種は芽を出す

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「種は芽を出す

 今日の箇所は「成長する種」の譬えである。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(26-27)。どんなに小さな種の中にも、人間の想像を超えた生命力が潜んでいる、ということが強調されている。この直ぐ後に「からし種」の譬え(30節以下)があるが、そこでも強調点は同じだ。

マルコ福音書4章には、もう一つ、有名な「種を蒔く人」の譬えがある。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(3-8節)、というのである。

 中々意味深長だ。その意味が分からない人もいたらしい。そこで、主イエスは13節以下で懇切丁寧に説明を加える。先ず、「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(14)と中心的な主題を明確にした後で、「道端」に落ちたとはどういうことか、「石だらけの所」とはどこか、「茨の中」とは何か、次々に説明して、最後に「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」(20)のことだ、と結ぶ。つまり、蒔かれるのは同じ種でも、落ちた地面の条件によって成長や開花のプロセス、結ぶ実の良し悪しが違ってくるように、同じ神の言葉を聞いても、聞く側の人間がそれをどう受け止めるかで結果は大きく違う、ということである。

しかし、今日のテキストである「成長する種」の譬えでは、「受け容れる側の条件は問題とはされない。むしろ、前述したように、種そのものの中に内在する生命力が強調される。

 種の生命力について考えているうちに、私は、大賀一郎という植物学者が1951年に発見した古代ハスの種のことを思い出した。千葉県検見川の東大グラウンドの地下7メートル、約2000年前の泥炭層から見つけたもので、大賀さんは、この種を慎重に扱い、1957年(昭和32年)、遂に発芽させることに成功する。しかし、何しろ古代の植物だから、芽を出しても安心できない。環境の汚染や虫に対する抵抗力が弱いし、雑草も水中に腰まで浸かって手で丁寧に取ってやる必要がある。事実、3粒のうちの2粒は、発芽したものの間もなく枯れてしまった。だが、1本は生き残る。努力の末、この古代ハスは環境に適応し、株分けもできるようになって、今では全国各地に群落ができ、美しい花を咲かせるようになっている。驚くべき生命力である!

 ところで、イエスという方は身の回りのどんなに些細な自然現象に対しても、鋭く、しかも優しい観察眼を向けた方であった。「空の鳥」、「野の花」、「羊や「ロバや「狐や「魚、さらには「蛇に至るまで、彼は注意深く観察し、その中から教訓を汲み取った。ここでは、彼は小さな種の中に潜む生命力に注目する。そして、それを「神の国の比喩として使うのである。「神の国は次のようなものである (26)と言ったのはそのためだ。

そもそも「神の国」のメッセージは、イエスのあらゆる言葉の中で最初の言葉、第一声であった。彼は渾身の力をこめて「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1,15) 、と語った。単純で力強い語りかけである。

この世界には「あってはならないことが充満している。自己中心的な欲望や、それに駆り立てられた人々の浅ましい競争、憎しみや暴力、そして、戦争やテロ。私たちの世界は、もろもろの悪によって支配されているように見える。だが、「時は満ちたと彼は言う。悪の支配が倒れる時が来ている。そして、神の国、すなわち真実と愛の支配が近づいている。主イエスは、命を賭けてこのことを約束したのであった。

これを信じるかどうか? この一点に、人類の将来はかかっている。真実と愛の支配が近づいているという約束を信じるならば、それに備えて自分のなすべきことを、希望をもって果たすことができる。「明日世の終わりが来ようとも、今日、私は林檎の木を植える」(ルター)という生き方を続けることができる。だが、この約束を信じることができないならば、将来に対してあらゆる希望を捨てなければならない。

悔い改めて福音を信じなさい、と主イエスは言う。あのイエスの「神の国」の約束を鼻先でせせら笑うような態度をやめて、方向を転換しなさい。この約束は真実であることを信じなさい。この約束に信頼して、そこに自分の全存在をかけなさい。

三日前(27日)は、アウシュヴィッツ強制収容所が解放されてから60年目の記念日であった。そして、58年前(1933年)の今日は、ナチスが権力を奪取して、アウシュヴィッツに代表されるような暴虐の支配を始めた日である。

この二つの日付は私たちに何を物語るか? 二つのことを物語る。第一は、この世界は繰り返し悪によって支配されてきたし、今もそれは続いているということである。しかし、第二は、そのような悪の支配は永続しない、ということである。アウシュヴィッツの苦しみは終わった。ナチスの支配も崩壊した。だが、神の真実と愛による支配は、私たちの知らないうちに秘かに芽を出して成長し、遂には実を結ぶ。この生命力を信じたい。



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