出エジプト記20章 モーセの十戒に次のように書かれている。
3節「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」
4節「いかなる像も作ってはならない。」「それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えてはならない。」
12節以降 人との関係で、「両親を敬え」「殺すな」「姦淫するな」などの教えがある。
初めの4つの律法に書かれているような、神との関係が本来的関係にある時に、5つめからの律法に書かれているような人との関係も本来あるべき関係になる。
かつて、日本は韓国を植民地とし、その土地を奪い、名前を変えさせ、韓国の女性を「慰安婦」として心身ともに深い傷を負わせた。
その原因に、神ならぬものを拝むと言う問題があった。
日本が朝鮮半島を植民地にして、内鮮一体化をもくろんで「皇民化政策」を進めた時、最も強く抵抗したのはキリスト者だった。
かねてからキリスト教主義学校などに天皇を奉った神社を参拝するよう強制し、従わない学校は閉鎖するなどの、強硬手段をとっていた総督府は、1938年9月、一番強く抵抗していた長老教会に対し、神社参拝を強要した。朝鮮各地からピョンヤンでの長老派教会総会に集まった代議員は、村を出る時に「神社参拝に賛成しなければ二度と村に戻れないと思え」と脅され、一人の朝鮮人牧師に対し二人の警官が付くと言う状況であった。
総会の2日目、9月10日、神社参拝の件が提示されると、一人の宣教師が反対を叫びかけたが、即刻捕まえられて退場させられ、神社参拝決議が決定された。
私はまさにその日に生まれるという不思議な巡り合わせの下にある。日本で一人の牧師が初めて子どもの誕生を喜んでいた同じ時間に、隣国では大勢の牧師が、死ぬほどの辛い思いをしながら、神社参拝を強要させられていたのである。
神社参拝をあくまで拒否した牧師や信徒もいた。朱基徹牧師はその中でも最も有名な人である。あくまで神社参拝を拒否する牧師に対し、教会員の中には逃亡を薦める人もいたが、
朱基徹牧師は主を否むことを拒否し、教会員は集まって祈祷会をして、捕まえられ投獄され再び合うことが出来ないと思われる牧師を送り出した。そのありさまはゲッセマネの園を思わせる光景だったと言う。
日本の教会は、政府にたてついて弾圧されることを恐れ、「神社は宗教ではない」という言い訳を使い、朝鮮の教会弾圧に荷担した。
日本の教会は、天皇を神だと言うことは注意深く避けながらも、神にごく近いところに天皇を置くと言うぎりぎりの道を選択することで身を守ったといえる。しかし、この選択は「神のみを唯一の神とする」という神の命令に背くものであった。
数年前の春、私はYWCAの「ひろしまを考える旅」の委員たちと歴史の勉強のために韓国を訪問した。韓国YWCAが日本YWCAに併合される歴史の話を聞いたり、三一運動ゆかりのパゴダ公園に行ったりし、まだそのころはあまり知られていなかった「慰安婦」問題について尹貞玉さんから話を聞いたりしたが、中心的なプログラムとして計画したものが「独立記念館」の見学であった。これは、日本の教科書が植民地支配に付いて書かないことに抗議して建てたもので、100万坪という広大な敷地に7つの大きな展示館があり、第一の館は豊臣秀吉の侵略に始まり、七館の独立にいたるまで、全てが日本による残虐な統治に関する展示に満ちている。
韓国YWCAが何台かの車を用意してくれて分乗したが、私が案内された車には、韓国YWCAの会員という人がハンドルをにぎり、韓国YWCA幹事のほかに、日本に住んでいたことのある女性が通訳として乗り、そして私と言う4人が乗った。英語を中心に、日本語と韓国語が混ざる会話が弾み、私も今回の旅の目的などを話した。特に、私が韓国に深い関心を持つきっかけになったこととして、学生時代に国際会議で出会った韓国人学生から日本人への憎しみを祈りによって乗り越えて許されたこと、私が生まれた日が神社参拝決議の日であるという巡り合わせのことなども話し、韓国YWCA幹事からは、日本の若い人との交流プログラムを進める提案なども出て和気藹々と会話が弾んだ。
ところが韓国特有の穏やかな山並みが連なっているのを見ながら、日本に住んでいた女性が、韓国の景色を自慢し、日本の景色はすべてとげとげしいと貶し始めた。
するとそれまで黙ってハンドルを握っていた女性が、突然「許し合いながら行きましょう」と言った。そして「私は朱基徹の孫です」と話し始めた。尹命善と名乗るその女性は、お祖父さんを日本に殺され、日本を憎むというより日本が恐くてならず、梨花女子大の学生会長の時も、日本からの客を歓迎することを断固拒み、学校側から強く説得されても断固拒否したほど、日本嫌いで有名だったという。しかし、私たちが韓国に行く直前に尹命善さんは米国からの帰りに大阪に一泊せざるをえない羽目になり、大阪見物に連れて行かれたという。その途中で、ある神社の前をとおりかかると、案内をしていた友人が神社の中に入っていき、しかも神社の拝殿の前に下がる綱を握り、「こうやって願いを言うの」と、尹命善さんにも同じ事をさせた。後になって考えると、神社の拝殿に参ることは信仰厚い韓国キリスト者が、なぜそのようなことをしたのか理解に苦しむことだが、その時はいわれるままに綱を握ってみた。すると、後でどう考えても納得しがたいことだが、「あなたのほうから許しなさい」という声が聞こえ、止め処もなく涙が流れたという。それが一体何なのか、どうしてそのようなことが起こったのか、訳が分からないままに韓国に戻り、もしあの声が神の声ならその徴を与えて下さいと祈っていた。すると韓国YWCAからの依頼で、日本から来る人を案内してくれと言われ、今日こうして運転してきたら、その日本人がさっきから話していることが、自分の心の怒りを解き、恨をはらしていくことを感じたという。
