Followers of Jesus Christ-Iamachristian.org
「私はあなたの救いを見た」

 世間では、12月25日が過ぎると、まるで「クリック」したようにクリスマスの飾りや音楽は消えて、一斉に歳末風景に切り替わる。しかし、教会の伝統では1月6日が顕現祭(エピファニー)であって、それまではクリスマスの喜びは持続する。規則というわけではないが、クランツもツリーも顕現祭までは概ねそのまま残される。今日の説教でも、引続きイエスの誕生に関連して語りたい。 母マリアは、イエスの誕生の不思議な経過を、「すべて心に納めて、思い巡らしていた」(2,19)という。父ヨセフも同様であったろう。これは、単に「自分たちに子が与えられた」という個人的な感動ではない。このようにして生まれた子が、将来この世界に対して大きな意義を持ち得るかもしれないという、一種畏敬にも似た感情を抱いたから、いろいろと「思い巡らし

「心を見る神」

I皆さん、明けましておめでとうございます。2003年版の『日々の聖句』は、サムエル記上16,7の印象深い言葉:「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」を年間聖句として掲げています。新しい年の初めに当たり、この言葉が今の私たちに対して持っている意味を問いつつ、ご一緒に聖書に耳を傾けたいと思います。II「主は心によって見る」がキーセンテンスでしょう。では「心」とは、どのようなものでしょうか。「心」は非常に大切であるが、きわめて捉えがたいものでもある、というのが私の第一印象です。 およそ人間は――それが開かれた心であろうと、閉じられた心であろうと――心なしには生きてゆけません。心のふれあいを欠いた心は、心とは言えません。そのような人は、むしろ〈生ける屍〉です。その意味で「心」は、人間が他者

「命の息が入る」

前回「ヨハネの黙示録」について説教したのは10月20日であった。その後、「宗教改革記念日礼拝」、「召天者記念礼拝」、「家族音楽礼拝」などが続き、そうこうする内に「待降節」に入ったため、二ヶ月以上も黙示録からは遠ざかっていたことになる。 久しぶりに黙示録をひもといてみると、改めてその難解さに閉口する人も多いのではないか。そこで、念のために全体の筋道を再確認しておきたい。 第一世紀の終わり頃、小アジア(今のトルコ西部)地方に散在する初代のキリスト教会はローマ帝国の迫害を受けていた。その中で、指導者のヨハネもパトモス島に幽閉される。いったい、悪しき支配者に牛耳られたこの世界はどうなるのか。そして、その支配下に置かれた教会の将来はどうなるのか。2000年後の我々が戦争やテロの不安に怯えているよう

「主なる神の統治」

 イラクで雲行きが怪しい。アメリカは、世界の良識的な声にも耳を貸さずに圧倒的な軍事力を湾岸地帯に集結しつつあり、その中でフセイン大統領も強硬姿勢を崩そうとしない。北朝鮮でも、金正日総書記とその側近が激しい勢いで反米の世論を煽り立てている。今にも戦争が始まりそうな、危険な情勢だ。 こうした状況の中で関係国のマスコミは高飛車になる一方である。「朝鮮中央テレビ」のニュースが日本でもしばしば紹介されるが、アナウンサーの口調といい、放送の内容といい、戦争中のわが国の大本営発表とそっくりだ。口を極めて「米帝」を攻撃し、最高指導者・将軍様を賛美し、「最後の勝利は自分たちにある」という自己陶酔的な言葉を重ねて国民の意志統一と戦意高揚を図る。 一方のアメリカは、これに比べればまだ余裕があるように見えるが、「正

「人の物を奪うな」

今日は久しぶりに「十戒」を取り上げ、第八戒について話したい。「盗んではならない」(出エジプト記20,15、申命記5,19)という単純な戒めである。旧約聖書の時代は今と生活形態が違うし、「盗み」に関連した記述も余り多くない。せいぜい、「牛、ろば、羊、あるいは衣服」(出エジプト記22,8)、あるいは「銀」(同22,6)、「自分の家畜を放って、他人の畑で草を食べさせる」(同22,4)ぐらいだ。ブルド-ザーでコンビニの現金自動支払機を丸ごと盗む犯罪が続発するような現代から見ると、まことにのどかなものだ。我々にとって「盗み」の具体的なイメージを思い描くことは難しい。 ところで、現代人である我々にとって、第八戒はどのような意味を持つか?ある研究者は、旧約聖書では「盗む」という言葉はもともと窃盗一般では

