聖なるものの受肉(広瀬由佳師ゲスト投稿0)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

今回から何回かにわたって広瀬由佳先生(聖契神学校専門科卒業、立教大学大学院キリスト教学研究科前期課程修了、町田中央教会協力伝道師)に「聖なるものの受肉」というテーマでゲスト投稿を頂きます。

広瀬先生はキリスト教倫理のご専門で、『福音主義神学』52号で同名の論文を発表されたほか、ドリームパーティでも2回にわたってこの主題で講演されました(1回目 2回目)。

⓪はじめに

はじめまして。広瀬由佳です。聖契神学校で学び、いまは「あり得ないほどのスケールで祝福を広げる」ために働いています。今日から恩師である山﨑ランサム和彦先生のブログでゲスト投稿をさせていただけること、とても楽しみにしています。そして、これを読んでくださる方の中に、いろいろな思いが起こされていくことを期待しています。起こされた思いを、いつかどこかで分かち合っていただけたら嬉しいです。

学会誌『福音主義神学』に「聖なるもの受肉―交わりの回復を目指すキリスト教倫理へ―」を発表し、沢山の方からレスポンスをいただきました。ある方からは「私は読んでいて、不思議なことにあなたの人生の中における涙が伝わってくるように感じました。」と言っていただきました。その方がどこでそう感じられたかまでは聞きませんでしたが、思い返せば、「聖なるものの受肉」は葛藤の中で生まれたものでした。

初回の今日は自己紹介を兼ねた「聖なるものの受肉」誕生までの物語と、「聖なるものの受肉」の問題意識についてお話ししたいと思います。

「聖なるものの受肉」誕生まで

私は中学生の時に初めて教会に行き、信仰を持ちました。その時から今に至るまで出席教会は「福音派」と呼ばれる聖書を神のことばと信じる教会でした。けれども、中学、高校、短大、大学、大学院、教員として勤めた職場は必ずしも福音派の学校ではありませんでした。いろいろな教派・教団のキリスト者と出会い、自分の信仰を見つめ直す過程で、譲れないものと柔軟に変えていけるものを区別していくようになりました。その結果、私にとって譲れないものの一つが「聖書は真実な神のことばである」という信仰だと気づきました。

けれども同時に「聖書は真実な神のことばである」という信仰が、時に隣人を愛することを阻むことがあることに気づくようになりました。様々な理由をつけて自分を誤魔化しながら、自分の中に信仰と隣人愛を同居させていこうとしました。

そんな歩みの途上で、大学院に進学しセクシュアリティの研究を始めました。「当事者」(この言葉は「当事者」と自分を無意識に区別するような言葉であり、あまり使うべき言葉ではないとは思いますが、ここでは括弧書きで「当事者」と書かせていただきます)と関わらずに研究することはできないと考え、性的マイノリティとアライ(マジョリティでありながらマイノリティと連帯する人のこと)のための交流会「虹ジャム」 | 約束の虹ミニストリーに通うようになりました。その中で、聖書がいかに「当事者」を傷つけ、迫害するものとして用いられてきたかを知りました。

また、倫理的課題を前に「○○は罪かそうでないか」と問うとき、今まさに傷つき、苦しんでいる人の痛みがないもののように扱われていくということも知りました。「○○は罪かそうではないか」以外のアプローチがあるのではないか、もっと、痛みを覚えている隣人がいるという現実の中で、きれいごとでは済まされない人生の歩みとして、一緒にもがいていくようなあり方があるのではないか、と思うようになりました。

大学院、神学校で学ぶ中で、キリスト教倫理とは何をする学問なのかと考え続けました。キリスト教倫理は単に良い悪いを判別するためだけのものではなく、もっと豊かなものではないだろうか…そんな格闘の末に「聖なるものの受肉」として生きたイエス・キリストの姿に辿り着きました。

「聖なるものの受肉」の問題意識

上に書いたのは私の個人的な物語です。ですが、「キリスト教倫理」というものと向き合う時に、同じようなジレンマに直面する方は少なくないのではないかと思うのです。そのジレンマとは、キリスト教信仰と隣人愛が対立するように思える事態に直面するということです。聖書はもっとも大切な戒めとして神を愛することと隣人を愛することを挙げています。だから本来信仰と隣人愛、聖書と人権は対立するものではないはずです。それにもかかわらず、聖書から倫理を問おうとすればするほど、目の前で傷つき痛み苦しんでいる隣人がいるというその生の現実から遠ざかってしまうことがある。浮世離れした「お勉強」になり、福音の豊かさとか愛することへの真剣さとか、いのちのダイナミズムとか、そういったものからかけ離れていく。そんなジレンマの中で、引き裂かれるような思いをすることがあるのではないでしょうか。

信仰か隣人愛か、聖書か人権か。私たちは、どちらかを選ばなければいけないのでしょうか。

けれども、目の前の人を愛するためには聖書を捨てなければいけないのだとしたら、あるいは聖書を大切にするためには隣人愛を犠牲にしなければいけないのだとしたら、私たちの考える「信仰」や「隣人愛」とは何なのだろうと思います。そして、どちらかを選ばなければいけない「信仰生活」とはなんと窮屈で生きづらいのだろうとも思います。

私たちがキリスト教倫理においてジレンマを感じるのは、決して倫理的課題や隣人の痛みを軽視しているからではないと思うのです。むしろ、隣人愛を実践しようともがいた結果です。でも、何かがずれてしまっているのだと思うのです。

キリスト教倫理において「罪」(教会の伝統の中で「罪」とされている行為の中には聖書の中で明確に「罪である」と定義されていないものや、罪かどうかが神学的理解に左右される行為があります)とみなされる行為にだけ注目すると、隣人の抱える痛みが置き去りにされてしまいます。そして、そのことが痛みを抱える人々をより一層傷つけ、交わりから去らざるを得ない状況に追い込んでしまいます。

私たちは「肉なるもの」です。たとえ信仰を持ったとしても、肉として限界を持ち、痛みを感じながら生きています。この肉の痛みと向き合うことが、キリスト教倫理において大切なことなのではないでしょうか。イエス・キリストは痛みのある世界に、痛みを感じることのできる「肉」として来られました。イエス・キリストの地上での歩みは、限界を持つ「肉」でありながら、神の「聖」のご性質をこの世界に表わすものでした。人を排除するのではなく、失われた人との交わりを回復しました。痛みを覚える私たちが、どのように自分や他者の痛みと向き合っていけば良いのか、イエス・キリストの「聖なるものの受肉」としての歩みから学んでいきたいと思うのです。

 

次回からキリスト教倫理と痛みについて書いていこうと思います。次回は「キリスト教倫理と自己物語」についてです。続けてお読みいただけたら嬉しいです。

(続く)

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