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祝福された人たち」

 毎年この頃になると、我々の教会では先に天に召された信仰の先達(週報裏面に名簿)を記念してご遺族をお招きし、特別の礼拝を守っている。今年も懐かしい人々を思い起こしながら、共にこの礼拝を守りたい。 今日の説教テキストは、「最後の審判に関するマタイ福音書の有名な箇所である。似たような話が旧約のエゼキエル書34章にもあるので、先程、それも朗読した。そのエゼキエル書に、先ず少し触れておきたい。 ここにあるのは、主なる神が強い者と弱い者の間を裁く、という話である。強い、肥えた羊(あるいは山羊)が「良い牧草地で養われていながら、牧草の残りを足で踏み荒し、自分たちは澄んだ水を飲みながら、残りを足でかき回し(18)たり、「脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやる(21)よう

打ち砕かれ悔いる心」

ここ何回か「罪の告白と赦し」という主題で説教して来たが、このシリーズは今日で一応終わりにしたい。今日は旧約聖書の代表的な「罪責告白」を取り上げる。サムエル記下 12章と詩編51編である。 この前提になっているのは、ダビデ王が部下の将軍ウリヤの妻バト・シェバに横恋慕し、彼女を手に入れるために夫ウリヤを前線で戦死させたという有名な話である。先ず、その出来事を詳しく報告した11章2-17節を読もう。 この事件があってから間もなく、ダビデに仕えていた宮廷預言者ナタンが王に拝謁を求めて来た。そして、「富める男と貧しい男」の物語をする。12章1-4節。 この話を聞くと、ダビデは激怒し、「そんなことをした男は死罪だ」(5)と叫ぶ。するとナタンは王に向かって、「その男はあなただ」(7)と言う。自分がや

和解の言葉」

 待降節の最初の日曜日、教会学校の子供たちが蝋燭に火を灯してくれたクランツを囲み、竹内智子さんの歌に祈りを合わせながらこの礼拝を守ることができる幸いを、共に喜びたい。しかし、我々は何故こんなに深い喜びをもってアドヴェントを迎えるのだろうか。単に「季節の風物詩だからというのではないであろう。我々の生活の中に何か「新しいことが始まるということを改めて思い起こすからではないか。 その「新しいこととは何か? 端的に言って「和解である。 私は今日の説教テキストに、コリントの信徒への手紙二5,16-21を選んだ。特に18~19節の「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任

夜は更け、日は近づいた」

  毎年、待降節になると、私はヨッヘン・クレッパーのことを思わずにはいられない。説教の後で歌う讃美歌243番の歌詞を書いた詩人である。 彼はちょうど百年前(1903年)に、ドイツのシュレージエン地方(現・ポーランド領)の小さな町で牧師の息子として生まれた。多感な少年時代を送った後、ブレスラウ大学で神学の勉強を始めたが、当時の神学部の「聖書を死体解剖をするような(!)学問に馴染めず、断念して文学に転じた。しかし、毎朝『日々の聖句』(ローズンゲン)を開き、そこに記されている聖書の箇所を人生の導きの光として読み、心に響いた聖句は必ず日記の冒頭に記していた。 そうこうする内に、彼は年上のユダヤ人女性ハンニ・シュタインと運命的な出会いをする。クレッパーは、死別した前夫との間に生まれた二人の娘と暮

キリストの謙虚」

 フィリピ書2章でパウロは、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい(3~4節)と教えている。これは謙虚の勧めだが、特にキリスト教的というわけでもない。「高慢がよくないというのは、人間のモラルとしてかなり普遍的である。箴言にも、「高慢なまなざし、傲慢な心は神に逆らう者の灯火(21,4)とある。 第4世紀の偉大な神学者アウグスティーヌスは、「キリスト教の教えで何が一番大切ですか?と弟子に問われたとき、一言、「フミリタス(humilitas.謙遜)と答えたという。「では、二番目に大切なものは?という問いに対して、再び「フミリタス。「三番目は?と聞かれると、同じように「フミリタスと答え