「天に大きなしるしが」

 ヨハネは幻の中で、繰り返し天上の光景を見る。1章では「天上におられるキリスト」 (12節以下) の姿を、4章では「天上の礼拝」 (1節以下) の様子を、そして、今日の12章では「天に大きなしるしが現われた」(1)ことを。これは何を意味するか? 既に述べたように、初代のキリスト教徒たちは理不尽な迫害や耐え難い苦しみを経験し、その中でしばしば前途に希望を失った。これが地上の現実である。ヨハネはこの現実に日々直面していた。現代でも、これは本質的に同じである。 前の戦争のとき、中国や韓国の人々・沖縄の人々・広島や長崎の人々は理不尽な苦難を身に沁みて経験した。従軍慰安婦にさせられた女性たちや、強制収容所で殺された無数のユダヤ人もそうだ。現代でも、多くの人がテロで命を奪われているし、パレスチナでは、あ

「天で戦いが起こった」

「さて、天で戦いが起こった」(7)とある。私は、この聖句を今日の説教の題に選んだのだが、その後でいささか躊躇を覚えた。イラクでは今にも戦争が起こるかもしれないというこの時に、「戦いが起こった」と言うのは不謹慎ではないか? 本来、私は出来るだけ「戦争」に関する言葉は避けて、「平和」をもたらす言葉を語りたいのだ。 だが、私はしばらくとまどった後で、やはりこの題に決めた。それには理由がある。「ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだ」(7)とあるが、この「戦い」は普通の戦争とは違って、「なくてはならない戦い」だからだ。このことを、一つの例を取り上げて説明しよう。--- 戦後のドイツは、ナチスの時代に犯した「ユダヤ人迫害」や「大量虐殺」、「戦争」といった非道な犯罪を二度と繰り返してはならないとい

「偽証してはならない」

 今日は「十戒」の第九戒について語りたい。「隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト記 20,16;申命記 5,20)。これはどういう意味だろうか。 プロテスタントの代表的な信仰問答である『ハイデルベルク信仰問答』はこう説明している。「誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さない」。また、「あらゆる嘘やごまかしを…神の激しいみ怒りのゆえに遠ざけ、真理を愛し、正直に語りまた告白すること。…隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り、促進すること」(問112)。要するに、真実な言葉が大切だというのである。 しかし、旧約学者によると、第九戒は本来一般的に「真実な言葉を語る」ことに留まらず、もっと具体的に「法

「忍耐と信仰が必要である」

ヨハネの幻は続く。「一匹の獣が海の中から上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。それらの角には十の王冠があり、頭には神を冒涜するさまざまの名が記されていた」(1)。この描写には、ダニエル書の影響があると言われる。 そこで、ダニエル書を少し読んでみよう。7章3節以下に「海から四頭の大きな獣が現われた」(3)とあり、特に四番目の獣に十本の角があるところなど、今日の箇所とよく似ている。とにかく、ダニエルは「四頭の大きな獣」の幻が何を意味するのか分からず、悩んでいた。すると、「そこに立っている人の一人が」(16)――おそらく天使であろうが――謎解きをしてくれる。「これら四頭の大きな獣は…四人の王である」(17)というのである。これは、それまで中東世界を支配してきた四大帝国、すなわち

「知恵が必要である」

 ヨハネ黙示録13章の主題は、「国家」、とくに「教会と国家権力の関係」の問題である。これについては先週も考えたが、今日は今一歩進めて考えたい。 「国家」は社会に必要な秩序である。我々は無政府主義者ではない。パウロはローマ書13章で、「上に立つ権威」(1)は本来「神によって立てられたもの」(1)で、「悪を行う者には恐ろしい存在」(3)であり、「善を行わせるために神に仕える」(4)ものだと言う。時代が違うから全面的にとは言わないが、原則的にはこれに同意する。 『日本国憲法』では、「主権が国民に存する」(前文)。天皇はもはや神格化された存在ではなく、「その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」(第1条)。「国権の最高機関である国会」(第41条)の権威も「国民に由来する」(前文)。民主主義にお

