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信仰によって」

  ヘブライ書11章には、信仰によって生きた旧約聖書の人々の名がおびただしく出てくる。先週はアブラハム(8~16)のことを話したが、今日の所にはモーセ(23~29)を始め、「娼婦ラハブ(31)、「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たち(32)が登場する。著者は、この人たちのことを全部話していたら「時間が足りないでしょう」(32)と言い、ごく簡潔に紹介している。 それによれば、この人たちの生活には一面、「成功・「勝利という要素があった。モーセはイスラエルの人々をエジプトにおける隷属状態から解放することに成功したし(27)、民を率いて「まるで陸地を渡るように紅海を渡った」(29)→出エジプト記12章~。行く手を阻む堅固なエリコの城壁は信仰によって「崩れ落ちた」(30

十字架の死を耐え忍んだ方」

 今日から受難週(聖週間)が始まる。この1週間に起こったことを、マルコ福音書の受苦物語によってなぞってみよう。今日の日曜日に、イエスはエルサレムに入城した。この時はまだ、多くの人がイエスを歓迎していた。群衆は手に手に「葉のついた枝(一説ではナツメヤシ)を持って「ホサナ。主の名によってこられる方に、祝福があるように(11,9)と歓呼したという。この日曜日がPalm Sundayと呼ばれるのはそのためである。「棕櫚は恐らく誤訳ではないか。 群衆がそのように歓迎するのを見て、ユダヤ人の指導者たち(祭司長や律法学者)は妬んだ(15,10)。あるいは、危機感を募らせた。そこで、過越祭の二日前になるとイエスを殺す計画を具体化し始めた(14,1)。弟子たちの中にも動揺が生じ、ユダなどはイエスを売り渡すため

永遠に変わらないキリスト」

我々は今日、イースターにふさわしい喜びの中にいる。先週イラクで人質に取られた三人が24時間以内に解放される!ほとんど死に定められた彼らが、死の恐怖から解き放たれた。先ずはこのことを、三人とともに、そして、ご家族とともに喜びたい。 さて、このところ私はヘブライ書によって主イエスの受難の意味を語って来た。先週はとくに、イエスが罪人たちの反抗を「忍耐された(12,3)という言い方に注目した。彼は、自分を殺そうとする人々の罪を黙って「耐え忍ばれたというのである。 「耐え忍ぶということは、相手を愛していなければできないことである。愛する者だけが忍耐することができる。わが子を愛する親や生徒を愛する教師は、子供がどんなに反抗的になったときでも、本心から見捨てたりはしないものだ。もちろん、親も教師も完全な

必ず実現する約束」

 先ず、復活されたイエスが語られた言葉に注目したい。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する(44)。 「モーセの律法と「預言者の書と「詩編。このように三つ並べて言う場合は、旧約聖書の全体を指すのである。だが、それが「わたし(=イエス・キリスト)について書いてあるというのはどういう意味だろうか? イエスが旧約聖書を重んじたことは知られている。だが、旧約聖書はイエスよりもずっと前の時代に書かれたものだ。しかも、内容から見てイエスにそぐわないと思われる考えがその中にはたくさんある。たとえば、ユダヤ民族が「神に選ばれたということが書いてある。謙虚な自己理解としてなら分かるが、それは時に他民族に対する傲慢な態度(選民意識)につながったし、戦争や大量殺戮を正

良い羊飼い」

聖書の神とは、どのような神だろうか? 先ず考えられるのは「唯一の神ということである。「十戒」の第一戒にも、「わたしをおいてほかに神があってはならない」とある。これは厳格な「唯一神教である。そして、この点をわが国の仏教系思想家たち(鈴木大拙、梅原猛)は問題にする。この人たちは、「唯一神教は世界の不幸を生み出す根源ではないかと言う。なぜなら、「唯一神教は他の宗教や思想に対して寛容でない、偏狭で自己を絶対化する傾向がある、他宗教に対して攻撃的だ。この点においては、ユダヤ教の神も、キリスト教の神も、イスラームの神も同じであって、しばしば神の名の下に「正義の戦争(聖戦)を行ってきた。パレスチナやイラクにおける妥協なき戦いも、当事者双方が「唯一絶対の神を信じている限り決して終わらない、というわけである。