狼は小羊と共に宿り」

心の内に強く促すものがあって、今年のクリスマスはイザヤ書11章の預言について語りたいと思う。先ず、この個所の時代背景について簡単に述べる。 イザヤは、紀元前8世紀の後半にユダのエルサレムで活躍した預言者である。その頃、イスラエル王国は南北に分裂して既に久しく、その上、当時最強の帝国であったアッシリヤの脅威が東から迫っていた。結局、北王国はアッシリヤによってB.C.722年に滅ぼされるのだが、その直前にシリヤとの間に「反アッシリヤ軍事同盟を結び、南王国ユダにも加盟を求めた。しかも大軍を送ってエルサレムを包囲し、圧力をかけたのである。これが「シリヤ・エフライム戦争」である。ユダのアハズ王はひどく動揺した。アッシリヤも恐いが、シリヤ・エフライム連合軍も恐い。そのために「王の心も民の心も、森の木々

暗闇に射し込む光」

あの夜、一体何が起こったのだろうか? ルカ福音書はこう書き始める。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(8)。音楽で「パストラーレ」というのは、普通「田園曲」などと訳されているが、本来はこの場面を表現した曲をいうのだと聞いたことがある。「パストラーレとは羊飼いのことだ。 だが、この羊飼いたちは「パストラーレのように牧歌的な気分でいたわけではない。夜の闇の中で不安だった。狼が襲って来はしないか。いや、ある意味では狼よりも恐ろしい羊泥棒や強盗が隙を窺っているかもしれない。緊張していた。そこへ突然、見たこともないような不思議な光が射し込んで来る。「主の天使の光である。「主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」(9)。この場面をレンブラントは見事に描いて

歩む旅としての信仰」

 天の父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン。クリスマス ―― すてきな祭 今年もクリスマスを守りました。皆さんの多くは、25日にはまだ仕事をしておられたことを私も知っていますが、それでも、お祝いはなさったと思います。 クリスマス。毎年、どんなに熱い思いでこの祝日を待ち望んでいることでしょう。子供たちはプレゼントを、大人は家庭での静かな時を楽しみにしている。私の家では、クリスマス・イブにやっとプレゼントを開きます。ツリーの下に皆が一緒に座り、バッハのクリスマス・オラトリオを聞き、キッチンからは美味しそうな匂いが居間に流れ込んでくる。平和です。そして、子供たちは遊んでいる。その後の数日も華やかで、お客さんが大勢来ます。クリスマス ―― 表面的な祭 し

決して滅びない言葉」

 明けましておめでとう! だが、皆さんの多くは「明るい希望に溢れて新年を迎えるわけにも行かなかったのではないか。大晦日恒例の「いろはカルタ(毎日新聞)を見ても、そう感じられる。大部分は苦い笑いを誘う「ブラックユーモアだ。食に関する不安を現すものに、「コイ患い(養殖鯉の大量死)、「モーいや米国牛(BSE)というのがあった。広い意味での環境問題では「トキ既に遅し(日本産トキの絶滅)。イラク戦争関連では、「イラク難儀だ、「穴蔵では不戦意(フセイン元大統領の逮捕)、「前文読みの九条落し(小泉首相の詭弁)。北朝鮮問題では「拉致があかぬ六カ国協議。国内の話題では、「ぬれ手で米やサクランボ(農産物の盗難)、「総裁人事どろどろ公団、「運転酔々高速バス、「視聴率買いの職失い(TV局の不正)、「縁につけ込むオレ

