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- 肉となった言
「肉となった言 ヨハネ福音書は、謎めいた・雄渾な一句で始まる。文語訳で読むと、「太初(はじめ)に言あり、言は神と偕にあり、言葉は神なりき」(1)。近頃の日本の政治家たちは、なぜかこの表現が好きで、よく利用する。例えば、あることを既定事実のようにして話を進めるやり方を皮肉るとき、「はじめに…ありき」では困るなどと言う。だが、ヨハネが「太初に言ありき…」と書いた時、それはそのように軽い意味ではなかった。 ゲーテの『ファウスト』には、ファウスト博士がこの句の意味についてあれこれ考え込む場面がある。どうもよく分からない。最後に、彼は「行為」(Tat)という言葉を思いついて当てはめてみた。そこで漸く納得が行った。「太初に行為ありき」。これなら分かる、というのである。言葉をなりわいとし、あれだけの作品を
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- 信仰が無くならないように
「信仰が無くならないように 大晦日の『毎日新聞』には、恒例の「いろはカルタ2004年版が載っていた。昨年一年間の世相を振り返ったもので、苦笑いしながら読んだ。 について。[オ]老いては子に振り込む(振り込め詐欺)、[キ]企業の社会的無責任(自動車会社のリコール隠し)、[ユ]湯加減はさじ加減(入浴剤を入れた温泉)、[ヱ]縁側に熊(熊が頻繁に人里に出没した)、[モ]猛牛も牛丼も消え(近鉄球団と吉野家)、など。微笑ましい話題は、[ミ]みそかのご婚約(紀宮)、ぐらいのものだ。 に関して。[ハ]歯で派が痛むヤミ献金(日歯連と自民党橋本派)、[カ]関西国債空港(関空の借金がかさむ)、[ム]無理やり郵政民営化、[コ]国会の中心で未納と叫ぶ(政治家の年金未納が続々発覚)、[サ]三位失態改革など。苦笑を誘われ
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- 大きな光を見る
「大きな光を見る 今日のテキストの最初に、「イエスはヨハネが捕えられたと聞き」(12)とある。そこから始めたい。洗礼者ヨハネ、この骨太の預言者を捕えたのは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスである。彼が自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアを我がものとしたとき、ヨハネは面と向かって、そういうことは「律法で許されていない(14,4)と諌めた。そのことを根にもったヘロデは、紀元29年ごろのことだが、彼を捕えて死海の東にあるマケルス要塞の牢に幽閉したのである。イエスはこの噂を聞いて、「ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」(12‐13)という。「ゼブルンとナフタリの地方とは、昔、イスラエルの12部族のうちゼブルン族とナフタリ族が住
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- 神の顕現
「神の顕現 モーセは、紀元前13世紀ごろの人である。エジプトで奴隷であったユダヤ人(レビ族)の夫婦の間に生まれた。不思議な巡り合わせでファラオの王女の子となるが、40歳になった頃、イスラエル人としての民族意識に目覚める。ある日、重労働に服する同胞を殴るエジプト人を目にとめた彼は逆にそのエジプト人を殴り、死なせてしまう。このためにエジプトにいられなくなり、ミディアン地方に逃れ、土地の祭司エテロの娘と知り合って結婚する。やがて子供も生まれ、40年という長い年月が経過した。そのまま片田舎の羊飼いとして一生を終わるかと思われた。 ところが、80歳になったとき転機が訪れてモーセは否応なしに世界史の表舞台に引き出される。その波乱万丈の物語は、出エジプト記3章でこういう風に始まる。「モーセは、しゅうとであ
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- 命じられたこと
「命じられたこと 今、日本では、人件費を切りつめるために正社員の数を減らし、パートを使うところが多いという話をよく聞く。だから、労働条件はひと頃よりも厳しくなったともいう。残業が増え、その中で時々、過労死する人も出てくる。今日の箇所は、いわば「労働条件に関する話だ。ある農場主の僕(しもべ)が一日農場で働いて帰って来た。彼はヘトヘトに疲れてお腹も空いているが、直ぐ食事を摂って休むわけには行かない。その前に、先ず主人の夕食を用意しなければならない。食事中は給仕の仕事もある。きれい好きな私は、羊を飼う仕事をしてきた僕に直ぐ料理をさせたり給仕をさせたりしたくはないが、この僕は、いくらなんでも手ぐらい洗っただろうと思いたい。羊の匂いがしみこんだ汗臭い上着も、着替えてくれれば上等だが、多分、そんな余分な
