Followers of Jesus Christ-Iamachristian.org
霊から生まれる」

 ニコデモは「ファリサイ派に属し、最高法院の「議員であった(1)。つまり、当時のユダヤ人社会では指導的な階層の知識人である。この人が「ある夜(2)、イエスを訪ねて来た。普通、夜は訪問の時間ではない。よほど切羽詰まった気持ちで、折り入ってイエスと話したいと思ったのであろう。 ニコデモは先ず、こう話を切り出す。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです(2)。これは「お世辞ではない。福音書はそんな無駄なことは書かない。 この言葉は、ニコデモが既にある認識に達していたことを示している。ニコデモだけではない。「わたしどもと言っているように、彼と同じ考えの人々が何人かいたの

大いなる都の不幸」

「倒れた。大バビロンが倒れた」(2)とあるように、18章は全体として「バビロンの滅亡」について語っている。しかし、「バビロンの名を借りてはいるが、実はローマを意味しているのである。このことは前にも述べた。 無論、ヨハネがこれを書いている時点では、ローマはまだ倒れていない。それどころか大いに繁栄し、いわば絶頂期にあった。よく「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と称えられるように、この大帝国は絶大な武力と経済力によって不平不満を押え込み、その意味で「平和を実現していた。「すべての道はローマに通じ」ていたし、皇帝は帝国内の至る所で「神として礼拝されていた。 翳りが現れるまでには、なお300年の年月を経過しなければならない。帝国が東西に分裂したのは、皇帝テオドシウスの死後、395年である。ゲル

神はあなたがたのために」

  今日の所でヨハネは先ず、「天よ、。聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ」(20)と呼びかける。「この都の滅亡のゆえに喜べ」という意味だ。これには抵抗を感じる人も多いだろう。ローマが神の裁きを受けて滅びるのは、本当は「悲しむべきことではないか。それを「喜べというのはいかがなものか? ドイツ語に「シャーデンフロイデという言葉がある。「シャーデンは損害あるいは不幸。「フロイデは喜びのことだ。だから、「シャーデンフロイデは人の不幸を「ざま見ろと嘲笑う意地の悪い喜びのことだ。これは、「意地悪婆さん」(長谷川町子)のような漫画の世界では許されても、実際の生活の中でこれをやられると傷つく。黙示録は、この「シャーデンフロイデを認めているのだろうか? ヨハネは言う。「大いなる都バビロン」、つ

神をほめたたえよ」

 黙示録17章では、「大淫婦(=ローマ)の姿が毒々しく描写された。神を冒涜する名で全身を覆われた「赤い獣にまたがり(3)とか、「紫と赤の衣を着て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持ち、…イエスの証人たちの血に酔いしれている(4~6)とか。 18章では、その大淫婦の悪行が具体的に描かれた。「おごり高ぶって、ぜいたくに暮らした(7)とか、政治的権力者たちと「みだらなことをした(3)したとか。そして商人たちは「豪勢なぜいたくによって富を築いた(3)。それだけではない。そのような政治・経済の一極集中によって「預言者たちと聖なる者たちの血がこの都で流された(24)。ローマが「ひとときの間に裁かれた(10)のはこのためだ、と言う。 今日の19章はそ

白馬の騎手」

今日のところには「白馬の騎手が登場する。私はここを読んだとき、たしかアルブレヒト・デューラー(16世紀のドイツの画家)に有名な木版画があったな、と思い出した。そこでデューラーの画集を持ち出して調べてみると、「黙示録の騎手という1498年の作品が見つかった。皆さんにお配りしたのはそのコピーである。 しかし、よく見ると、この作品は黙示録19章ではなく6章を題材にしたものだ。念のために6章を開いてみよう。先ず、「小羊が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物(=天使的な存在)の一つが、雷のような声で『出て来い』と言うのを、わたしは聞いた(1)とある。デューラーは、この言葉を先ず天使の姿で上の方に描いた。そして、天使の声に応じて左の方から馬に乗った四人の騎士たちが画面中央に駆け込んでくる。馬