キリストの日に備えて」

1月6日は「顕現祭」であった。この日は、マタイ2,1-12に記されているように、東方から幼子イエスを捜して遥々やって来た占星学者たちが黄金・乳香・没薬など貴重な贈り物を捧げて幼子を拝んだ日とされている。このような形で主イエスの栄光が全世界に現れた。それを「顕現(エピファニー)と言ったのである。 今日の説教テキスト、フィリピ1,3-12も「顕現と無縁ではない。というのは、フィリピはヨーロッパ大陸で最初に福音が伝えられた町だからである。使徒言行録16章によれば、その経緯は以下の通りだった。 使徒パウロは第二次伝道旅行の途中、エーゲ海に面したトロアスという町に立ち寄った。そこに滞在中、ある夜、彼は一人のマケドニア人が「渡って来て、わたしたちを助けて下さい」(9)としきりに訴える幻を見た。夜が明

罪を告白した者の再生」

 ここには、生き生きとした情景描写がある。―― イエスがゲネサレト湖畔に立っていると、彼の言葉を聞こうとして群衆がその周りに押し寄せて来た。岸辺には二艘の船が寄せてあり、その傍では収穫がないまま帰ってきた漁師たちが網を洗っていた。イエスは、そのうちの一艘シモン・ペトロの船に乗り、岸から少し漕ぎ出すように頼む。このようにいくらかの距離を置くことで、大勢の群衆にモミクチャにされず、しかも声は皆に届いたであろう。船は格好の説教壇になった。 話し終わると、イエスはペトロに、「沖に漕ぎ出して網を降ろしなさい(4)と言う。これはプロの漁師としては納得できない指示だから、ペトロは初め渋っていたが、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう(5)と言って指示通りにする。すると、思ってもみなかった大漁だ

悔い改めにふさわしい実」

洗礼者ヨハネについては、ルカ1章(5-25; 57-80)に詳しい紹介がある。父ザカリヤはアビヤの組の祭司、母エリサベトはアロン家の娘。ユダヤの由緒正しい家柄である。だが、この年老いた夫婦には子供がなかった。やがて不思議な経緯を経て子が生まれることになる。天使は、「その子をヨハネと名付けなさい(13)と告げ、その生涯を次のように預言する。「エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備の出来た民を主のために用意する」(17)。これは、父ザカリヤの言葉とも符合する。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである(76-77)。主の道を整える先駆者。これがヨハネの生涯で

悔い改めに導く神の憐れみ」

 今日の箇所で、パウロは先ず「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです(1)と言う。 「あなたとは誰のことか? ユダヤ人である。2章17節以下に「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえているとか、「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています(19-20)と言われていることからも、それは分かる。 そのユダヤ人に対して、彼はさらに辛辣な問いを畳みかける。「あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説き

地の塩、世の光」

今、「罪を告白することに関連して説教しているが、なおそれを続けたい。 人はいろいろ間違いや失敗を犯すが、「だから駄目だ」とは言えない。我々は、むしろ失敗を通して初めて、何か大切なことを学ぶ。失敗こそ人生で「最良の学校である。どこがいけなかったのか。今後失敗しないためにはどうすればいいか。痛い思いをしながらこういう問題と向き合い学習することによって、人は成長するからである。だから、家庭でも学校でも、失敗をした子供を無闇に責めて萎縮させてはいけない。むしろ進んでその現実と向き合うように励ますのが、真の教育であろう。「罪責告白」にもこのような積極的な意味があることを強調したい。 ここで、1967年の「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(略称「戦争責任告白」)をもう一度取り上

神の秘められた計画」

 ローマ書9~11章で、パウロは「ユダヤ人問題を扱っている。9章の初めでは先ず、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがある(2)と個人的な感情を吐露しているが、この「深い悲しみ、「絶え間ない痛みはどこから来るのであろうか? それを彼は、9章後半で次のように説明する。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエル(=ユダヤ人)は義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした(30~31)。要するに、ユダヤ人は「つまづきの石につまずいた(32)ということである。続いて10章の初めでは、それは「自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった(3)からだ、と言う。「ユダヤ人問題とはこのことである。 この問題について、彼はここで旧約聖書

