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苦しみの意味

99・3・28苦しみの意味イザヤ 53,1-12; ルカ 23,26-43 今週は受難週である。今日が、イエスが十字架につけられるためにエルサレムの町に入った日、民衆が棕櫚(又は「ナツメヤシ」)の枝を手に持って迎えた所から「棕櫚主日」(英語ではPalmsunday)の名がある。今週の金曜日が「受苦日」、来週の日曜日が復活日だ。 受難週にちなみ、特に、旧約聖書のイザヤ書53章について話す。普通は、福音書の該当個所を取り上げる所だが、イエスの生き方の背後には旧約聖書の思想や信仰が強く流れているので、今日はその点からイエスの苦しみの理解を試みたい。  イザヤ書40-55章は、1-39章とは別の預言者の言葉を集めたもので、一般に第二イザヤと呼ばれている。第一イザヤでは正義と公平を求める厳しい

復活の信仰

99・4・4復活の信仰エゼキエル書 37,1-14; 第一コリント 15,1-11 イエスの復活について述べた個所は、新約聖書の中に多くある。最古の福音書マルコは、「空虚な墓」の物語を伝えているし、他の福音書にはいずれもドラマチックな話がある。特にルカの「エマオ途上のキリスト」と、ヨハネの一連の物語が良く知られている。 今日読んだ個所のうち、特に3-5節は、それらの資料の中で最も古いものである。コリントの信徒への手紙自体は54年頃書かれたと言われているが、その時パウロは既に、教会の中に広く受け入れられていたこの伝承を知っていた。だから彼は「受けた」(3a)、と言ったのである。かなり古い伝承と考えていい。 この簡潔な言いまわしは、おそらく覚えやすいように、韻を踏んだ形で伝えられていた。

キリストの復活がなかったら

99・4・11キリストの復活がなかったらヨブ記 19,23-27; 第一コリント 15,12-19 先週の復活主日に、私は、「キリストが三日目に復活したこと、ケファに現われ、その後12人に現れた」(5-6)という最古の伝承について語り、特に「現れた」という言い方について、それは「イエスの事柄が継続される」という意味であると述べた。 イエスの事柄とは、彼がその生涯を賭けて明らかにした事柄のことである。すなわち、悪が支配しているようにしか見えないこの世界に「神の国が来る」という福音である。神の真実の支配が確立する。真実が偽りに、生命が死に、そして光が闇に勝利する。必ずその時が来る。この福音こそ、イエスの生涯を賭けて明らかにした事柄であった。これはイエスの十字架上の死によっても終わりはしない。

霊の体に復活する

99・4・18霊の体に復活する創世記 2,4-9; 第一コリント 15,35-49 十字架につけられて死んだイエスが、三日目に復活したと聖書は語る。それは、単なる肉体の蘇生ではない、イエスが生涯を賭けて明らかにしようとした事柄が継続されるということだ、と私は何度か繰り返して述べた。そしてこの事は、イエスにおいて起こっただけではなく、彼を信じて生きる私たちの上にも起こることである。 イエスは私たちの初穂として復活した。だから私たちも復活する。彼の事柄は継続される。それと共に、そのことにおいて、私たちの事柄も継続される。神の真実の支配がこの世界の中に来る、神の国は近づいているという彼の福音。最も小さい者たちに向けられた彼の愛。それを信じる私たちの信仰。この信仰においてなされる私たちの日ごと

死は勝利にのみ込まれた

99・4・25死は勝利にのみ込まれたイザヤ書 25,6-10; コリント第一 15,50-58 イエス・キリストは復活した。 イースターの日の礼拝で、私はコリント第一15,1-11をテキストにして説教し、「現れた」という言葉の意味について述べた。イエスが生涯を賭けて明らかにした事柄が継続する。このことが弟子たちに信じられた、ということであると。その際私たちの目は、2000年前に起こったことは何であったのかと、過去に向いていた。 その後私は、復活の信仰が私たちの現在の生き方を変えるということについて語った。復活を信じることは、私たちの現在に関わるのである。彼は今、目には見えないけれども、天で生きている。彼は「神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださる」(ローマ8,34)とパウ