キリストと共に」

 皆さんの中に、「千年王国説、あるいは「至福千年説について聞いたことのある方はおられるだろうか? それは、このヨハネ黙示録20章から来ている。天使が降って来て、本当の終末に先立つ千年間、悪魔の活動を抑え込むというのだ。「悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした(2-3節)とあるのがそれだ。 そして4節以下には、「イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち、つまり、信仰の純潔を守って殉教の死を遂げた義人たちは「生き返って、キリストと共に千年の間統治するという。それで「千年王国というのである。 この「千年王国説は、迫害下にあった初

命の書に記される」

ヨハネ黙示録による説教も次第に終わりに近づいて、あと2章を残すだけとなった。この辺で、最も大事なことをいくつか再確認しておきたい。 ヨハネ黙示録は謎に満ちた独特な文体を持っているが、その主題は意外に単純だ。「世界はこれからどうなるのか。これは、いろいろな意味で先行きに不安を感じている現代人にとっても、真剣な問いである。この問いに対して、黙示録はこれまた単純にこう答える。「現在の状態がいつまでもダラダラ続くということはない、やがて終末が来る。いわゆる「終末論」である。 この「終末は、「恐ろしい破滅」を意味するかのようにしばしば誤解されているが、それは違う。黙示録の終末論は、21章以下で明らかになるように、やがて救いが完成され、天と地の一切が新しくされるということなのである。黙示録に限らず、

平和を願って追い求めよ」

 5月25日の礼拝後、映像ジャーナリスト後藤健二さん(田園調布教会員)の「バグダッド・リポートを皆で聞く機会が与えられた。勇気の要ることだと思うが、彼はまだ危険が一杯のバグダッドに入り、そこで暮らす普通の人々に密着した取材をして来た。そのビデオを見ながら、生々しい報告を聞いたのだ。我々は強い印象を受けた。 その後、反響はいろいろな形で広がった。一つは、いくつかの教会や学校(明星学園、東京女子大)などでも報告会が行われたことである。もう一つは、我々の教会の「青年会メーリングリスト上で活発な意見の交換があったことだ。それは、先週発行の「教会だよりに転載された。それぞれの発言を読むと、胸を打たれる。 例えば、本間詠美子さんはこう書いた。「現地の生々しい映像、―― たとえば小さな子供にまで向けられる

キリストの苦しみ」

Ⅰ先日の8月15日、敗戦記念日の夜、幾つかの報道番組を見ました。ある番組は、電話アンケートをしていました。司会者が出す質問に視聴者がプッシュフォン形式でイエス・ノーを答え、その集計結果がテレビ画面にそのまま反映されるやり方です。幾つかの質問がありましたが、その中に「あなたは自分が勝ち組みだと思いますか、それとも負け組みですかというものがありました。そしてアンケートの結果、〈負け組み〉と答えた人が圧倒的に多かったのです。ちょっと驚くと同時に、そうなのかと考えさせられました。人間を勝ち負けで二つのグループに分ける〈勝ち組み/負け組み〉という単純な発想は、もしかすると〈人生は戦いだ〉という考え方と同じくらい古いのかも知れませんが、明らかに現代の日本社会に、よく浸透しているのでしょう。その背景には、

新しい天と新しい地」

 先週はひどい一週間だった。19日にバグダッドの国連現地本部が爆弾テロ攻撃を受け、特別代表デメロ氏を始め20人以上が死に、100人以上が重軽傷を負った。同じ日に、エルサレムの中心部では路線バス内で自爆テロによる大爆発が起き、20人近くの市民が死に、136人が負傷している。パレスチナ過激派「ハマスが犯行声明を出したのに応じて、二日後の21日にはイスラエル軍が仮借ない報復行動に出た。パレスチナ自治区ガザで、「ハマス最高幹部の一人アブシャナブ氏を4発のミサイルで乗用車もろとも爆殺したのである。「ハマスもこれに対抗し、6月末から曲がりなりにも守られていた「停戦の破棄を宣言した。新中東和平構想「ロードマップ(行程表)は事実上挫折したと言う他はない。 何という世界だろう。平和を願う人々の祈りや、善意の人