尹命善さんは、次のパーキングエリアに来ると車を止め、私を抱きしめ「これで私は日本人を許すことが出来る」と言った。私は、目の前にいるのが、日本人が殺したあの有名な朱基徹牧師の孫であるという驚きに打たれ、さらに日本人である自分が相手のお祖父さんを殺したという、どのように詫びても許されない事実の前に、呆然としてしまい、しかも韓国語が出来ないというもどかしさの中で「許して下さい」という言葉を繰り返すだけであった。
その後、尹命善さんは私にとって大切な友人になり、私が韓国に行くと必ず聞きつけて会いに来てくれるようになった。今年のお正月は3日間付き切りで歓迎してくれ、その訳を聞いた彼女の友達が、あの韓国菓子の籠を届けてくれたのである。
私はこの事すべてが深い神の導きによるものと思う。そして、エフェソの信徒への手紙2章のことばが深く響いてくることを感じる。
エフェソの人々は高い文化を持ち、経済的にも繁栄していた。しかしエフェソの人々は外見上の繁栄にもかかわらず心の奥には人知れず空しさを感じていたのではないかと思われる。町の中心に聳え立つ壮大なアルテミスの神殿は金もうけと売春の場になっていた。
キリスト者たちも割礼を受けていないという理由でユダヤのキリスト者からは軽蔑され、「この世の中で希望を持たず」暮らしていた。1章でパウロは、彼らが「このよをしはいするもの、すなわち空中に勢力を持つもの」を信じ、「肉の欲望の赴くままに生活し肉や心の欲するままに行動していた。」と言っている。
かつての日本も「脱亜入欧」を唱え、近隣の諸国を軽蔑し踏みにじって、経済的・軍事的強国になろうとしていった。その中で、キリスト者もまた神のみを神とするという一番大事な点を失い、隣人を殺すことに荷担していった。
日本は望み通りに豊かで強い国になったが、近隣諸国の人々はそこから生じた敵意を未だに持ち続けている。
エフェソの人々と同じ生き方と言える。
そのようなエフェソの人々、そして日本に暮らす私たちに対してパウロは「実にキリストは私たちの平和であります。」と言い、さらに「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意と言う隔ての壁をとり壊した。」と言う。
壁が打ち壊され敵意が取り去られる鍵は「キリスト」という言葉である。
豊かで強い国を作りながら、心の底に暗さを抱え、周囲の人との間に壁を築いていたエフェソの人々、そして私たちの中に、キリストが来たもう。権力も、富も持たずに。
マタイ受難曲で十字架に付いたイエスに捧げるソプラノのレシタティーボがある。
「主は、私たちすべての者のために良いことをして下さった。
目の見えない人には見える力を与え、
足の不自由な人には歩む力を得させ
私たちには父も御言葉を語り
悪魔を追い払われ、
悲しみにくず折れる人を引き起こされ、
罪人を受け入れて下さった。
我がイエスは、その他のことを何もなさらなかった。」
それに続くアリアはマタイ受難曲の中心ともいわれる美しい曲である。
「愛のゆえに我が救い主は死につき給う。
何一つ罪と関わるところが無いのに。
それは、永遠の滅びと裁きの刑罰とが
私に残らぬようにするため」
何の罪も無い人が苦しむ人の下に来て、自分も徹底的に低くなり、人に仕え、その結果、みずからも殺される。
それは、かつての、そして今の日本が神のみを神とすることを捨てて、力による安全や自分の快適な暮らしを保証するための豊かさを求めている姿のまさに正反対の生き方である。
しかし、私たちの心を本当に深く揺り動かすのは、何一つ悪いことをしない人が苦しむことである。
そのイエス・キリストによってのみ、本当の和解と平和が与えられた。
祈り
私たちに命を与え、常に導き、共にいて下さる神様。
あなたの深い恵みに感謝します。あなたは御子を遣わして私たちを囲む暗い牢獄の壁を打ち砕き、あなたの光へと導き出して下さいました。また、私たちに他者と共に生きる喜びを与えて下さいました。
今も私たちの愚かさのために、この世界のいたるところで正義と平和が損なわれ、無実の人が殺され、人権が踏みにじられています。あなたの憐れみによって生かされている者であるにもかかわらず、あなたにのみ信頼することを忘れ、隣人を傷つけている罪をお許し下さい。あなたが、それらの苦しむ人の中でも最も貧しく最も弱い人の中にいらっしゃることを信じ、そのあなたに信頼して、正義と平和のための働きを遂行していくことが出来ますように。
私たちが、終わりの日に向かって、一時的なものに目を惑わされること無く、真実なものに目を留めていくことが出来るよう、聖霊の助けをお与えください。
この祈りを私たちのために命を捨てて下さった主イエス・キリストの御名によって長下げします。アーメン」
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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