もはや戦うことを学ばない

99・5・2もはや戦うことを学ばないイザヤ書 2,1-5 ; ヤコブ書 4,1-10 イザヤは紀元前8世紀のユダヤの預言者である。 当時のユダヤは、北王国イスラエルと、南王国ユダに分裂していた。イザヤは南王国ユダの都エルサレムで、「ウジヤ王が死んだ年」(6,1)に、これは紀元前739年のことだと考えられているが、預言者としての活動を開始した。 ウジヤ王は、産業と経済を盛んにし(=景気を良くし)、多くの建築物を作り(=箱ものを建て)、近隣諸民族を勢力下に収めて貢ぎ物を差し出させた。つまり、世間的な意味では有能な、従って「良い王様」であったが、よくあるように思い上がり、傲慢になって、祭司たちから祭祀権を奪い、晩年は重い病気にかかって苦しんだという。 この王の死後、イザヤは預言者としての召

「キリストによる平和」

99・5・9「キリストによる平和」鈴木伶子出エジプト記 20,1-17; エフェソ 2,14-22 出エジプト記20章 モーセの十戒に次のように書かれている。 3節「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」 4節「いかなる像も作ってはならない。」「それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない。」 12節以降 人との関係で、「両親を敬え」「殺すな」「姦淫するな」などの教えがある。 初めの4つの律法に書かれているような、神との関係が本来的関係にある時に、5つめからの律法に書かれているような人との関係も本来あるべき関係になる。 かつて、日本は韓国を植民地とし、その土地を奪い、名前を変えさせ、韓国の女性を「慰安婦」として心身ともに深い傷を負わせた。その原

「幸いな人」

99・5・23「幸いな人」村上 伸詩編 23編; マタイ 5,1-12  みんなは、どんな時に「ああ、幸せだなあ」と感じるだろうか。 大好きな友達と一緒にいる時。入学試験に合格して、希望した学校に入れた時。多分、一番身近に感じるのは、お母さんが作ってくれたカレーとか、大好きな食べ物が出た時だろう。みんなニコニコしている。私は、皆で一緒に食べるすき焼きなどが嬉しい。特に、だんだん煮詰まって来た所へうどんの玉を入れて、味の染み込んだのをフウフウ言って食べる時なんか、とても幸せだ。チーズ・フォンデユの時なども、みんなが食べ終わった後、最後に鍋を抱えて、底にこびりついたチーズをスプーンか何かでこそぎ落として食べる時など、もう最高だ(誰だ、よだれを垂らしているのは?)。 でも、幸せだなあと思っ

「正義のゆえに高くされ」

99・6・6「正義のゆえに高くされ」村上 伸イザヤ書5,8-16 ; ローマの信徒への手紙 11,28-36  イザヤは紀元前8世紀の南王国ユダ(2700年余り前)の預言者である。前回も述べたように、彼は当時の政治家や宗教家の堕落を厳しく批判したが、今日の所では批判の矛先は経済の実権を持っていた富める都市貴族に向けられる。 昔も今も、実際に世の中を動かしているのは経済である。 例えば戦争は、通例、大義名分を掲げて行われるが、石油・農産物・景気回復などの経済的な事情が支配的な動機であることは、既にヤコブの手紙が指摘している通りだ(4,1-3)。ナチス・ドイツがドイツ民族の「生存圏」を東の方に拡大するためにポーランドや旧ソ連に戦争を仕掛けたように、そして我が国が「満州は日本の生命線である」

「残りの者」

99・5・30「残りの者」村上 伸イザヤ書4,2-6 ; ルカによる福音書21,7-19  この所、我々は紀元前8世紀の預言者イザヤの言葉を学んでいる。今から2700年も前のことだが、現代に当てはまることがあまりに多いので、私は心を打たれている。彼は、その頃の母国(南王国ユダ)の有り様に心を痛めていた。政治家は頼りない。そして、宗教家は堕落していた。彼らは「主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向け」(1,4)て、形式的に儀式(供え物や犠牲)を行うだけで、最も助けを必要としていた孤児や寡婦の苦しみを見過ごし、搾取する者を手厚く遇していた。この本末転倒をイザヤは激しく批判し、3章ではエルサレムとユダに対する神の審きを預言する。 このように神の裁きが来ることを預言しながらも、イザヤは全く絶

