「来るべき方は?」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

 洗礼者ヨハネは、イエスの先駆者と言われる。イエスの六ヶ月前に生まれ、ユダヤの荒れ野に姿を現わしたのも、ガリラヤにおけるイエスの活動開始に僅かに先んじる。マタイ福音書3章によって大体の人物像を知ることができるが、彼の説教の中心は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2)という点にあった。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(4)とあるように質素な生活態度を保ち、その言葉は歯に衣着せぬ剛直さで知られ、ファリサイ派など時の宗教的権威に対してさえ、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ…」(7)と厳しく悔い改めを迫った。これに動かされた多くの人々がユダヤ全国からやって来て罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。それ故に、この人は「洗礼者(バプテスマの)ヨハネ」と呼ばれるのである。

 さて、今日の箇所には先ず「牢の中で」(2)とある。これは、ヨセフスの『古代誌』によると、死海の東6キロの山上にあるマケルス要塞(ヘロデ大王が造った三大要塞の一つ)にあった牢獄のことらしい。ヨハネはそこに幽閉されていたのである。

 投獄の理由はマタイ14章にも出ているが、マルコ6,17-18のほうがやや詳しい。「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロデイアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法(レビ18,16)で許されていない』とヘロデに言ったからである」。

 要するに、彼は権力者におもねらず、その権勢も恐れずに真実を語ったために投獄されたのだ。それからどうなったか? その続きは、マルコ6,21以下に記されている。この真実な人物は、半ば宴会の座興のようにして首を刎ねられたのだった。

 19世紀末のイギリスの作家オスカー・ワイルドは、この伝承に基づいて『サロメ』という戯曲を書いたが、この作品はいかにも彼らしい耽美的な筋書きに変質させられている。しかし、福音書が伝えているのは、元々そういう話ではない。真実がこの世の不真実によって抹殺されるという悲劇である。後にイエスは、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」(マタイ23,37)と嘆いたことがあるが、ヨハネはこれらの預言者たちと同じように、そして十字架上で殺されたイエスの先駆者として、不真実なこの世によって殺される運命にあることを知っていた。そして今、獄中にいる。既に死を覚悟していたであろう。そのような状況の中で、彼は「キリストのなさったことを聞いた」(2)のだ。

 「キリストのなさったこと」とは、福音書に記されているイエスの言葉と行いの全体を指しているであろう。たとえばイエスの説教、数々の奇跡、弟子たちに教えた伝道者としての心構え、迫害も恐れるなという教訓などである。

 獄中では、外界とのコミュニケーションは大幅に制限される。しかし、大事なことは何らかの仕方で伝わるものだ。例えば、ボンヘッファーの場合は、投獄後七ヶ月ほど経ってからだが、最も親しい同志ベートゲと秘密の手紙をやり取りすることが可能になった。看守の中に、ボンヘッファーの人柄に感化されて、連絡役をつとめようという人が現われたからである。それ以後、膨大な量の手紙がひそかに持ち出され、そして持ち込まれた。我々が今日『獄中書簡集』を読めるのは、そのお陰である。

 時代も状況も違うが、ヨハネも獄中で「キリストのなさったこと」を聞くことができた。そして、深く考えたであろう。その結果、どうしてもイエスに確かめたい重大な問いが一つ生じた。しかし、最早、自分から訪問して直接尋ねることは叶わない。そこで、弟子たちに頼んで代わりに質問してもらった。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3)。

 ヨハネの心中にはこの時、いかなる思いがあったのだろうか?

 先ほど述べたように、洗礼者ヨハネは多くの預言者たちやイエスその人と同じように、正しいことを語り・行ったために投獄され、その挙げ句、首を刎ねられる。このような世界、真実を平然と捨てるような不真実な世界は、変わらなければならない!ヨハネが「悔い改め」を説いたのは、そのためである。

 しかし彼は、この世の変革を自分一代で達成できるとは考えていなかった。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(マタイ3,11)と言ったように、やがて、真にこの世に変革をもたらす方がお出でになる!ヨハネは、イエスのことを耳にしたとき、「この方こそ来るべき方だ」と信じた。だが反面、相変わらず不真実な世界を見ると、その確信も希望も揺らいでくる。心の中にこのような矛盾した気持ちを抱えて、ヨハネはうめくようにして、「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねたのである。

 イエスの答えは単純・明快であった。イザヤは、メシアが到来するとき、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。…」(35,5-6)と預言したではないか。正にそのことが現実に始まっている、と彼は言ったのである。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(4-6)。

 世界は一向に変わらないように見える。だが、その中に真実に人を愛したイエスが誕生した!このイエスにおいて、神の真実の支配は、まだ完成はしていないが、既に始まっている。来るべき方は、既に来ているのである。

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