イエスの愛にとどまる」

 イエスは弟子たちに向かって、「わたしはまことのぶどうの木と言われた。他の植物を例にとっても一向構わないわけだが、「ぶどうは、弟子たちにとって一番身近な栽培植物である。幹から枝が長く伸びて、その先に葉が繁り、花が咲き、実がなる。しかし、虫食いなどが原因で養分を受けられない枝は、実を結ばない。それは切り落とす。切り落とされた枝は「外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう(6)。 このごくありふれた生活経験を題材にして、主イエスは、「私につながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている(4)と教えられた。「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない(4)

イエスのもとに行く

イエスはここで先ず、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりましたと言って、天地の主である神に感謝している。「これらのこととは、「本当のこと、あるいは、少し硬い言い方だが、「真理を指す。それは、しばしば知恵ある者や賢い者にではなく、幼子のような者に示される。電車やエレベーターの中で、母親に抱かれた赤ちゃんがそばにいると、つい見とれてしまう。きれいな目でじっと見つめられて、自分が恥ずかしくなるような気持ちを味わったことがないだろうか。八木重吉の詩に、「息を殺せというのがある。息を ころせいきを ころせあかんぼが 空を みるああ 空を みる。まだ人生の経験もなく、何かを語ることもできない赤ん坊が、ただ空を見るだけなのだが、その目は何かひどく大切なものに向けられ

既に世に勝った主

 今日の箇所の最後に、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(33)と言われている。 「世で苦難があるとか、「世に勝つとか言う。その「世の原語(ギリシャ語)は「コスモスで、普通、「世界とか「宇宙とか訳される言葉だ。しかし、ヨハネの「世は、ただの世界というより、「神に敵対する世界を指すことが多い。 たとえば、1章に「まことの光が世に来てすべての人を照らす(9)という言葉がある。これはイエスのことである。彼こそは「すべての人を照らすまことの光であり、万物を成り立たせる「言(ロゴス)、つまり、真理そのものである。このイエスが世に来た。だが、それに続けてヨハネは、「世は言によって成

天に上げられたキリスト

 教会暦によると、先週の20日(木)は主イエスが天に上げられた「昇天日であった。この日は、日本のキリスト教会ではあまり重んじられていないが、西欧では祝日である。教会によっては礼拝を守るところもある。つまり、「昇天は信仰生活にとって重要な意味を持つと考えられている。今日はこの点について述べたい。使徒言行録1章9節には、「話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなったとある。この場面を、レンブラントは1636年に素晴らしい絵に描いた (スライドを映写)。真ん中に白い衣を着たイエスの姿がある。以前、不思議な団体が岐阜県の山の中に出現したことがある。全員が白い布で体を覆い、宿営地の立ち木全部に白布を巻いた。付近の住民は、「白は薄気味悪い色だという印

心を騒がせるな

「心を騒がせるという経験は、我々にも無縁のものではない。思いがけなく人から強く責められたり、第三者を介して心ない噂が耳に入ったりすると、心は波立って夜も眠れない。やや冷静になってから反省して、自分にも責任があることに気づかされたときも、別の意味で心は騒ぐ。誰にもそういう経験があるのではないか。あるいは、日本人ジャーナリストが殺されたとか、パレスチナでイスラエル軍がやりたい放題をしているとかいうニュースを聞くときも、心は騒ぐ。イラクで起こった虐待事件の写真を見ても同様である。「さとうきび畑という歌がある。作詞・作曲した寺島尚彦さんは1964年、復帰前の沖縄を訪ねてさとうきび畑を歩いていたとき、案内者から「この土の中にはまだたくさんの戦没者の遺骨が埋まったままになっていますと聞かされ、頭越しに吹

