イエス・キリストは復活した。
イースターの日の礼拝で、私はコリント第一15,1-11をテキストにして説教し、「現れた」という言葉の意味について述べた。イエスが生涯を賭けて明らかにした事柄が継続する。このことが弟子たちに信じられた、ということであると。その際私たちの目は、2000年前に起こったことは何であったのかと、過去に向いていた。
その後私は、復活の信仰が私たちの現在の生き方を変えるということについて語った。復活を信じることは、私たちの現在に関わるのである。彼は今、目には見えないけれども、天で生きている。彼は「神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださる」(ローマ8,34)とパウロが言う通りである。私たちの生活は、この生ける主の優しい眼差しの下で守られている。そして、この世界のすべては、この意味で彼の支配の下にある。これが復活の信仰である。
このように、復活信仰には過去に関わる面と、現在に関わる面との両面があるが、それに加えてもう一つの面がある。将来である。コリント第一と並んで復活に関する最古の資料と言われるマルコ福音書16章においても、このことは明らかである。空っぽの墓の側に呆然と佇む女性の弟子たちに、白い衣を着た若者が、「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(マルコ16,6)と告げたという。「ここ」とは墓だ。墓は過去である。イエスは墓の中にはいない。そう言った後、若者は続けて、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」(7)と言う。ここで弟子たちの目は、過去から将来へ向け変えられる。
パウロもまた、今日の所で、復活の信仰が私たちの将来に関わるということを述べ、特に終末論的な希望を強調した。少し前の所だが、
「次いで世の終わりが来ます。その時、キリストはすべての支配、すべての権威
や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵をご
自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵
として、死が滅ぼされます」(15,24-26)
と言っている。
つまり、キリストは復活し、目には見えないが今も生きていて、私たちと共におられる。この方が、世の終わりには一切のものを完全に支配するために再び来たり給う、というのである。私たちの将来はそこにある。イエスの中に躍動していた愛と真実と命こそが、他のものではなくイエスの愛と真実と生命こそが私たちの将来なのである。私たちはかつて、将来を悲観的に考えていた。愛には終わりがあるし、真実はやがて古びる。命ある者は必ず死ぬ。人の世とは、そのようなものだ。
だが、復活の信仰は、私たちに終末論的な希望を与える。
「キリストわれに甦れば
よみがえりにあたいするもの すべていのちをふきかえしゆくなり
うらぶれはてし われなりしかど
あたいなき すぎこしかたにはあらじとおもう」(八木重吉)。
さて、今日の所では、終末論的な希望の典型として、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(54-55)と言われている。これは、の、少し形を変えた引用だが、パウロはこのような旧約聖書の信仰を受け継いで、終末論的な希望を語ったのである。さっき引用した「最後の敵として、死が滅ぼされる」(26)という言葉も同じ意味である。死が勝利にのみ込まれる!今はこの点に注目したい。
現実には、私たちの世界では、死が勝ち誇っている。ガンやエイズや、最近発見された抗生物質の利かない新しい細菌などによる病気のために、毎日のように沢山の人が苦しんで死んでいくと聞くと、「死が勝ち誇っている」と感じる。病気だけではない。
先週、米国デンバーの高校で起こった戦慄すべき事件に、私たちは言葉を失った。実に痛ましい気持ちでいる。だが、こういう事件が何度起こっても、結局「銃を持つことは権利である」という声が勝つ。その時、「死が勝ち誇っている」と感じないだろうか。
ユーゴで日ごとに拡大しつつある戦争。そのことを聞いても、「死が勝ち誇っている」と感じるし、戦争を放棄することを誓った私たちの国が、アジアでは有数の軍備を持つようになり、今や事実上、アメリカの戦争を支援するシステムの中に組み込まれた。今週、おそらく周辺事態法案は衆議院を通過するだろう。こういうことを見るにつけ、私たちは「死が勝ち誇っている」と感じる。
「死」というものは、病気や事故や犯罪や戦争の結果として生じる現象、というだけのものではない。その背後にあって、それを生み出す巨大な力のことである。人を殺すための武器を大々的に製造し、実際にそれを用いた殺戮を止めることができないような世界は、「死の力」に捉まって踊らされているとしか思えない。これこそが「最後の敵」である。
「死のとげは罪である」(56)とパウロは言う。彼はまた、「罪の力は律法です」(同)とも言う。この意味は、自分は律法を守っているから正しいと自己を正当化しようとする生き方のことであろう。こういう自己絶対化が罪であり、それは死を招く。このような精神が世界を振り回していることを、誰が否定できようか。「死が勝ち誇っている」
だが、死は勝利にのみ込まれる!必ずそうなる。これが復活者の約束である。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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