「主の祈り」は新約聖書の2か所に出て来る。マタイ 6,9-15 と、今朝私たちが読んだルカ 11,1-4 である。この二つを比べると、ルカの方が簡潔であることが分かる。そこから多くの学者は、ルカ版の方がもとの形に近いのではないかと推測している。マタイが後から書く時、いくつかの言葉をつけ加えた、と考えるのである。これは編集史的に見る際の「常識」というべきものであって、私もそう考えてきた。「主の祈講解」に当たって先ずルカを取り上げたのも、この理由による。
ところが、最近、デイビド・ヤングの『主の祈りのユダヤ的背景』(1984.邦訳は1998) を読んで啓発された。ヤングは、ルカはギリシャ語を話す非ユダヤ人に対する配慮から、ユダヤ的要素を削除する方向に向かって行ったのではないかと、言う。マタイの「天にいますわれらの父よ」という言い方は、多くの学者が言うように儀式的な荘重さを加味するためにつけ加えられたわけではなく、恐らくはもとの形であって、むしろ、ルカが「天にいます」という所を意図的に削ったのだろう、それは、ギリシャ語を話す読者がそこの所をギリシャ神話のゼウスと結びつけて理解することを避けるためであった、と言う。
それはともかくとして、今回は差し当たり、ルカ版に基づいて考えたい。
先ず、「父よ」という簡単な呼びかけから始めよう。
「神が父である」という考えは、宗教史的に見れば、どの宗教にも見られる。特にイエスの精神的な故郷であるユダヤ教の中には、この言い方は頻繁に現れる。代表的な例として、イザヤ書63,16 を挙げることができよう。ラビ文献の中にも、例えば「18の祈り」には「われらの父よ」という呼び方がしばしば現れる。
だが、ルカの「父よ」という形は、他のどれよりも簡潔だ。エレミヤスは、こういう呼びかけはユダヤ教の伝統の中にはない、全くイエス独自のものであって、彼は常々、神を「アバ」と呼んでいた、と言う。「アバは子供の言葉であり、日常語であった。神に対してそのように呼びかけようなどとは、だれも思いもよらなかったであろう。だが、イエスはいつもそれをやっている」。この説明に、私は感銘を受けた。
ヤングもこの点は認めていて、イエスのこの言い方は当時のラビたちには「大胆不敵なこと」と映ったであろうと言っている。
だが、イエスが神を「父」と呼ぶのは、ギリシャ神話のように「神と人間が近い」という思想の表現としてではない。人間の側から神への親近感を現そうという発想は、旧約聖書以来の伝統の中にはあり得ない。むしろ逆で、超越的な神が、我々に近い方となる!という驚きと感謝の表現なのだ。天で統治しておられる神が、父のように、慈愛と厳しさを持って我々に近づき、我々を受け入れ、我々の信頼を受ける。
ところで、神を「父」と呼ぶことに関しては、フェミニズムの立場から抵抗がある。しかし、「父」的な要素(慈愛と厳しさが一人格に統合されていること)を全面的に否定するとか、取り除くとかいうことは、フェミニズムの本来の意図ではないであろう。神の理解が、従って人間の理解も、余りにも一面的に「男性的な原理」に偏って支配されることに対しては、我々は注意しなければならないが、イエス自身も、旧約聖書からの流れに立って神を「父」と読んだことを軽視すべきではない。 次に、「御名が崇められますように」に移る。
これは単なる賛美ではない。聖書では、神は「聖なる方」(イザヤ書6 章)である。 「聖なる方」として、人間やその他の被造物とは区別されなければならない。だから、第一戒にあるように、「我の他何者も神とすべからず」。例えばダニエル書では、ペルシャの王が神格化されて、その像を礼拝するように要求された。これは、聖なる神の御名を汚す行為である。こういうことがあってはならない。この点から、「御名が崇められ(聖とされ)ますように」という祈りの意味が明らかになる。後に新約聖書の帝国の時代になると、ローマ皇帝を神として礼拝するように要求されたし、わが国では戦前、天皇が神とされた。これも聖なる神の御名を汚すことである。そういうことがあってはならない。「御名が崇められ(聖とされ)ますように」!イエスは、そう祈るように教えたのだ。
人間だけではない。昔、中近東の世界(エジプト)では、恐ろしい動物が神として祭られた。モーセが不在の間に、イスラエルは金の子牛(=自分中心の欲望)を造って自分たちの神とした。カナンに定着してからは、先住民族の宗教を取り入れて、バアル(=土地や動物の生産力)を礼拝した。ナチズムとか、スターリニズムといった特定のイデオロギーが神のように絶対化されたこともある。これらは総て、聖なる神の御名を汚すことである。この対比によって、「御名が聖とされるように」という祈りの意味がはっきりする。 エゼキエル書36章に述べられていることも、そういうことなのである。
さて、ヤングは、その後に非常に興味深いことを述べている。人の心ない行為によって神の御名が汚される時、殉教者が現れ、自分を犠牲にして「神の御名の聖性」を証しする。そこで、「御名を聖とする」というヘブライ語の表現は、具体的にはしばしば「殉教者」を意味するようになった、というのである。
従って、「御名を聖とする」という言葉の意味は、抽象的なことではない。ヤングは、それはイエスの「あなたがたの光を人々の前に輝かし・・・」マタイ 5,16という言葉によって最も正確に表現されている、と言うが、正にその通りである。
アウシュヴィッツで御名が汚されている時、コルべ神父は「御名が聖とされるように」という祈りと共に殉教したのである。ボンヘッファーがナチスの暴虐に抵抗して立ち上がった時、彼は「御名が聖とされるように」と祈っていたのである。キング牧師が非暴力抵抗の中で倒れた時も、ロメロ大司教が構造的暴力に抗してミサの最中に銃撃された時も、皆そうであった。 そうすると、「御名が聖とされるように」というこの祈りは、「自分たちがなにもしなくても、神様がそうして下さるだろう」、というような呑気な祈りではなく、自分たちの主体的な行動への決意を含んでいると言わなくてはならない。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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