新しいエルサレム」

 ヨハネ黙示録21章1-8節は「新しい天と新しい地について語っている。慰め深く、力強い言葉だ。今日の9節以下では、その「新天新地の様子がさらに具体的に「新しいエルサレムという形で展開される。―― 七人の天使の中の一人がヨハネを大きな高い山の上に連れて行き、「聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来る(10)のを見せる。 その都は、一辺が12,000スタディオン (2,200km)というから、ほぼ日本全土に匹敵するほどの広さだ。この都には「高い大きな城壁と、12の「門と、その「土台があり、それらはすべて宝石で飾られ(18-21)、「神の栄光に輝いていた(11)。この描写には辻褄の合わないところがあるが、今は細かいことにはこだわらないことにしよう。要するにヨハネは、「新しいエルサレム

光の中を歩く」

 我々の世界は色々な点で進歩もしているが、悪くなっている面もある。この辺のところをどう考えればよいのだろうか。ローマクラブの報告書『第一次地球革命』(1992年)の分析は大いに参考になる。これが世に出てから既に10年以上を経過しているから、やや古くなった点もあるが、大筋では今日も立派に通用する。その要点を私なりに整理して紹介してみたい。 この報告書は先ずこう指摘する。現在、地球上には「革命ともいうべき重大な変化が起こっている。それには良い面もあるが、望ましくない面もあって先行きは不透明だ。そのために、多くの人は不安になっている。 その重大な変化の第一は、何と言っても1990年の冷戦終結である。これは非常に望ましい変化であった。全世界の人々が大喜びした。しかし他方、それによって巨大な権力がアメ

教会カンファレンス開会礼拝私たちはどこへ行きましょうか」

今年のカンファレンスの主題は「私たちはどこへ行くのかである。この主題がどのような意図から選ばれたかということについては、準備委員会が「しおりの3頁に次のような導入の文章を書いているから、先ずそれを引用したい。 「私たちの教会は最初の成長期を経て、いわゆる第2期に入ろうとしています。 私たちの生きる世界も冷戦後の10年余りを経た現在、個人・地域・文化の存在を重視するか、あるいは人材・国家・文明の有用性や支配力の増大を目指すか、という大きな問いの前に立たされているように思います。<イエスに従う>ことを願う私たちは、技術と環境・国家と教育・国際社会と平和・地域と福祉、といった大切な問題について、どのような未来を思い描くことができるのでしょうか。 この文章は、我々が常々考えていることや、青年会

イエスと漁師たち」

敬愛する皆さん、 先ず、遠いドイツ、私が生活し仕事をしているメクレンブルク州教会からのご挨拶を皆さんにお伝えし、使徒パウロがローマの教会に送った挨拶の言葉をそのまま申し上げます。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように(ローマ1,7)。 日本とドイツは遠く離れていますし、両国の歴史や文化、言葉はずいぶん違いますが、にもかかわらず同じ聖書のメッセージ、同じイエス・キリストの福音、同じ信仰が私たちを結びつけています。信仰生活における似たような経験も、私たちを互いに結んではいないでしょうか? このことを知るためには、私たちは互いに訪問し合い、語り合い、質問し合うということをしなければなりません。この数日で、私はそのことを体験しました。 ドイツ教会代表団

わたしに倣う者」

I私たちは人生の歩みを進める中で、何らかの手本あるいはモデルを探します。これは小さな子どもたちだけでなく、大人の場合も同じであろうと思います。しかし、変化の激しい現代において、そのような人生の歩みにおけるモデルを見出すことは簡単ではありません。人々の手本になることが期待されている人々に不祥事の絶えない時代、親が子どもをネグレクトすることもある時代、つまり、いわゆる〈モラル・ハザード〉の時代に生きている私たちは、もうちょっとやそっとでは驚きません。有名な病院の医師が、自らの名誉心から、患者に危険で粗末な手術を施して死に至らしめたり、有名な女子大の教員が女子トイレをビデオ撮影したり、あるいは警察官が、同僚の支払った寮費を着服したり。もう何でもありです。さまざまな意味での伝統的な権威に対して、私た