十戒の二枚の板」

『広辞苑』で「十戒を引くと、先ず仏教の「十戒が出てくる。主として出家したばかりの少年僧(沙弥)に教えられるもので、「不殺生・「不偸盗・「不邪淫・「不妄語・「不飲酒という基本的な五戒があり、それに「日常生活心得ともいうべき五つの戒めを加えて「十戒と言っているらしい。 初めの五つの戒めは、最後の「不飲酒を除いて、モーセ「十戒の第六戒以下、すなわち、「殺してはならない・「姦淫してはならない・「盗んではならない・「偽証してはならないに相当する。後の五つは難しい漢字でどう読むのか分からないが、現代語に訳せば、「化粧したり髪に香油をつけたりするな(不塗飾香鬘)、「芝居や踊りを見に行くな(不歌舞観聴)、「偉そうにソーファにふんぞり返ったりするな(不坐高広大床)、「むやみに間食をするな(不非時食)、「金銀

試練に遭われたイエス」

「祭司というのは、神に仕えるために置かれた特別職である。最初に選ばれたのは、モーセの兄弟アロンとその四人の息子たちで (出エジプト記28,1)、特にアロンは「大祭司として神と人との間を執り成す大切な役割を果たした。たとえば、「至聖所に入って罪の贖い(赦し)の儀式を司ることである(レビ記16,6-17)。 幕屋の時代も、後に立派な神殿が立てられてからもそうだが、十戒の二枚の石板を納めた「契約の箱を安置する所を「至聖所といった。イスラエル民族の信仰にとって最も神聖な場所である。一般の祭司たちは、通常の礼拝を行なうために聖所に入るが、「垂れ幕の奥の至聖所までは入れない。それを許されるのは大祭司だけである。彼は一年に一度の「大贖罪日、つまり第七月の10日に、それは太陽暦の3~4月頃だが、ただ一人で

涙を流しながら」

 大祭司とは、5章1節にあるように、「人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職に任命された人のことである。先週も述べたが、彼は年に一度の「贖罪日にただ一人で「至聖所に入り、自分のため、自分の家族のため、またイスラエル民族全体のために雄牛や雄山羊などの犠牲を捧げて罪の赦しを祈り、執り成しをするのが務めであった。 しかし、彼は完全な人間である必要はない。2節に「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができるとあるように、「弱さは大祭司としてむしろ望ましい条件だ、というのである。 ここで、私は「メンシェンケンナーというドイツ語を思い出した。「人間というものを知っている人、あるいは「人の心がよく分かる人という意

永遠の贖い」

受難節に入ってから、私は『ヘブライ人への手紙』に基づいて「大祭司キリストについて述べてきた。既に明らかなように、大祭司の一番重要な任務は、自分と家族、また、すべてのイスラエル人のために、年に一度「至聖所に入って雄牛や雄山羊を犠牲に捧げ、その血を振りまいて「罪の贖いの儀式を行うことであった。 一体「罪の贖いとは何だろうか? 我々は罪を犯す。いや、パウロが深刻な口調で嘆いているように、「自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている(ローマ7,19)。むしろ「罪に捕らえられた状態であって、いわば「罪の奴隷(ローマ6,17)だ。そのような状態から我々を取り戻すこと、つまり、罪から解放することを、聖書は「贖うと言うのである。だが、一体、「雄牛や雄山羊の血を振りまくことがなぜ「罪の贖いになるの

約束を信じて」

 アブラハムは、世界の三大宗教、つまりユダヤ教・イスラム教・キリスト教の共通の先祖として今日に至るまで尊敬されている。神話の主人公ではない。紀元前17世紀ごろ実際に生きていた歴史上の人物である。彼の一族が住んでいた場所は、最古の文明発祥地であるメソポタミア地方の、「カルデアのウルという都市であった。これは、今自衛隊が駐屯しているサマーワから余り遠くないユーフラテス河西岸にあり、当時としては高度に発達した文明都市であった。 ところが、アブラハムの一族はある時、この都市の暮らしを捨てた。創世記11章によると、彼らは「カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった(31)。ハランはユーフラテス河上流の町であるが、アブラハムにとってはここが故郷になった。だが、

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