神の道を理解する

 ローマ書9-11章は、「ユダヤ人問題を扱った長い箇所である。以前、何度か触れたことがあるが、今日の「三位一体主日の説教テキストが32節以下なので、これについて話す。だが、その前にもう一度、この問題を整理しておきたい。 著者パウロ自身も、むろんユダヤ人である。しかも、その代表とも言える「ファリサイ派に属し、自らの民族を「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです(9,4)と、心から誇りとしていた。 だが、彼はある時、自らが誇るこの民族が、実は「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった(10,3)という事実を認めないわけにはいかなくなる。具体的に言えば、イエス・キリストを殺したということである。この事実に直面して、パウロは、ユダヤ人が「つまずき(11

火を投じるイエス

Iキリスト教は平和を求める宗教です。もっとも聖書の伝統では、平和は人間を通して実現するものではあっても、究極的には神が作り出すものです。そのような平和は、たんに戦争がない状態を意味するだけではありません。自然災害や病気をまぬかれていること、気候が安定して食べるものが十分にあること、子供がたくさん生まれて年配の人たちが健康で長生きすること、将来に不安がなく、社会に差別や抑圧がないこと、国の政治が安定していること、外国から圧力を加えられないこと、さらには野生動物と人間が共存してゆけることまで含まれます。その意味で神の平和は、被造物すべてを含む包括的な平和です。ですからキリスト教は、かつてのユダヤ教徒とかつての異教徒たちが共に生活してゆくことができるという意味では、「宗教を超えた共存関係も、神がキ

神の家族

 パウロは、エフェソにいる信徒に向かって、「あなた方は以前には肉によれば異邦人であった(11)と言う。「異邦人とは、ユダヤ人以外の人々のことで、割礼を受けているユダヤ人からは「割礼のない者(11)と呼ばれて軽蔑され、「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きている(12)と見られた。要するに、神の祝福から「遠く離れた(13)存在と考えられたのである。パウロ自身はこういう見方を既に乗り越えていたが、当時のユダヤ人一般の「異邦人観はこういうものであった。 そのために、ユダヤ人と異邦人の間には抜きがたい敵対意識があり、「敵意という隔ての壁(14)が立ちはだかっていた。実際にエルサレム神殿の中庭には、そこから先は「異邦人の立

霊による一致

 使徒言行録によると、主イエスの復活後 50 日目に聖霊、つまり目には見えない神の力が弟子たちの上に降って、代表ペトロは力強くイエスが主であることを宣べ伝え、その日のうちに 3000 人以上の人がその信仰を受け入れて洗礼を受けたという。彼らは一つの共同体を形成して、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった (使徒 2,41-42) 。それ故に、聖霊降臨日は「教会(エクレシア)の誕生日と言われる。その意味もあって、私は当分、「教会を主題として説教したいと思う。 「教会のことをギリシャ語で「エクレシアというが、これは「エク(外へ)「カレオー(呼ぶ)という言葉から来ている。つまり、「エクレシアとは「呼び出された人々が形づくる共同体のことである。恐らく、皆さんの

愛に根ざして真理を語る

 引き続き教会(エクレシア)について考えたい。 今日の箇所の最初に、「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています(7)と言われている。教会にはいろいろな人がいる。一人一人顔が違うように、人生経験も性格も得意なこともみな違う。だが、正にこの多様性が神の恵みなのだ、とパウロは言う。そして16節で、彼は、このことをもう少し具体的に説明する。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられて行くのです。 このように、教会を「体に、一人一人の信徒をその「部分に喩えるやり方はパウロが愛用したものだ。最もよく知られているのが、以下であろう。この比喩は

