アブラハムに属する者

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「アブラハムに属する者」

関田 寛雄
創世記13,8-13 ;

 本日の聖書は、日本基督教団の「聖書日課」によって定められている箇所です。このバプテスマのヨハネの激しい怒りの言葉に接しながら、ここからどのようなことを学んだらよいのだろうかと、ある戸惑いを感じながら読んでいます。

 ファリサイ派とサドカイ派の人々がどういう人々であったか、いま詳しく述べることはできませんが、当時のユダヤ人の信仰におきましては、アブラハムの子孫であるということが当たり前のことになってしまっていたのです。つまり、「信仰の父」アブラハムの子孫である私たちは神の救いから外れることはない、と安心しきっていました。信仰が「所有化」されているのです。信仰が個々の魂の問題ではなくて、文化的に所有されるものになってしまっている。何と言っても自分たちはアブラハムと血のつながりのある、聖なる選ばれた民族だ、そういう自負が当たり前になってしまっている。そのことにバプテスマのヨハネは、激しく憤ります。

 そして、「蝮(まむし)の子らよ」という実に辛らつな批判の言葉を投げつけるのですが、同時に後半では「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(11節)と、バプテスマのヨハネの洗礼と、イエス様の洗礼とを、はっきり区別しています。

 バプテスマのヨハネの洗礼は、悔い改めのあかしとして水を浴びます。しかしそれは、「形」です。それを本当に実質化するためには、聖霊の働きをいただかなければ全うできないのです。悔い改めの決断としてヨハネの洗礼が行われるにしても、その実り、悔い改めにふさわしい実りをもたらすためには、聖霊の恵みを受けなければならないのです。水も清めの「シンボル」、火も清めの「シンボル」です。ヨハネはここではっきりと、主イエス様の聖霊によるバプテスマこそが、人間の救いを全うできるのだということを述べているのです。

 彼がファリサイ派、サドカイ派の人々に対して投げつけた「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな」(9節)という言葉は、血縁のつながりで所有化された信仰を否定し、「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と、アブラハムの子であることを普遍化しています。イスラエル民族だからアブラハムの子だ、という直接的な結びつき、それには何の意味もないのです。パウロも、異邦人であってもユダヤ人であっても「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子である」(ガラテヤ3:7)とはっきり述べて、ヨハネと同じようなモティーフで、アブラハムの子であることを普遍化しています。

 それでは、アブラハムという人は「信仰の父」と言われているけれどもどんな信仰の人だったのか。そのことを第二の問題として学びましょう。アブラハムは創世記の12章から物語の中に登場してまいります。そこでアブラハムに対する祝福が、課題とともに記されています。

主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。(創世記12章1-4a節)

 このように、特別なる祝福を与えられていると同時に、アブラハム及びその子孫は、すべての民族の祝福の基になるべきである、という「課題」が与えられています。むしろ「約束」と言ってもいいでしょう。アブラハムは、恵みと同時に使命を与えられて、その人生が始まるわけですけれども、その生涯がその後どのように展開したかをたどってみましょう。

 今日の聖書の箇所では、アブラハムは信仰に基づき、神の約束を信ずるがゆえに、甥っ子であるロトに対して、実に謙虚で心温まる配慮を致します。アブラハムはロトと一緒に旅を続けていましたが、遊牧の民ですから羊を養わなければなりません。ところが、ロトとアブラハムの羊の群れが一緒に旅を続けていくと土地が足らなくなる。つまり、草を与える土地が不足してくる。そこでアブラハムは、この際別れようではないか、ロトはロトなりに道を選びなさい、私はあなたが選んだ後、自分なりに選ぶから、と提案します。

 ここにアブラハムの謙虚さが表れています。かけがえのない草地、土地を選ぶ優先権をまずロトの方に与えるのです。どうしてそういう事が出来たかと言いますと、それはアブラハムに、神の約束の中で自分に対する道を開いてくださる、そういう信仰があったからです。そのゆえに、ロトに対するまことに謙虚な、愛情に満ちた、土地の優先権、先取権を与えるということができたのです。