キリストの再臨」

 ヨハネ黙示録は終わりに近づいている。天使は、「これらの言葉は(つまり、これまでに語られたすべての言葉は)信頼でき、また真実である(6)と言って全体を締めくくる。そして、これらの言葉が「真実であるのは、「預言者たちの霊感の神、主が(7)語らせた言葉だからだ、と言う。 だが、ここには微妙な問題がある。ヒトラーのようなカリスマ的な政治家や、麻原彰晃のようなカルト宗教の教祖も、「自分たちの言葉が霊感によっていて絶対に真実であると主張したではないか。ヨハネは、どこが彼らと違うのか? 黙示録冒頭の、「イエス・キリストの黙示(1,1)という言葉を思い起こしたい。 ヨハネは、いわゆる「カリスマ的な指導者たちのように自分の思想の正しさを誇ろうとしたり、自分からそれに絶対の権威を与えたりはしない。彼はそのよう

主イエスよ、来て下さい」

キリストの再臨については、これまでも何度か暗示されていたが、最後の22章に入ると極めてはっきりと、しかも繰り返し強調される。「見よ、わたしはすぐに来る」(7節、12節)。そして、この約束への応答もまた、力強く繰り返される。「来てください(17節)。ヨハネ黙示録のクライマックスである。 先週も述べたように、多くの宗教においては祈りや修行によって、また、戒律を守ることによってより高い境地に「達することを目指す。しかし、聖書の信仰においては救いの条件は人間の側にはない。もちろん、人間の努力を否定はしてはいないし、それにも深い意味があることを認めてはいるが、最終的には、救いは「我々が上昇して行くことによって達成されるのではなく、「主イエスが我々の所へ来ることによって与えられる。彼が来る!我々の所へ

罪の告白と赦し」

 我々の教会の礼拝順序は、前奏・招き・讃美歌・詩編交読・聖書朗読・祈祷・説教・祈祷・讃美歌・献金・主の祈り・頌栄・祝祷・後奏となっている。しかし、ここには伝統的な礼拝順序に見られるいくつかの要素が欠けている。讃美歌は二つだけだし、「信仰告白もない。これは、異なる伝統を持つ二つの教会が合同したために、双方に受け容れ易い簡潔な礼拝順序を必要としたからであった。しかし、いずれ、本来在るべきものは礼拝順序の中に位置づけることになろう。既に「信仰告白に関する話し合いはある程度進んでいる。私は、このことを踏まえた上で、今後しばらくは、それと深く関連する「罪責告白の問題を説教のテーマとしたい。 古来、礼拝(ミサ)の中では必ず「罪の懺悔がなされた。「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)という祈りも本質的に

アベルはどこにいるのか」

先週は、創世記を朗読するだけだったが、今日はそれについて少し話したい。 聖書の神は、厳しく正義を求める神であって、しばしば人間を根底から揺るがすような問いを発する。3章では、罪を犯したアダムがエデンの園の木の間に身を隠していると、神は彼を呼んで、「どこにいるのか」(3,9)と問う。4章に入ると、神は、弟アベルを殺したカインに「お前の弟アベルはどこにいるのか(同4,9)と問い、彼が知らん振りをすると、「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる」(10)とたたみかける。新約聖書でも、主イエスは、キリスト教徒を迫害していたパウロに「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか(使徒言行録 9,4)という問いを以って迫る。パウロは地面に倒れる。 我々は、このような神の

弁解の余地はない」

 今、朝日新聞の夕刊に、在日韓国人作家の柳美里(ユウ・ミリ)さんが「八月の果てという小説を連載中だ。日本の植民地統治下における朝鮮の人々の生活を描いたもので、特に13、4歳で慰安婦にさせられた少女の話が痛ましい印象を残す。この子は、一見親切そうな日本人の小父さんに「日本の工場でいい働き口があると誘われ、家族にも黙って家を出る。途中、二等車(今で言えばグリーン車)に乗ったり、今まで食べたこともない豪華な食事をご馳走になったりして次第に夢を膨らませるが、目的地は思いもかけず「慰安所であった。そこでは大勢の朝鮮の女性たちが性的奴隷として働かされていた。この少女も、ナミコという日本名を与えられて働かされる。列を作って順番を待っている兵士たちの相手をしなくてはならない。言うに言えない恐怖と恥と痛み! 

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

Buy Now

bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

Blog
About Us
Message
Site Map

Who We AreWhat We EelieveWhat We Do

Terms of UsePrivacy Notice

2025 by iamachristian.org,Inc All rights reserved.

Home
Gospel
Question
Blog
Help