「偽証してはならない」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

 今日は「十戒」の第九戒について語りたい。「隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト記 20,16;申命記 5,20)。これはどういう意味だろうか。

 プロテスタントの代表的な信仰問答である『ハイデルベルク信仰問答』はこう説明している。「誰に対しても偽りの証言をせず、誰の言葉をも曲げず、陰口や中傷をする者にならず、誰かを調べもせずに軽率に断罪するようなことに手を貸さない」。また、「あらゆる嘘やごまかしを…神の激しいみ怒りのゆえに遠ざけ、真理を愛し、正直に語りまた告白すること。…隣人の栄誉と威信とをわたしの力の限り守り、促進すること」(問112)。要するに、真実な言葉が大切だというのである。

 しかし、旧約学者によると、第九戒は本来一般的に「真実な言葉を語る」ことに留まらず、もっと具体的に「法廷における」言葉の真実さを求めたものだったという。

 むろん、「法廷」といっても今日の裁判所のような厳めしい建物はなく、「町の門のところ」に皆が胡座をかいて行う会議だが、ユダヤ人社会では厄介な問題はこの「法廷」に持ち出され、律法に従って結論が出された。弁論は真剣であった。

 ルツ記では、夫に先立たれたナオミが亡夫所有の土地を手放そうとしたとき、親戚筋に当たるボアズが「簡易家庭裁判所」のような場を設定して話し合いの司会をしている(4章)。この種の「法廷」はしばしば設定された。

 出エジプト記23,1-3もそうした場合を想定している。「根拠のないうわさ」を流したり、「悪人に加担して、不法を引き起こす証人となったり」、「法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げたり」してはならない。また、23, 6-9には、「乏しい人の判決を曲げてはならない。偽りの発言を避けねばならない」とある。「偽証するな」という第九戒は、このような具体的な内容を持っていたのである。

 だから、第九戒は本来「嘘をつくな」というような一般的な個人道徳ではなく、共同体の柱である「法」を守るために偽りの言葉を禁じたもの、と言うべきだろう。このことを踏まえた上で、我々は現代人としてこの戒めをどう受け止めるべきだろうか。

 最近の例に即して述べたい。―― 「オウム真理教」とか「統一教会」のようなカルト集団が多くの若い人々を誘い入れてさまざまな犯罪や悲劇を惹き起こして来たことは周知の通りである。家庭を破壊され、精神的な障害を負わされた人は数知れない。この現実を見て、清水与志雄、黒鳥栄、浅見定雄、杉本誠といった牧師たちが立ち上がり、被害者を救い出すための活動を誠実に、そして持続的に行った。ところがカルト側は、この救出活動が「強制説得」とか「拉致監禁」に当たると「言いがかり」をつけて告訴したのである。これこそ、第九戒が言う「偽証」である。

 裁判は1999年から始まり、つい先日まで続いた。第一審で東京地裁は、清水牧師らの救出活動を正当な「人権活動」であると認めて「無罪」を宣告した。今年に入り、一月末の第二審でも東京高裁が一段と突っ込んだ判断を示して無罪。この裁判は「完全勝訴」に終わった。日本の裁判所が健全な良識を示した例として高く評価したい。

 しかし、こうした良い例ばかりではない。政治的・経済的に絶大な権力を持つ者が、その権力をかさに着て「法を私物化する」という悪しき例も世界に跡を絶たないのである。その時に教会は何をしたか? 何をしなかったか?

 ヒトラー支配下のドイツでナチスは「大権付与法」という法律を成立させ、文字通り何でも出来る権能をヒトラーに与えた。ユダヤ人の強制移送・大量虐殺は、法の後ろ盾を得て実行された。ヒトラーはまた、「民族裁判所」で無数の罪なき人々を恣意的に裁き、処刑した。その時、教会は何をしたか? ボンヘッファーはこう書いている。「教会は、中傷と告発と名誉毀損によってその生命を奪われた無数の人たちに対して責任がある。教会は、中傷する者に対してその不正を問いただすことをせず、彼らのなすに任せた」。これは、むろん第九戒に関連しているのである。

 戦時下の日本でも「治安維持法」という悪法によって、左翼はもちろん、キリスト教徒まで弾圧された。ホーリネス系の牧師たちが多数逮捕・投獄され、そのうち何人かは獄死したが、日本基督教団はこの理不尽な裁判に対して、洞察不足や「事勿れ主義」から、あるいは単なる臆病さから、沈黙していた。これも第九戒違反である。教団がこの件に関して「罪責告白」をしたのは、ずっと後になってからである。

 法廷が不当に訴えられた人々の声を聞こうとせず、「多数者に追随して証言し、判決を曲げる」(出エジプト記 23,2)ようなことは決してあってはならない。幸い、今の日本はそこまで悪くなってはいないが、それでも、「部落差別」や「民族差別」といった偏見に基づいて不当な裁判がなされ、理不尽な判決が下された例はないわけではない。だから、教会は常に良心を研ぎ澄ましていなければならない。これが、第九戒の精神を現代に生かす道である。

 最後に、イエスに注目したい。彼は第九戒について直接には言及していないが、ご自身、最高法院で裁判を受け・処刑された。この事実を通じて、彼は事の本質を照らし出している。一切の権力とは無縁で、常に貧しい人々・社会的弱者の側に立っていたこの方を「死刑にするため」(マルコ 14,55)に、律法の名において法廷が開かれ、そして、「多くの者がイエスに不利な偽証をした」(同14,56)のである! 正義を口にする社会もまた、このような違反を犯すことがあり得る。これが我々の世界なのだ。

 このイエスに注目するとき、第九戒はさらに深く理解されるであろう。

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