 そしてアブラハムは、ロトとは別の土地を選んでいきます。ここで注目すべきことは、ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った(11節)ということです。話の筋道から離れるかもしれませんけれども、「東」ということについて少し述べておきたいと思います。旧約聖書において「東」という方角はあまりいい意味が与えられておりません。例えばアダムとエバが罪を犯し、どこへ行ったか。エデンの園の東に移りました(創3:23-24)。生まれたカインとアベルが大げんかして、カインはアベルを殺してしまいました。そのカインがどこへ追放されたか。エデンのさらに東、ノド(さすらい)の地に追放されました(創4:16)。

 その後の創世記の物語でも、東から来た人々がバベルの塔を建築します。神に逆らう、大きな罪を犯すのは、東から来た人々でした(創11:2)。さらに25章ではイサクとアブラハムの側女の子どもたちとが、別れていきます。アブラハムの側女、およびその子どもたちは東へと移されたと書いてあります(創25:5)。

 そのようにたどるときりがありませんけれども、東という方角は、旧約聖書においては実に良い意味が与えられていません。神から遠ざけられた、神から遠いところにある人々の場所、それが東にあるのです。ところが、新約聖書ではマタイ福音書の冒頭に、クリスマスの星をまず発見したのは、東の方の異邦人の博士であったと記されています。ここに旧約聖書と新約聖書の大いなる逆転があります。神から遠ざけられた人々がむしろ真っ先に、救い主の星を見いだしたというところに、クリスマスの意味があるのではないでしょうか。

 話をもとへ戻します。ではそのようにして旅を続けるアブラハムは、「信仰の父」と言われるように、本当にすばらしい信仰の人であったかという点です。読んでまいりますと、アブラハムは天の星のように、海の砂粒のようにたくさんの子孫が与えられるという約束をいただいています。繰り返し約束されている(創13:16、15:05、22:17)。ところが、いつまでも子どもが生まれない。しかたなしにアブラハムは養子を迎えます。ダマスコのエリエゼルという者を養子に迎えるのです(創15:2-3)。 神さまの約束を信じないで自分勝手に子孫をつくろうとしたわけです。それでも神さまは、子孫が、私の約束を受け継ぐのだ、とあえておっしゃる。15章ではアブラハムはもう神さまの約束が信じられなくなっています。改めて神さまに示されましても、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」(2節)「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」(3節)と言っています。

 これはアブラハムの不信仰を表わしているわけでしょう?約束を信じられない。自分勝手に子孫の道をつけてしまった。ところが神さまは改めて、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(4節)そして「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」そのように「あなたの子孫はこのようになる」(5節)と示され、そして「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(6節)。このことが「信仰による義」によってこそ神の救いにあずかり、約束にあずかるのだというパウロの言葉へ受け継がれているのです(ローマ4:1以下を参照)。

 ではアブラハムは、その後はそのように信じ通したかというと、そうではありません。妻のサラは、歳をとってきてもうこれ以上待てないと思い、自分の側女のハガルをアブラハムに与えて、ハガルから子どもを得なさい、私の子どもでなくても世継ぎになるでしょう、と願います。これもまた神さまに対する不信仰です。アブラハムは妻の願いを受け入れて、ハガルと交わってイシュマエルが生まれました。

 アブラハムは改めて神さまから子どもが授かるということを聞いても信じません。「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』『どうか、(側女の子どもの)イシュマエルが御前に生き永らえますように。』」(17章17-18節)と、神さまに不信の言葉を述べています。印象深い言葉ですけれども、「笑って、ひそかに言った」とあります。この笑いというのは冷たい笑いです。神さまに対する冷たい笑いを持つような、そういうアブラハムなのです。

 さらにまた妻のサラも、子どもが生まれると聞いた上で、「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。 」(18章12節)と「笑って」いるのです。夫も妻も冷たい笑いをもっている。この人がどうして「信仰の父」と言われるのでしょうか。イサクが生まれるのは、創世記の21章になってからです。それまでアブラハムはうろたえながら、相変わらずひそかに笑いながら、旅を続けているわけです。なぜそんなアブラハムが「信仰の父」と言われるのでしょうか。

 私は思いますけれども、信仰というのは、人生における最も深い揺れうごきの場面です。信仰がわかってしまったらおしまいなのです。信仰という世界はどこまでも奥が深く、わかりきることなんてありません。よく、洗礼を志す方が戸惑いながら「何もわかりません、こんな状態で洗礼を受けていいのでしょうか」という疑問を口にされますが、疑問をもちながら信仰生活は始まるのです。疑問がなければ始まりませんし、信仰生活に入っても揺れうごくのです。

