、直ぐにも「内地」に帰ることを願う余り、家も本格的な建築にしなかったと聞いたことがあるが、そういう風にではなく、腰を据えた積極的な生活をせよ。

そしてエレミヤは、彼に示された神の言葉を伝える。「バビロンに70年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(10)。これは神の計画、しかも災いの計画ではなく平和(シャローム)の計画であって将来と希望を与えるものだ(11)、と言う。この中に、今年の年間標語があるのである。「わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。

エレミヤは、あの当時の「バビロニア捕囚」という現実を、甘い希望的観測を持たずに厳しく見つめていた。これは長く続く、70年は続くと腹を決めていた。つまり、70年が人間の一生の寿命と考えられていた時代に、今の世代の内に解決はつかず、次の世代に持ち越されるだろう。この現実をごまかさない。それと直面する。エレミヤが言ったことは、そういうことである。今の日本の政治家たちが、取り繕った曖昧な言い方で現実をごまかしているのとは、大いに違う。

それでは、現実に打ちひしがれて絶望しているかというと、決してそうではない。神の約束、シャロームの約束を固く信じて、その信仰に基づいて希望を持っていた。神の約束は必ず実現される。そこから彼は将来を見ていたのである。

 

大晦日の毎日新聞に、恒例の「いろはカルタ」が載っていた。ロ・「論より空爆」(NATOのユーゴ空爆)、ハ・「バケツで臨界」(東海村の臨界事故)、ヘ・「米後の守りガイドライン」(米軍の後方支援)、チ・「チリも積もらぬゼロ金利」、ヌ・「ぬかに釘の地域振興券」、ル・「ルノーにひかれた日産自動車」、ヲ・「老いらくの職探し」、ワ・「割れ鍋に自自公」、カ・「壁に耳あり通信傍受法」、ソ・「袖の下の五輪」、ラ・「落下老石、震撼線」(新幹線のトンネル事故続発)、ム・「無法マラッカ命懸け」(海賊)、ノ・「ノックはアウト、クリントンはセーフ」、オ・「親の殺意子知らず」、フ・「不祥事底無し神奈川県警」、テ・「天の声も金次第」(法の華三法行)、ア・「青菜にダイオキシン風評被害」、キ・「キルギスでキリキリ舞い」、メ・「目出せ腹出せ金返せ」(悪徳商法)、モ・「もろくも倒壊トルコ台湾」、等々。明るいテーマは数えるほどしかなかった。

こういうものには、意外に時代の本質が現れる。今、我が国では、先が見えない昏迷が支配していて、「おめでとう」どころではない、というのが国民の本音ではないか。

 

だが、にもかかわらず、我々は矢張り「おめでとう!」と言うのである。この現実の中で、我々はいたずらに嘆いているばかりではいけない。シャロームを約束して下さった神が、我々に将来と希望を与えると言われる! 「わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」。このエレミヤの言葉は、そういう意味ではないか。

 2500年の時の隔たりを超えて、それは現代日本に生きる我々にも語りかけるものを持っている。この信仰において、現実を甘く見ることもなく、と言って打ちひしがれもせず、着実に歩んでいきたい。



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