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- 種は芽を出す
「種は芽を出す 今日の箇所は「成長する種」の譬えである。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(26-27)。どんなに小さな種の中にも、人間の想像を超えた生命力が潜んでいる、ということが強調されている。この直ぐ後に「からし種」の譬え(30節以下)があるが、そこでも強調点は同じだ。マルコ福音書4章には、もう一つ、有名な「種を蒔く人」の譬えがある。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼
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- 「天使がラッパを吹くとき」
小羊が第七の封印を開いたとき、ヨハネは「七人の天使が神の御前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた」(2)。この七人の天使たちが、ラッパを吹き鳴らす。だが、「ラッパを吹く」とはどういうことだろうか? 旧約聖書にはラッパがしばしば出て来るが、とくに「終末の日」と関連して吹かれることが多い。例えば、先ほど読んだヨエル書1,15以下は、「主の日が近づく」ことを述べた箇所であるが、終末の裁きが始まる時の合図として「角笛(ラッパ)を吹け」(2,1)と言われている。 今日の箇所はこの旧約の伝統を受け継いでいる。最初の四人の天使がラッパを吹くと、さまざまな自然災害が起こるが、これは「終末の裁き」が始まる前触れである。そして、この「終末の裁き」こそは、ヨハネ黙示録全体の主題なのだ。
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- 「すべて真実なこと」
この礼拝から始まる「カンファレンス」の主題は「世界の宗教・私の信仰」である。今日の説教では、この主題に沿っていつもよりは少し自由に話してみたい。 私は今から55年前に洗礼を受けてキリスト者になり、やがて神学校で学んで牧師になった。この道に進んだ決定的な動機は、聖書の言葉との出会いである。戦後、「いかに生きるべきか」全く分からず、途方に暮れていた15歳の私は、ある時「汝の敵を愛せよ」という言葉を偶々耳にして深く心を打たれ、もっと聖書のことを知りたいと思った。一年ほど経ってから、八戸である教会と出会い、やがてシベリヤから帰ってきた真実な牧師と出会い、礼拝に通って良い人々と出会う中で、聖書の教えが少しずつ分かり始めた。そして、「ここに私の生きていく道がある」と確信したのである。だから、私がキリス
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- 「殺してはならない」
第六戒「殺してはならない」について考えたい。これには厄介な矛盾がある。というのは、旧約聖書は死刑や戦争などの「殺し」を大幅に容認しているからだ。 ある研究者は、第六戒に使われている「殺す」という言葉の旧約聖書における用語法を詳しく調べて、それが「ある特定の殺害行為に限って用いられている」ことを明らかにした。つまり、第六戒はすべての殺人行為を禁じたのではなく、個人的な恨みによる恣意的な殺害や、共同体の生活を脅かす「反共同体的な殺人」だけを禁じているのだという。だから、共同体を守るための死刑は正当化される。「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」(出エジプト記 21,12)。「戦争」も同様だ。 第四世紀以降キリスト教化されたヨーロッパも、概ねこの行き方に倣った。「キリスト教的ヨーロッパ
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- 「深い淵から」
「第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上に落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった」(1-2)。これは、一体、どういうことなのだろうか? この背後には古代ユダヤの世界観がある。大地は平らな板のようになっていて、その下には地下の世界があり、そこにはもろもろの悪霊が棲んでいると考えられていた。それが「底なしの淵」である。地表のどこかに穴があって、普段は閉っているのだが、一旦それが開かれると、地下に棲んでいる「おどろおどろしいもの」が姿を現す。「煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。そして、煙の中から、いなごの群
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- 「悔い改めを必要とする人類」
