ヨハネが見た幻は続く。「見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座って」(14)いた。「人の子のような方」という言い方には、ダニエル書7章13節の影響が見られる。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て…」。「人の子のような者」とは、終末の時に来臨すると信じられていた救世主(メシア)のことであった。
ヨハネは、この表現をイエスに当てはめたのだ。パトモス島で召しを受けたときも(黙示録1章)、これと良く似た幻を見ている。描写はずっと詳しい。雲は現れないが、七つの金の燭台が見え、「燭台の中央には、がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた…」(13-16)。これがイエスを指していることは前後の文脈から明らかだ。ヨハネは、「イエスはメシアであり、終わりの時には神の威厳を身にまとって再び現れる」と言っているのである。
すべての人を極みまで愛したのに、彼らに辱められ、捨てられ、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15,34)という絶望の叫びを残して死んだイエス。しかし、真実な方を抹殺したこの世がそのまま栄え、真実な方はそのまま滅びの手に落されるというようなことは、神がお許しにならない。イエスは、死者の中から復活される。そして終末の時に、神の威厳をまとって再び現われ、世界をあるべき姿に戻される。今日のところに、「人の子のような方が…頭には金の冠をかぶって」(14)とあるのは、そのことを暗示している。
人の子のような方は神の威厳を身にまとっているだけではない。「手には鋭い鎌を持って」(14)現れる。そして、天使がこの方に向かって「鎌を入れて刈り取ってください。刈り入れの時が来ました」(15)と呼びかける。この方が鎌を地上に投げると、「地上では刈り入れが行われた」(16)。「穀物の収穫」のイメージを用いて、「神の裁き」について語っているのである。
続いて、「ぶどうの実の取り入れ」という形で同じ主題がもう一度展開される。「その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している」(18)。もう一人の天使が鋭い鎌をもって裁きを行う。赤いぶどうの液が血を連想させるために、一層生々しい。ぶどうの実は、「神の怒りの大きな搾り桶に」(19)投げ入れられて踏み潰され、血はそこら中に溢れる。
さて、「神の裁き」という考えはは、我々の心に恐れを呼び起こすだろう。洗礼者ヨハネが「差し迫った神の怒り」について(マタイ3,7以下)、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と叫び、「神は手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えるこのない火で焼き払われる」と語ったとき、それは人々を戦慄させたであろう。
確かに、神の裁きを思うと、我々は恐れを覚えずにはいられない。だが、それだけではない。「最後には神が正しい裁きを行われる」と信じることは、いわれのない迫害を受けて苦しんでいた初代のキリスト教徒にとって殆ど唯一の慰め・希望だったのである。
日常生活の中から卑近な例を取るなら、人からあらぬ誤解を受けて、いくら弁解しても信じてもらえないようなとき、我々は辛く、「いつになったら分かってもらえるのか?」と苛立たしい気持ちになるであろう。
あるいは、冤罪事件のことを考える。自分は無実だといくら主張しても取り上げてもらえず、無実を叫びながら死刑に処せられるケースは、これまでも少なくなかった。その苦しみはどれほどであろうか。
あるいはまた、イラクの一般民衆のことを考える。今、この瞬間にも、米英軍の無差別な空爆にさらされ、地獄のような業火に全身を焼かれて死んで行く子供たちがいる。愛する者たちの、「こんなことがあっていいのか?」という問いは、答えがないまま空しく消えて行く。
だが、最後には神が黒白をつけて下さる、と聖書は言うのである。ルカ福音書18章に一人のやもめの話がある。彼女は正しい裁きをして欲しいと切に願って、しきりに裁判官に頼むのだが、この裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない」(2)ようないい加減な男で、「しばらくの間は取り合おうとしなかった」(4)。だが、この女性は執拗にお願いし続ける。遂に、この不正な裁判官は音を上げて、彼女の願いを聞いてやった。ルカは書いている。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」(7)。
そうなのだ。定められた時が来ると、神は正しい裁きを行われる。真実を抹殺するようなことを繰り返しているこの世がそのままいつまでも栄え、踏みにじられた真実がそのまま滅びるというようなことを、神は決してお許しにならない。裁きの時が来ると神は、何が真実であり・何がそうでないかを最終的に明らかにされる。これは、慰めに満ちたメッセージではないか。
人の子と天使が持つ「鋭い鎌」(14;17)。ここで我々は、ヘブライ人への手紙4,12の「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭い」という言葉を想起する。「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(13)のだ。神はこのように、何が真実であり、何がそうでないかを残りなく明らかにされる。これが我々の希望であり、支えなのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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