「貪るなかれ」

今回で「十戒」の講解を終わる。最後の第十戒は、「家を欲してはならない。妻、男女の奴隷、牛、ろばなどを一切欲してはならない」 (出エジプト記 20,17)という禁令である。申命記では順序が違い、最初に「隣人の妻」が来る。それから「家、畑、男女の奴隷、牛、ろば」と続く。「畑」は出エジプト記にはない。ともあれ、重点は「隣人の」持ち物を欲してはいけない、という点にあるであろう。自分の持ち物で満足せよ。 では、「欲する」とはどういうことか。 カルヴァンの『ジュネーブ教会信仰問答』は、「ある抑え難い…だが、思い」(問214)、あるいは、「まだ、人の心をくすぐるもろもろの貪欲の情」(問215)と説明している。いわば「内心の欲望」である。これは、それ自体としては鋭い人間洞察だが、第十戒がもともと意味して

「新しい歌」

 ヨハネの見た幻は続く。「見よ、小羊がシオンの山に立っていた」(1)。 「小羊」とは、黙示録では一貫してイエス・キリストの象徴である。5章には、小羊が七つの封印で封じられた巻物を解くとあるが、これは、イエス・キリストだけが歴史の行く手を示すことが出来る、ほかの誰にも出来ない、という意味である。その小羊が「シオンの山に立つた」! 「シオンの山」とはエルサレムの東にある小高い丘で、終末の時にはメシアが民を救うためにそこに現われると信じられていた(ヨエル書 3,5)。自分たちは、今は迫害に悩まされて「お先真っ暗」という状態にあるけれども、小羊は既にシオンの山に立っている! これがヨハネの信仰であった。 そして、「小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されてい

「永遠の福音」

多くの人々の切なる願いを裏切って、遂に米英軍はイラクで戦争を始めた。今、世界中の平和を愛する人々は衝撃を受け、また言葉に表せない憤りを感じている。この上は、一日も早く矛を収めるように求めたい。 今日のテキストは開戦という事態を予想せずに選んだが、色々と考えさせられた。「こじつけ」になることを避けながら、示された事柄を以下に述べたい。 ヨハネは「天使が空高く飛ぶのを見た」(6節)と言う。私はここで、高性能爆弾を満載したステルス爆撃機や巡航ミサイル「トマホーク」がイラクの空高く飛んでいるところを連想せずにはおれなかった。だが、そこを飛んでいるのは爆撃機や巡航ミサイルだけではない。永遠の福音を携えた天使も飛んでいるのである。戦争を始めるように命令した人たちにはこの天使が見えないのだろうか?

「鋭い鎌を持つ天使」

 ヨハネが見た幻は続く。「見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座って」(14)いた。「人の子のような方」という言い方には、ダニエル書7章13節の影響が見られる。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て…」。「人の子のような者」とは、終末の時に来臨すると信じられていた救世主(メシア)のことであった。 ヨハネは、この表現をイエスに当てはめたのだ。パトモス島で召しを受けたときも(黙示録1章)、これと良く似た幻を見ている。描写はずっと詳しい。雲は現れないが、七つの金の燭台が見え、「燭台の中央には、がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた…」(13-16)。これがイエスを指していることは前後の文脈から明らかだ。ヨハ

「驚くべきしるし」

 ヨハネは「天に一つの驚くべきしるしを見た」(1)という。黙示文学においては、やがて地上に起こるべきことの「しるし」(前兆)が、先ず天に現れる。この「しるし」を指し示して人々の注意を促し、その意味を解明するのが、旧約の預言者たちであり、主イエスご自身であり、ここではヨハネなのだ。そして、今の時代においては、教会がその役割を果たさねばならない。 ところで、これまでも度々指摘したように、紀元1世紀末のキリスト教徒たちにとっては、「世界史の行く先はどうなるか」ということが深刻な問題であった。当時のローマ帝国は政治的にも、経済的・軍事的にも絶大な力を持っていて、それに対抗できる勢力は地上のどこにもなかった。だから、帝国による理不尽なキリスト教迫害も止めようがなく、キリスト教徒たちの心は、「これから先