偽りを捨てて

⇒「偽りを捨てて今日の箇所の初めに、パウロは「異邦人と同じように歩んではなりません」(17)と強く勧めている。「異邦人」とはキリスト教徒でない人々のことだが、パウロは、この人たちが「愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」(17-19)と、いささかひどい言い方で批判しているように見える。しかし、パウロはここで単に異邦人の悪口を言っているのでも、「クリスチャン以外は皆ロクでなしだ」とケナしているのでもない。そうではなく、真にキリストに従わない人、互いに愛し合うことこそが神の意志であることを知らない人は、たとえクリスチャンで

悪と戦う

⇒「悪と戦う 70年も前のことだが、スペインに内戦が起こったとき、ヒトラーがフランコ将軍の側を強力に支援したことはよく知られている。ナチス・ドイツの支持を受けたフランコはやがて政権を掌握、以後40年近くにわたって独裁をほしいままにした。その頃、1937年のことであるが、ドイツ空軍がバスク地方の町ゲルニカを空爆して徹底的に破壊し、大勢の市民を無差別に殺すという出来事が起こった。イラクのファルージャと同じことが起こったのである。 ピカソはこのゲルニカ空爆に憤って、一枚の絵を描いた。大作「ゲルニカである。この絵には、フランコやヒトラーの暴虐を告発するという意図が明らかであったために、長い間スペインでは展示できず、私の記憶に誤りがなければ、ニューヨークの国連本部に置かれていた。フランコ独裁政権が崩壊

平和の福音を告げる教会

⇒「平和の福音を告げる教会 私は6月20日に、このテキストで「神の家族」という説教をした。1ヵ月後の今日、同じ箇所を再び取り上げる理由は二つある。第一は、これが先週の「教会カンファレンス」のための聖句として選ばれていたこと。第二は、しかし、いろいろな事情でこの聖句についてよく考える時間がほとんど残らなかったことである。そこで、「カンファレンス」の記憶がまだ新しい内に、もう一度この箇所について考えておきたい。今年の「カンファレンス」の主題は、「敵意から和解へであった。これが選ばれたのは、世界の至る所に「敵意による対立という嘆かわしい現実があるからであり、そして、多くの人がこのことで心を痛めているからである。この現実を最も象徴的に示しているのは、イスラエルが造った巨大なコンクリートの壁であろう。

愛にしっかりと立つ

⇒「愛にしっかりと立つ 私は戦争を身近に体験したことが一度だけある。1945年8月1日、つまり59年前の今夜だが、西八王子にあった陸軍の学校の生徒だったとき、米軍による大空襲を受けたのである。学校は八王子の町もろとも激しく炎上した。私たち生徒は雨のように降ってくる焼夷弾を避けながら、少しでも安全な所を探して裏山の森の中を逃げまどったのだが、そこにも爆弾は容赦なく降り注いだ。 ようやく米軍機が去ったのは明け方で、跡形もなく焼け失せた校舎のほうへ戻ってくる途中、私は何人かの友達が倒れているのを見た。一人は黒焦げになって既に絶命していた。落ちてきた焼夷弾が背中の真ん中に突き刺さって、そのまま燃えたのである。別の一人は、焼夷弾を何十発も包んでいた鉄板がベランベランと落ちて来るのに頚動脈を切断されて死

わたしの呻き

⇒「わたしの呻き 広島と長崎、二つの「原爆記念日の間に挟まれた日曜日に、我々はあの悲惨を思い起こしながら礼拝を捧げる。 先日、「教会カンファレンス」に赴く途中、我々の多くは丸木美術館で「原爆の図」を見たが、丸木夫妻が絵で表現したことを文章で書いたのが原民喜であった。彼は、30歳ごろから活発な創作活動を始めた作家だが、ちょうど40歳になったとき、故郷の広島で被爆した。それ以後、彼はすべての作品を、被爆体験を軸として書いた。その一つ、『夏の花』の中に印象的な詩がある。被爆直後の光景を、「片仮名で書きなぐる方が応しい」と言って、断片的な言葉を連ねて描写したものだ。「ギラギラノ破片ヤ灰白色ノ燃エガラガヒロビロトシタ パノラマノヨウニアカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズムスベテアッタコト

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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