文学ジャンル別聖書の読み方ガイド 第13回 福音書の解釈 (中)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

関野祐二
聖契神学校校長

● 二層の文脈(垂直に考える)

 前回の復習になりますが、福音書にある主イエスの教えや出来事を読む際、御子イエスの文脈(地上生涯当時の状況)と福音書記者の文脈(初期教会の状況)、その両方を意識する必要があります。これは言わば、二層を垂直に貫く読み方。誤解を恐れず申し上げるなら、主イエスに関する情報源は、現在の形態や構成による四福音書がほとんどすべてであり、これこそが私たちに対する神のことばなのであって、我々自身による主イエスの生涯の再構成が神のことばなのではありません。

 福音書を構成する素材の多くは、文脈を福音書記者に負っています。ですから、福音書の良い解釈とは、記者による現在の文脈に置かれた記事を理解するため、オリジナルの歴史文脈、つまり主イエスの文脈で、最初に起こった出来事や語られたことばを汲み取ることなのです。大切なのは両者のバランスです。

● 並行記事の比較(水平に考える)

 もう一つは、並行記事を比較するという、言うなれば水平に考える読み方。ひとつの福音書にある記事を学ぶ際、他の福音書に収録された同一の記事をも考慮すべきなのです。福音書は、それが書かれた時には他の福音書と並行して読まれることなど誰も想定してはいませんでしたが、現在の四つという形で神が私たちに福音書を与えたのは事実ですから、各々を孤立させて読むべきではありません。

○ 四福音書合成の危険
 ただし、福音書の並行記事を学ぶ目的とは、ひとつの福音書の記事に他の福音書からより詳細な情報を持ち込み、穴埋めするためではありません。それをやってしまうと、複数の並行記事を調和させようとして、結局のところ各々の福音書の特色がかすむことになり、霊感された正典としての四福音書を損なう結果を生みますから要注意。それぞれに美味な四種類のジュースを単純に混ぜ合わせても、最高においしいミックスジュースができるとは限りません。ある福音書には詳細に、別の福音書には簡潔に記されているのには深い意味と目的があるのですから、各々の著者に与えられた権威ある自由を尊重すべきでしょう。

○ 並行記事比較の目的
 水平に考え、並行記事を比較する目的とは、それがひとつの福音書の特徴(著者の目的や編集の意図など)を理解するのに役立つこと、そして似たような記事の異なった文脈を理解するのに助けとなるからです。

 たとえば、マタイ五―七章の「山上の説教」冒頭にある「心の貧しい者は幸いです」(五・三)、ルカ六章「平地の説教」冒頭の「貧しい者は幸いです」(六・二○)を比較すると、説教それ自体には多くの共通点がありつつも、文脈や構成に相違があり、「貧しさ」の強調点も異なります。

 真に貧しい者とは、神の御前に心貧しき者としての自分を認識している者。その一方、ナザレのイエスにおいて受肉した神は、圧迫されている社会的貧者の嘆願に耳を傾け、彼らを弁護するお方です。マタイは前者を、ルカは後者を強調しています。

○ 主イエスの「肉声」とは
 そもそも主イエスは肉声で、「心の貧しい者」「貧しい者」のどちらを語ったのかと詮索してもあまり意味なし。「貧しい」と語ったことばは新約ギリシヤ語「プトーコス」ではなくアラム語「アナウィーム」でしたが、後者には両方のニュアンスが含まれていたからです。マタイ、ルカ両福音書とも誤りなき神のことば、霊感された正典なのですから、みことばを伝える神の意図において、どちらも正しく主イエスのことばを伝えているのです。

● 選択・編集・適合

○ 記者に与えられた自由
 以上のように、福音書記者とは客観的な事実報告をするだけのレポーターではなく、聖霊の助けにより、読者の必要にかなうよう素材を再構成し、書き直した事実において「著者」でした。そこには、「選択」「編集」「適合」という三つの原則があったのです。

 「選択」とは、霊感された著者たる福音書記者が、流布していた数多くの素材から、彼らの目的にかなう物語や教えを選んだ事実を指します(ヨハネ二一・二五)。「編集」とは、選択した素材を著者の意図に従って並べ替え、書き直し、アレンジしたこと(例 マルコ六・四とヨハネ四・四四の文脈と意味)。「適合」とは、福音書の受け取り手である教会の必要に合わせて、記事を書き換えたこと。いずれも、権威を授けられた著者が聖霊による自由において行ったわざです。

○ 枯れたのは即座か否か
 たとえば、主イエスがいちじくの木をのろった記事は、マタイもマルコもエルサレム入城の直後に配置していますが、マルコには主イエスがのろった後に宮きよめの記事があり、夕方の帰り道でいちじくの木が枯れていることに気づく設定(一一・一二―二五)。他方マタイでは、主イエスがのろいを宣言するや、たちまちいちじくの木が枯れるのです(二一・一九)。マルコでは木が枯れたことと宮きよめが関連づけられ、形骸化したユダヤ教へのさばきが宣告されますが、マタイでは教会に対する信仰的レッスンが主眼のため、即座に枯れたとの記録。聖霊は、マタイとマルコ両福音書の記者ともに霊感したのです。

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