「第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の御前にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた」(13)。この声は、「聖なる者たちの祈り」(8,4)に対する神の応答である。ルターは「たとえ言葉にもならない、うめきでしかない祈りでも、天に昇り、高らかに鳴り響き、神の耳に達する」と言ったが、彼らの祈りは、祭壇で焚かれる香の煙と共に神の御前へ立ち上って行く。神はそれに答えたのである。 だが、神の答えは不吉である。「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ」(14)。すると、その四人の天使が「人間の三分の一を殺すために解き放たれた」(15)という。このことは我々を大いに困惑させる。 聖なる者たちは、一体何を祈ったのか? まさか「この世に災いが起こるように、大勢の人が苦し
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- 「絶えず改革されるべき教会」
今日の礼拝は、「宗教改革記念日」(10/31)を記念して守りたい。 先ず何よりも、「宗教改革」という世界史的な出来事が、マルチン・ルターという一人の人間の内面に起こった変革から始まったことに注目しなければならない。 若きルターは、「神の義」は律法に示されていると信じ、律法を行うことに渾身の努力をした人であった。しかし、努力すればするほど却って自分の罪の大きさを知らされて絶望し、遂には「神の義」という言葉を憎むようにさえなる。こうした内面的苦悩の中で彼は、1513年頃のことだが、ローマ書1章17節の言葉と出会う。「神の義は啓示されている」、また「義人は生きる」! この出会いが彼を変えた。この内的変革を経験した場所に因んで「塔の体験」と呼ばれる。 彼自身の言葉によると、「神の義が福音を通し
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- 「命こそ宝」
今月21日から24日まで、十数名の方々が「平和研修旅行」のため、沖縄を訪れる。これは一部の人たちの「物見遊山」ではない。沖縄は、東アジアの平和にとっても日本の教会にとっても、重要な所である。行く人にはその現実に触れ、いろいろな人々と出会い、問題を共有して来て欲しい。教会としても、今後共に考えていくきっかけにしたい。今日の説教では、そのことを念頭において語りたい。 今回のことを契機に、私は阿波根昌鴻(あわごん・しょうこう)という人物が書いた2冊の本『米軍と農民』(1973)、『命こそ宝』(1992、いずれも岩波新書)を改めて読み直した。深く教えられるところがあった。 阿波根さんは、「たぶん」と本人が書いているが1903年に沖縄本島の本部町で生まれた。17歳の時に洗礼を受け、その後移民として
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- 「神の約束に従って」
今年も「召天者記念礼拝」がめぐってきた。懐かしい人々を偲び、良い人生の先達を与えられた恵みを感謝しつつ、この礼拝を捧げたい。 皆さんのお手元に、「代々木上原教会召天者名簿」をお配りした。我々の教会は、「上原教会」と「みくに伝道所」が1997年に合同して出来た教会である。だから、この名簿には双方の関係者が入っている。「みくに伝道所」の方は歴史のごく短い小さな教会だから、召天者全員のお名前を載せることに問題はなかったが、「上原教会」には長い歴史があり、特に戦後は赤岩先生のもとに大勢の人が集まったから、召天者は1947年の陶山伎世子さん以前にも大分おられた筈だ。その意味でこの名簿は不完全である。不備はご容赦頂きたい。 「代々木上原教会」になってから召された方は、1998年の黒川輝さんから後であ
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- 「みことばに聞く」
[子どものためのメッセージ] 昔、ユダヤの国にハンナという名の若いお母さんがいました。ハンナは、「赤ちゃんが生まれるといいなあ」と願っていたけれど、なかなか生まれません。でも、一生懸命お祈りしていたら、神様はとうとうその祈りを聞いて、赤ちゃんを恵んで下さいました。とても元気な男の子で、サムエルという名前をつけました。 サムエルがまだ小さかった頃、お母さんは、「この子は神様から頂いた子だから、神様のために捧げよう」と思いました。そこで、神様に仕える「祭司」のエリというお爺さん先生に預けました。神様のことをいろいろ勉強するためです。サムエルは一寸寂しかったけれど、お母さんが毎年小さな上着を縫って届けてくれるので、「母さんはいつも僕のことを思っていてくれるんだ」と、安心していました。 エリ先
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- 「基本的信頼の回復」