「神が共におられる」

99・6・20「神が共におられる」村上 伸イザヤ書 7,10-17 ; ローマの信徒への手紙 8,31-39  「インマヌエル預言」と題されている今日の個所は、14節がマタイ福音書1,23のクリスマスの記事に引用されていることもあって、特別にイエス・キリストとの関連で読まれることが多い。しかし、この個所の背景には紀元前8世紀の固有の歴史的事情があり、我々は先ずそれを理解するところから始めなければならないだろう。  イザヤが預言者としての召命を受けてから間もなく、紀元前738年、超大国アッシリヤのテイグラト・ピレセル王はパレスチナ地方に進出し、北王国イスラエルにも多額の貢ぎ物を要求してきた。イスラエル王ペカは、これに対抗するために、ダマスコ(シリヤ)と反アッシリヤ同盟を結んだ。この軍事同

「聖なる神」

99・6・13「聖なる神」村上 伸イザヤ書 6,1-13 ; 使徒言行録 9,1-9  ここには、預言者イザヤが召命を受けた時のことが書いてある。 「召命」とは皆さんにとって聞きなれない言葉かもしれないが、キリスト教会では良く使われる。「神にされて」、「使を授けられる」ことを言うのである。 神学校に入る人は「召命の自覚があるかどうか」と問われる。「召命感」が何よりも重要だというわけである。私が東京神学大学の入学試験を受けた時も、小さな召命経験はあったから、試験の成績(特に聖書の試験)は余り良くはなかったけれども割に平気だった。面接の時に、並み居る先生方からその点をつかれた。「君は、聖書の試験がまるでできていないじゃないか」。私は、「だから、それを勉強するために来たのです」と応じて、彼ら

「神のみを畏れよ」

99・6・27「神のみを畏れよ」村上 伸イザヤ書 8,9-15 ; マタイによる福音書 10,26-31  若い頃、恩師の鈴木正久牧師が、「神の他何者も畏れず、罪の他何ものも恥じず、イエス・キリストとその十字架の他何ものも誇らない人間が十人いたら、世界は動く」という言葉を教えてくれたことがあった。1739年にメソジスト教会を創始した英国の伝道者ジョン・ウエスレイの言葉だという。これは私の心に深く刻まれた。 ウエスレイが「恐れ」と「恥」と「誇り」の三つを挙げたのには深い意味があると思う。というのは、この三つはしばしば我々の行動を決定する要因となり、また、我々の人格を規定するからである。 親や教師への「恐れ」が人の行動パターンを決めるというのはよくあることだし、「恥意識」が過ぎるとその

「死の陰の地に輝く光」

99・7・4「死の陰の地に輝く光」村上 伸イザヤ書 9,1-6 ; マタイによる福音書 4,12-17 今日のテキストは、マタイ4,12-17にほとんどそのまま引用されている。イエスが伝道を始めた頃、ガリラヤ湖と地中海に挟まれたゼブルン、ナフタリの地方に姿を現し、「湖畔の町カファルナウムに住まわれた」(13)ことに関連して、マタイが記したコメントである。 この地方は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれているように、神殿があるエルサレム、つまりユダヤ教の中心であるエルサレムからは遠く離れた辺境の地であった。イエスは、この日の当たらないような場所であるガリラヤで先ず宣教活動を始めたのであり、貧しさや病気のために「暗黒の中に」いた人々に「神の国が近づいた」という福音を宣べ伝え、光をもたらした。そのこと

「神のまっすぐな道」

99・7・11「神のまっすぐな道」村上 伸イザヤ書 40,1-5 ; ルカによる福音書 3,1-6 この所、しばらくイザヤ書に「はまって」いた。水曜日の祈り会もイザヤ書の素読、日曜日の説教テキストもイザヤ書。ある人に、「この頃なぜ旧約聖書ばかりですか」と聞かれた。 一つの理由は、イエスのメッセージを理解するためには、旧約聖書をもっと深く知ることが不可欠だからだ。新会堂で礼拝をするようになってから、先ず 最古の福音書であるマルコについて、その後は「主の祈り」について連続の説教をしてきたが、その間私は、いつか旧約聖書について説教したいと思っていた。イエスはユダヤ人である。律法の解釈をめぐって当時のユダヤ教指導者たちと対立した結果死刑に処せられたとはいうものの、彼は旧約の律法を「廃

