罪の世に来る主

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「罪の世に来る主」

秋葉正二
;マタイ福音書1,21

 旧約から学びます。テキストは「第三イザヤ」と呼ばれる文書の一部です。古代イスラエル史でもっとも大きな事件は「バビロン捕囚」ですが、この出来事がイスラエルに及ぼした影響は計り知れません。文字通りイスラエルは亡国の民となりました。南王国の生き残った人々の大半がバビロンに強制移住させられ、捕囚民とされました。 最初の捕囚は紀元前597年に、その後、582年まで、計3回行われています。

 ここでイスラエル史は終わるかに見えましたが、紀元前539年、半世紀にわたる流刑の後、新しくオリエントの盟主となったアケメネス朝ペルシャの初代の王キュロス2世によってイスラエルは解放されました。ユダヤ人たちは、帰還のみならず、故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことも許されます。それゆえ、旧約聖書においては、キュロスはある種の英雄として取り扱われています。

 捕囚時代の信仰的指導者として名高いのが第二イザヤと呼ばれる人物で、この人の思想には非常に深いものがあります。第三イザヤと呼ばれる預言書が主に扱っているのは、それ以降の捕囚解放時代です。キュロスの勅令が出たと言っても、帰還民がいきなり全員祖国に向かったというわけではなく、第一回第二回と順を追って帰還は行われました。しかも興味深いことに、この時、多くのユダヤ人は半世紀にわたるバビロニアでの生活を捨て、命がけの荒野の旅をして、今さら荒廃している祖国に戻るのは嫌だと言ってバビロニア・ペルシャ領内に留まることを選んでいるのです。これがいわゆるディアスポラの始まりとも言われています。

 それに対して少数の帰還民は、帰還後神殿再建に着手するのですが、これとても容易なことではありませんでした。まず第一に生活の逼迫があります。捕囚を免れた残留民との対立があり、ユダヤを属国としていたサマリア人の妨害も記録されています。この辺りのことはエズラ書やハガイ書で確認できます。ですからハガイ書1章によれば、神殿再建事業は一旦中断しています。バビロン捕囚と言っても、様々な背景があり決して単純な出来事ではありません。

 とにかくハガイとかゼカリヤという預言者たちのバックアップもあり、応援部隊がバビロンから派遣されてきて、五年の歳月をかけてエルサレム第二神殿は再建されています。こうした一連の流れの中で、私たちが見なければならないのは、宗教的な夢が破れ、政治的にも近隣のサマリアなどに依存しながら細々と生き延びることができた生命力がどこから来たのか、という点でしょう。神殿再建をめぐる熱い期待と深い失望の中で、苦難を生き抜く生命力が少しずつ熟成していったプロセスに注意を払う必要があります。

 きょうのテキスト12節以下に目を留めてください。それまで59章の初めから二人称、三人称で語られていた人たちが、一人称〈わたしたち〉で罪の告白を始めている点に注目したいと思います。〈主〉を〈わたしたちの神〉と呼んでいる者はもちろんイスラエルの民です。その〈わたしたち〉の「罪」と「咎」とは、59章の前半部で述べられている弱い者たちへの「虐げ」であり、「裏切り」であると、告白しているのです。

 これはもちろん社会的なレベルでの物言いでしょう。しかしそれだけではなく、それに加えて、最も重要なこととして、神さまとの垂直的な関係に触れながら、神様に対して「偽り、背いたこと」の罪を認めて、告白しているのです。ここには信仰の民と呼ばれるイスラエルの面目躍如たるものがあります。イスラエルの民の偉い点は、事あるごとに神さまの前に自分が立たされていることを自覚できることです。13節にあるように、『主に対して偽り背き、神から離れ去った』 ことこそが罪の本質だということに立ち帰っています。こういう素晴らしい信仰的資質を備えていたからこそ、イスラエルは歴史の中に埋没しなかったのだと思います。

 きょうのテキストを読みながら、私は30年も前に読んだ一冊の本を思い出しました。 先週、ようやく本棚の片隅から見つけ出したのがこの本です。書名は《わが罪はつねにわが前にあり》です。副題として〈期待される新警察庁長官への手紙〉とあります。著者は元警視監の松橋忠光氏。警視監という位はキャリアの中でも10指に入るような高い地位です。副題にある新警察庁長官は松橋さんの尊敬する友人なのです。

 彼は横浜の上大岡教会で受洗して聖書に親しむようになりました。この本の中で彼は自分が警察キャリアとして赴任してきた県警本部で行なってきたことが神さまの前で罪であることを詩編51編や預言書から示されたのです。警察内部の二重帳簿の存在です。けれども執筆の目的は警察暗部の暴露ということではなく、神さまの前に日本の警察が正しく歩んでもらいたい、という願いなのです。

 しかし警察内部の不正が書かれていますので、警察庁はこの本の回収にかかり、尾行をつけるなど松橋さんの身辺に圧力を加えました。当時上大岡教会の牧師であった角田三郎先生までもがその渦に巻き込まれます。角田先生は佐渡教会で牧会され、その後、敬和学園の寮長を務められましたので、身近に感じる大先輩です。

 私は警察庁の幹部たちが松橋さんのように神の前で罪を認めて歩み直していれば、今日のような警察の数え切れないほどの不祥事が生まれることはなかったと思っています。紀元前に書かれた旧約聖書のみ言葉が、現代人の生き方を正しく改め直す力を持っていることを、この本は教えてくれました。

 テキストには「正義」(ミシュパート)と「恵みの業」(ツェダカー)という第二イザヤが捕囚の民に約束した言葉が出ているのですが、主なる神さまを思うにつけ、バビロン捕囚後のユダヤ教団、イスラエル民族の現実が、ミシュパートとツェダカーからはいかに遠いかが表現されています。捕囚という環境は、言わば闇に閉ざされた光を見ることができない世界ですが、捕囚から解放された今もまだミシュパートもツェダカーも実現していないという自覚が記されているのです。

 しかし主なる神さまは、自ら乗り出されて来られ、悪と戦うために鎧、兜という武具を身にまとう戦士として17節に描かれます。すなわち、「恵みの業」(ツェダカー)を鎧とし、「救い」を兜とし、「報復」を衣とし、「熱情」を上着として身を包まれる、という件です。この報復ナーカームという語は、第三イザヤの場合、61章や63章に出てくる「救い」と深く関係しています。

 旧約の思想は時に分かりにくく、真意を汲み取ることが難しいことがしばしばですが、私たちには神さまとの間を取り持ってくださるイエスさまがいてくださることは、何と恵まれたことかと改めて思いました。イエスさまをしっかり見つめて歩んで行きたいものです。きょう私たちは、イエス・キリストの降臨節第二主日を迎えています。引き続きアドベントをしっかり過ごしてまいりましょう。   祈ります。


 
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