週報にもあります通り、本日は教会暦最後の週にあたり、末日主日と呼ばれています。来週は暦も改まって、新しい年が待降節をもって始まります。本日はまた、収穫感謝祭の聖日にあたります。ご存知の通り、1620年にメイフラワー号に乗った106名の清教徒たちが信教の自由を求めてニューイングランドに辿りつきました。厳しい冬を生き延びて半数になった清教徒たちが、ネーテイヴ・アメリカン(アメリカインデイアン)から地元にあった農作物を教わって、1621年の秋に原住民と一緒に収穫を祝った故事にちなんで、リンカーン大統領が1864年に11月第四木曜日を収穫感謝の日に定めてから、教会でも、それに近い日曜日に感謝祭の礼拝がもたれるようになりました。皮肉なことですが、南北戦争が終わり、リンカーン大統領が暗殺された後、共に祝
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- 「柔和な方の到来」
今年、待降節第一主日の説教テキストとして選ばれたのは、マタイ福音書21章である。イエスが生涯最後の段階でエルサレムに入って来る場面だ。 都の東、オリーブ山の東斜面に近いベトファゲという村で、イエスは千里眼のような不思議な能力を発揮し、二人の弟子を遣わしてろばを連れてこさせる。マタイはそこで、「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」(4)と言っている。この預言者とはゼカリヤのことである。マタイは、ゼカリヤ書9章9節以下の預言を、イエスの本質をよく表したものとして是非とも引用したかったのであろう。 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って」
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- 「人の子が来る」
今日のところで、イエスは世の「終末」について語り、終末に先立って先ず自然界にさまざまな形で予兆が現われる、と述べている。「太陽と月と星に徴が現われる。…海がどよめき荒れ狂う」(25)。そのために、「諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」(25後半~26)。 これは、待降節という喜ばしい季節の説教テキストとしては、いささか「不吉」過ぎてそぐわないように感じられる。どうしてこのような箇所が選ばれたのか。 これには理由がないわけではないだろう。待降節のことを「アドヴェント」というが、これはもともと「到来する」(advenio)というラテン語から来ている。メシア(救世主)がこの世に到来する、という意味である。そして、「
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- 「来るべき方は?」
洗礼者ヨハネは、イエスの先駆者と言われる。イエスの六ヶ月前に生まれ、ユダヤの荒れ野に姿を現わしたのも、ガリラヤにおけるイエスの活動開始に僅かに先んじる。マタイ福音書3章によって大体の人物像を知ることができるが、彼の説教の中心は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2)という点にあった。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(4)とあるように質素な生活態度を保ち、その言葉は歯に衣着せぬ剛直さで知られ、ファリサイ派など時の宗教的権威に対してさえ、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ…」(7)と厳しく悔い改めを迫った。これに動かされた多くの人々がユダヤ全国からやって来て罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
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- 「地には平和」
イエス・キリストの誕生の物語を、ルカによる福音書によって語りたい。 最初に「皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」と言われている。古来、どの国の支配者も正確な人口や人々の暮らしぶりを調べたがる。2000年前のローマ皇帝アウグストゥスも同様で、「住民登録」の勅令を出した。もちろん、人民の利益のためにという親切心からではなく、少しでも多く税金を取り立てるためである。江戸時代、徳川幕府は百姓から少しでも余計に絞り取るために数度にわたって耕地面積を調べたが(検地)、それと発想は同じだ。今年わが国では「住民基本台帳ネットワーク」なるものが多くの反対を押し切って始まった。これも国民の情報を一元的に管理しようという支配者の発想から出ている。 さて次に、「人々は皆、登録するため

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