 アブラハムがそうでした。信ずるアブラハムと、冷たく笑うアブラハムとが重なって、信と不信とが緊張関係の中で揺れうごいているのです。そこに最も人間的な世界があるのです。まともに生きようと思うならば、いろんな事がらにぶつかって揺れうごかざるを得ない。それが人間の世界、それが信仰の世界です。信仰がわかったと思い込み、「所有」になってしまうということはどんなに恐ろしい間違いであるか。バプテスマのヨハネが力を尽くして批判したのは、そういう所有化された信仰、わかってしまった信仰、当たり前になってしまった信仰です。所有化した信仰のつまずきを鋭く指摘されたのが鈴木正久先生でした。いわゆる「キリスト教的幸福主義」を本当に強く批判されました。所有化され、幸せの源になった信仰、そんなものは信仰でも何でもない、神に対する不服従だ、と。神さまに対して本当に誠意をもって従おうとするならば、揺れうごくのです。

 人生の中でこの揺れうごきは何遍くるでありましょうか。この度の東日本大震災を見ましても、本当に「なぜですか」と問わざるを得ません。アブラハムも、おそらく何度も何度も「なぜですか」と問い、揺れうごきながらも、その都度その都度神の約束に引きずられながら生きていったのでしょう。そして人類として究極の「なぜですか」という問いを叫ばれたのが、十字架のイエス・キリストではなかったでしょうか。

 十字架のイエス・キリストは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15:34)と叫ばれました。私は神学生の頃にある先生から、あれは詩編22編の冒頭の言葉(詩22:02)で、本来は神に対する深い信頼の詩なのだ、イエス様は十字架にかかり血を流しながらも、神さまに対する信頼の詩を口ずさんで亡くなってゆかれたのだという話を聞かされたのですけれども、そういう建徳的な解釈も結構だとは思いますが、私はそうなのかなぁ、と思い続けておりました。

 やっぱりイエス様は、十字架の上で絶望されたのです。そう思います。そこまでイエス様は人間に、人類に連帯されたのです。人類的な絶望を、イエス様がまずもって叫ばれた。そこに救い主イエス様の姿があるのです。

 私の友人で藤沢に中途失明の牧師がいます。ヨハネ9章に、生まれつきの盲人に対するイエス様の「この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れん為なり」(ヨハネ9:3)という言葉があります。多くの方々、特に視覚障害の方々はそこに救いの言葉を見いだしているわけですけれども、藤沢のこの牧師は中途失明で、この聖書の箇所を読むのは好きでない、と言うのです。なぜなら、シロアムの池に行ってイエス様が言われたとおり目を洗ったら、目が見えるようになった。めでたしめでたしの話じゃないか。だけど、私はまだ見えないんだよ、とはっきりそうおっしゃるのです。

 ではあなたはどの聖書の箇所で信仰を与えられて牧師にまでなったのか、と尋ねますと、それはなんと言っても十字架上のイエス様の「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」あの叫びだと。あれは私の叫びなんだよ、私の叫びに先立って、イエス様が神に向かって叫んでくださった。私のために、私の代わりに、私に先立って、イエス様があの叫びを叫んでくださっている。だからイエス様は私の救い主なのだよ、とおっしゃったのです。

 東日本大震災でいろいろなお話がありますけれども、新婚一年の若い妻が津波に流され、夫は別の学校で教師をしていて生き延びた。家も流され何もかもなくなってしまった。残った遺品は、その日の朝に妻がつくってくれたお弁当の、弁当箱だけしか残っていない。そういう状況のなかでは、なぜですか、なぜですか、という叫びが出てくるしかないではありませんか。でも神さまは沈黙のままでした。

 神さまは言葉ではなく、「事件」でお応えになったのです。

 それが主イエスの復活です。徹頭徹尾むごたらしい最期を遂げたイエス様を、神さまは最後に死から解き放ち、そして復活の命に生かしめられた。イエス様ご自身が復活の恵みに、まず最初に一番深くあずかっていらっしゃるのです。イエス様が自力で復活したのではない。イエス様は復活させられた。パウロの手紙を見ますとみんな受身形です。そのようにしてイエス様ご自身が、父なる神によって復活せしめられた。それが神さまの答えであったのです。