「イエスの言葉に従って」

99・7・25「イエスの言葉に従って」村上 伸イザヤ書 12,1-6 ; ルカ福音書 5,1-11  これと良く似た話がヨハネ 21,1-14 にある。 夜通し漁をして何も取れなかった弟子たちに、同じように夜が明ける頃、イエスが現れたという。ただ、ルカの方では生前のイエスだが、ヨハネでは復活の主となっていて、この点は違うが、構造はほとんど同じだ。おそらくルーツは同じで、背景には「復活の信仰」がある。 ルカは、十字架と復活の出来事の50年ぐらい後でこの福音書を書いたわけだから、生前のイエスの物語も、「復活の信仰」に基づいて書いたことは当然だ。 イエスは苦しむ人々に「恵みの年を告げる」ことを自らの使命として、そのことを言葉と行いを通して実証した。最後は、そのために自らの命を捧げた。ここに

「主の恵みの年を告げる」

99・7・18「主の恵みの年を告げる」村上 伸イザヤ書 61,1-4 ; ルカ福音書 4,16-21  前回、この福音書の著者は独自の歴史観に基づいてこの福音書を書いた、と述べた。例えば、マルコにはまだ濃厚に残っていた終末論が後退し、その代わりに歴史は相変わらず続くという意識が前面に出て来る。3章の冒頭で歴史的な時と場所を確認しているのも、そのためである。今やこの地上の歴史の中に、「教会の時」が始まった。これがルカの基本的な見方である。このことを確認した上で、話を進めたい。 さて、イエスは故郷のナザレに来た。そして、「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」(16)。  ユダヤ教の会堂における礼拝とは、どのようなものだろうか。 私はスイスのバーゼルで一

「新しい革袋」

99・8・1「新しい革袋」村上 伸イザヤ書 2,1-5 ; ルカによる福音書 5,33-39  祈りと施し、それに毎週二回の断食は、熱心なユダヤ教徒の宗教的慣習であった。しかし、イエスの時代、それは既に偽善的な習慣と化していたことは、マタイ6章などからも知られる。この偽善を、イエスはわざと飲んだり食べたりするというパフォーマンスによって批判したが(33)、さらに深い所には、「主の恵みの年」が来ているというのに嘆きの徴である断食をいつまでもしているわけにはいかない、という認識があったのである(34b)。 「新しい服から破り取った布」(36)とは、まだ晒していない布のことで、洗濯した時にひどく縮むために、縮むだけ縮んでしまった古い服に縫い付けることはできない。また、「新しいぶどう酒」という

「貧しい人々は幸いだ」

99・8・8「貧しい人々は幸いだ」村上 伸エレミヤ書 17,5-8; ルカ福音書 6,20-26  イエスのこの言葉に対して強い拒否反応を示す人は、少なくはないであろう。 8月6日付の毎日新聞夕刊に、西アフリカ・ギニアの、二人の少年の記事が載った。2日の早朝、ブリュッセルに着いたサベナ航空機の着陸装置(車輪?)付近から、この二人は凍死体で発見された。飛行中の外気温は氷点下55℃にも達するというから、無謀なことをするものだと思ったが、良く読んでみると、この14歳と15歳の少年は、手書きのフランス語の手紙を、大事に包んで懐中に忍ばせていた、という。 「ヨーロッパの指導者の皆さん、僕たちは貧しさと戦闘に苦しんでいます。十分な食糧も教育も受けられないままです。僕らもヨーロッパのみんなと同

「喜びの理由」

99・8・22「喜びの理由」広石 望フィリピ4,4-9 I教会は、十字架にかけられて殺害されたナザレのイエスが、彼の生前の弟子たちを中心とする何人もの人間に「生ける者」として現れたという経験、いわゆるイースターの出来事をきっかけに成立しました。先ほどお読みした『フィリピの信徒への手紙』を書いたパウロもまた、そのようなキリスト顕現を直接に体験しています。しかもその出会いは、皆さんもご存知のように、彼が熱心なファリサイ派のユダヤ教徒として、キリスト教徒を迫害していた真っ最中のことでした。その時パウロは、「私はあなたが迫害している(ナザレ人)イエスである」という復活者の声を聞いた、と『使徒言行録』は記しています(使9,5; 22,8; 26,15)。パウロは生前のイエスに会ったことはありません。で

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