主の祈り講解(1)

99・2・14主の祈り講解(1)エゼキエル36,22-24:ルカ 11,1-4 「主の祈り」は新約聖書の2か所に出て来る。マタイ 6,9-15 と、今朝私たちが読んだルカ 11,1-4 である。この二つを比べると、ルカの方が簡潔であることが分かる。そこから多くの学者は、ルカ版の方がもとの形に近いのではないかと推測している。マタイが後から書く時、いくつかの言葉をつけ加えた、と考えるのである。これは編集史的に見る際の「常識」というべきものであって、私もそう考えてきた。「主の祈講解」に当たって先ずルカを取り上げたのも、この理由による。 ところが、最近、デイビド・ヤングの『主の祈りのユダヤ的背景』(1984.邦訳は1998) を読んで啓発された。ヤングは、ルカはギリシャ語を話す非ユダヤ人に対する

御心を地にもなさせ給え

99・2・28御心を地にもなさせ給えマタイ 6,9-13 「主の祈り」の前半は、「御名が崇められますように」、「御国が来ますように」、「御心が行われますように」という三つの祈願である。先週も述べたように、日本語では「御」という言い方で少しあいまいになっているが、本来、「神よ、あなたの御名が…」、と言うべきところであり、外国語では皆そうなっている。そして、この三つは別々の祈りではなく、基本的には「神様、あなたの支配が続きますように」という願いをめぐっている。 とは言うものの、今日扱う第三の祈りにも独自の意味がある。前の二つと根本的には同じだ、と言って済ましてしまうわけには行かない。それについて話したい。  「御心が行われますように。天におけるように地の上にも」(マタイ6,10b)と言う祈

我らの日用の糧を今日も与え給え

99・3・7我らの日用の糧を今日も与え給え出エジプト 16,13-24; ルカ 11,2-13 今日から「主の祈り」の後半部分に入る。 前半のキーワードは、神を意味する「あなたの」という二人称単数であった。そのことによって我々は、自分たちの願いに先立って何よりも先ず神の御名が崇められ・神の真実の支配が貫徹され・神の御心が行われるように祈らねばならない、ということを学んだのである。 だが、後半のキーワードは、「われら」という一人称複数である。つまり、我々はここで初めて自分たちのことを祈ることを許され、また命じられる。しかしながら、「自分本位の身勝手な願い」、他人のことはどうでもいいという「自己中心的な願い」や、「我先に自分の利益だけを追求する祈願」を持ち出しても良いと言うわけではな

我らの罪をも赦し給え

99・3・14我らの罪をも赦し給えエゼキエル書 18,21-24; マタイ福音書 18,21-35 「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」について。ルカ版では「罪」、マタイ版では「負い目」だが、ヤングによると、ヘブライ語の「負い目」とか「負債」という言葉には「罪」という意味もあるという。だから、「罪」という表現に統一する。 いったい、「我らの罪」とは何だろうか。 ここでも、先ずイエスに注目したい。彼は、私たちが罪を犯す存在であることは認めていたが、それは社会的通念によって外から規定されるものではないと考えていた。宗教はしばしば、「何が罪か」ということを上から規定して、それを人々に押し付けるが、イエスはそういうことをしなかった。彼にとって罪は、神との人格的な関係の

我らを試みに遭わせ給うな

99・3・21我らを試みに遭わせ給うな創世記 22,1-14; マタイ福音書 4,1-11 今日で「主の祈り」についての連続講解公開説教は終わる。来週は受難週なので、「苦しみの意味」について、イザヤ書53章をテキストにして話す予定である。  さて、「主の祈り」の最後の祈願は、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」である。ルカでは単に、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」となっているが、これはヤングによると、ユダヤ的特徴を除こうとしたルカの手法を示すもので、マタイ版の、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」の方が、従って現行の形が、オリジナルに近いと言う。私も、それに従いたい。 二つの似たような意味の文を重ねるやり方は、ユダヤ人の言葉の使い方では「対句法

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help