義のために迫害されている人は幸いである"
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、八福の教えの中の
”義のために迫害されている人は幸いである”ということを考えてみました。八福の教えの最後は、
「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」というものです。「義」というのは、正義の義のことですが、聖書では単なる正しさということではありません。それは神様の正しさのことです。そして11節と12節は、10節の説明です。そこでは、「わたしのために」とイエス様は言ってらっしゃいます。つまり、「義」とはイエス様のことと言うこともできるわけです。
イエス様を信じたために人から馬鹿にされる。クリスチャンになったために人からのけ者にされる。そういう事があります。そして更に、迫害という、イエス様を信じる者でさえも二の足を踏むような事態に置かれることが信仰生活にはあり得るのです。しかし、そういう中で、イエス様は、「喜び、よろこべ」と言われました。実に変な言葉です。イエス様は気休めを言われたのでしょうか? いいえ、そうではありません。それは変でも気休めでもありません。なぜなら、「天国」とはそういう人のものであり、「天では大きな報いがある」からです。
この御言葉は、私たちがどこを見て歩んで行くべきか、ということを指し示していると思います。つまり、この世を目標にして歩んでいくのか、それとも天国を目標にして歩んでいくのかということです。あるいは、私たちが何を信じて生きていくのか。この世を信じていくのか、それとも全知全能のイエス様を信じていくのかということです。
そういう中で、イエス様に付いて行こう、イエス様を信じていこうとする。そうすると、時にはイエス様を信じていない人から誤解を受けることがある。さらに、時にはそれが「迫害」とまでは言わないにしても、馬鹿にされ、悪口を言われることがあるかも知れない。そうイエス様は言っておられるのです。
しかし、そこで終わりなのではありません。続けて言われます。
「天国は彼らのものである」「喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい」と。
天国とは何でしょうか。・・・「天国」とは「神の国」とも言われますが、それは、「神の支配」という意味です。そしてそれは、イエス様と共にこの地上にやってくるものです。つまり、イエス様がおられるところが天国です。ですから、天国は、この地上で既に始まっているのです。
すると、こういうことになります。・・・イエス様のために、迫害を受け、誤解をされ、馬鹿にされ、悪口を言われるとき、イエス様が共にいて下さる。天国が共にある。そして、大きな報いがある。だから、大いに喜びなさい。つまり、幸せの基礎は心の態度です。心がいつも天国に向いている人は、どんな状況の中でも、幸いな人と呼ばれる人生を生きることができるのだということです。イエス様が示して下さった天国市民の「八福の教え」を黙想し、私たちがこの教えに従って生きていくなら、私たちは神様の御業を経験し、神様が与えて下さる至福の恵みを味わうことができるでしょう。
今日の一言: 義のために迫害されている人は幸いである平安鶴田健次
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