ひざまずいて祈ろう”
ラスベガス日本人教会 砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を
今日は、
”祈り”について考えてみました。
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、明けてもらえるであろう。(マタイ7:7)これは、イエス・キリストが語られた
”山上の説教”の一節です。ここでイエス・キリストが言っておられるように、祈りというものは、「獲得の力」、「発見の鍵」、「打開の力」です。私たちは誰でも、人生の行き詰まりを経験することがあります。それはちょうど、道のない荒野にいるのと同じで、どこに向かって進めばいいのか皆目見当がつきません。そこで、私たちは周りにいる人に聞きながら、あちこち歩いてはみるものの、結局、人は助けにならないことを経験します。エレミヤ書33章3節に、
「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す」という言葉があります。この言葉は、昔、イスラエルがバビロン帝国に支配され、いつになったら自由になれるのか分からず、将来に何の希望も見出せなかったとき、神が預言者エレミヤを通してイスラエルの民に語られた言葉です。そこで、この言葉どおり、彼らが神を呼び求めると、神は素晴らしい将来の計画を彼らに示されたので、その八方ふさがりの状況の中で、彼らは生きる根拠と希望を見出すことができたのです。 日銀の前総裁であられた速水総裁は、「変えることのできるものを変える勇気、変えることのできないものを受入れる冷静さ、その両者を見分ける知恵を与えたまえ」という、ラインホールド・ニーバの祈りを常に座右においていると言われたことがあります。経済界の要職にあった日銀総裁がクリスチャンであり、祈りが座右の言葉とは素晴らしい証しです。忙しさの中にあっても、いつも立ち止まって祈る事を知っている人は、大きな事を任せられ、またそれをこなすことができます。また祈りは、私たちを不必要な失敗や失望や心配から救ってくれます。ニューヨーク生命保険会社に、リー・バックスという人がいました。彼がマンハッタンの本社で仕事をしていると、「会長がお呼びです」と秘書から連絡がありました。彼は、「いよいよ念願のマーケティング担当副社長のポストが手に入るぞ」と思いました。営業部員として入社して20年、この日を目指して彼はひたすら働いてきたのです。彼は、当時、東部地区の営業部長でしたが、会社への貢献度を考えれば、全国一万人のセールスマンを統括する会社の要ともいうべきポストに起用されることは誰もが考えることでした。会長室は一つ上の階で、彼は、階段の方が早いので、階段を使いました。ところが、階段の途中の踊り場で、突然立ちどまり、ちょっとの間、彼は考え祈りました。「どんな事態も冷静に受け入れ、最善の方向にもっていくことのできる賢明さと落ち着きを与えてください」と。それから彼が会長室に入ってみると、実は左遷の命令でした。彼はがっかりしました。怒りが込み上げてきました。しかし祈りのおかげで、「神はさらに素晴らしい計画を持っておられるに違いない」と思うことができ、その落胆と怒りが一瞬でおさまったのです。リー・バックスは椅子にゆったりかけて、「わかりました」と答えることが出来ました。そして彼は神の祝福を信じ、いつも祈りを大切にしながら会社のために努力していきます。そして4年後、彼は念願の副社長に抜擢されるのです。もし、この時、彼が祈ることをしていなければ、冷静さを欠き、副社長の器ではないというレッテルを貼られていたことでしょう。祈りの欠如は、主の御心から目をそらさせます。また冷静さを欠かせ、信用を失わせます。物事を自分本位に見させ、判断を間違わせます。そして、神の時を待てなくさせ、間違った選択をさせてしまうのです。
今日の一言: 日々ひざまずいて神に祈ろう鶴田健次
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