 パウロはさらに言います。キリストにありてすべてのもの生くべし、と。この東日本大震災で、あの津波の中で叫びながら死に落ち込んでいった方々にも「凡ての人、キリストに由りて生くべし」(コリント 一 15:22)というこの約束が届いていると思わざるを得ません。

 アブラハムの揺れうごきの生涯、これこそが信仰の本来的なあり方なのです。なぜ、なぜ、と問わざるを得ない人生の旅路の中で、繰り返し繰り返し神さまが示してくださる約束に目を上げながら、それをたどりたどり歩んでいくのが、天国への道ではないでしょうか。なぜ、どうして、という人類的な問いを、イエス様が私たちに先立って、私たちのために、私たちに代わって、神に向かって叫ばれたことが、福音の原点であろうと思います。

 アブラハムも最後の最後にイサクに恵まれ、イサクがその跡を継ぎ、その子孫たちに諸民族の祝福の基になるという約束と使命が与えられ、それがイエスキリストの教会につながっているのです。使徒言行録のペテロの発言(使徒3:25-26)にもありますように、アブラハムのこの世界の祝福の基になるというその約束が、イエス・キリストを通してキリスト教会の祝福となり、使命となっているということを覚えておきたいと思います。

 最後に、スイスのカヴィーツェルという方の『何故と問うなかれ』(F. Walter Caviezel、1955年)という小説についてお話しします。私は若い頃これを読んで深い感銘を与えられました。一人の若いお医者さんが結婚して、まもなく妻が身ごもったことを知るのですが、同時に結核の発病もみつかります。医者ですから、妻の結核の進行が気になる一方で、身ごもりの状況も進んでゆく。やがて妻の命か、胎児か、どちらかを選択することを迫られます。なぜだ、どうしてなんだ、と叫ばざるを得ない。しかし妻は病がこうじて亡くなってしまう。胎児も亡くなってしまう。彼は二つの愛すべき命を同時に失ったことに絶望し、悲しみのあまり、もう二度とメスは握らないと決心します。

 けれども妻のことが忘れられず、かつて療養していたサナトリウムを訪ねます。そこに今も療養している病棟での友人たちがいて、妻の思い出がいろいろ語られはじめます。――私たちが一体いつまでこの病院にいなければいけないのか、いつまでに治るのか、どうしてなんだ、とつぶやくのに対して、あなたの奥さんはいつも言っていましたよ。なぜ、なぜ、と問うことをやめましょう。他人の十字架を負うときに、自分の十字架が軽くされるのですよ、だから、なぜ、なぜと問うことをやめましょうと言ってくれたんだよ、われわれはその言葉によって、なぐさめられて今日があるのです――。その言葉を聞いた若い医者はショックを受け、そして山を下ります。ホテルに戻り夕食をしているときに、農夫の方が叫びながら駆け込んでくる。「このホテルに医者はいませんか、自分の妻が崖から転落して大けがをしました」と。そのとき、二度とメスを握らないと決意していた彼が立ち上がり、「ここにいるよ、医者はここにいる。一緒に行こう」と言って、農夫と共に出て行くというのが結末です。

 この書物の中にあります「隣人の十字架を負うときに自分の十字架が軽くされる」、この言葉は、私の若いときに決定的に心に刻み込まれた言葉でありました。その後私は、井上良雄先生が翻訳された、若くして子ども残して亡くなってゆくシュザンヌという牧師の妻の残した言葉を記した本に出会いました。そのタイトルが『その故は神知りたもう』。ここにアブラハムに属するものの姿があるのではないでしょうか。

 なぜですか、という問いを問い続けたアブラハム。そして神の約束に引きずられるように生きて、偉大なる信仰の遺産を残したアブラハムは、揺れうごきの人であったということを覚えておきたいと思います。揺れうごきつつ、あの主イエスの十字架の叫びに励まされながら、私どももまた「その故は神知りたもう」という言葉とともに、アブラハムに属するものとして信仰の生涯を全うしたいと思います。

 
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