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- 手を差し伸べて
「手を差し伸べて(1)山を下りるイエス 先ほどお読みいただきましたマタイによる福音書8章の冒頭に、「イエスは山を下りられるととあります。みなさんの中の多くの方がご存じかと思いますが、マタイによる福音書は、5章から7章の三章にわたって、「山上の説教と呼ばれるイエス・キリストの教えを記しています。山の上は集中して、み言葉を聞くにはふさわしい場所です。普段の生活を一旦休止し、山に上って主の言葉を聞くような生活は、今日の私たちにも必要なことです。こうした山の上とは、私たちにとっては、年に一度くらい開かれる修養会のようなものでもあるかも知れませんし、あるいはまた週ごとの日曜礼拝であるかも知れません。そこで信仰をリフレッシュし、新たな力を得て、普段の生活へと帰っていくのです。いつまでも山の上にとどまって
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- だれかが右の頬を打つなら
「だれかが右の頬を打つなら 5日(金)の夜、TBSの戦後60年特別企画 "ヒロシマ"が3時間にわたって放映され、私もそれを見た。その中に、原爆の開発に関わったアメリカ人科学者アグニュー博士が登場する。この人は、史上最初の原爆を広島に投下したB29「エノラ・ゲイの機上から爆発の瞬間を見届けたクルーの一人である。作戦の「成功を確認し、「きのこ雲も撮影した人だ。今回、この企画のために彼は初めて広島を訪れ、資料館などを見学した。「ひどい話だと心を痛めながらも、二人の被爆者との対談の中では「私は謝らないと繰り返す。「戦争を始めたのは日本だ。米国では皆がリメンバー・パールハーバーと言っていると主張し、原爆はむしろ「あの戦争を早く終わらせるのに役立ったと、多くのアメリカ人の意見を代弁する。あれほどの惨劇を
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- 剣をさやに納める
「剣をさやに納める明日、私たちの国は60年目の敗戦記念日を迎える。この時に当たり、「日本キリスト教協議会(NCC)は鈴木伶子議長の名において、『敗戦後60年を覚えて』と題する声明を発表した。その冒頭に、先ずこう言われている。「アジア・太平洋戦争での日本の敗戦から60年経ちました。その後、日本のキリスト教各教団・団体は、自らが戦争に加担しキリスト者の責任を放棄した罪を告白し、神と隣人に赦しを請いました。これは各教派が「罪責告白を公表したことを指している。その先駆となったのが、『第二次大戦下における日本基督教団の責任に関する告白』(1967年)である。しかし、今回の『NCC声明』は、それに続けて「戦後責任を告白する。むしろ、重点はそこにあると言ってもいい。過去の過ちを反省するだけでは十分ではない
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- 苦しみの連帯
「苦しみの連帯 パウロは、テサロニケ教会の信徒たちに宛ててこの手紙を書いたとき、至る所で感謝の気持ちを言い表わした。第1章の初めには、「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています(2節)と書いた。第2章でも、「わたしたちは絶えず神に感謝していますと言い、その理由として「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた(13節)ということを挙げている。パウロとこの教会の関係は、とても幸せなものであったと言うべきだろう。 しかし、このように感謝に満ちた信頼関係は、苦しみを共にすることによって生まれたのである。パウロがテサロニケに行ったのは50年頃で、第2次伝道旅行の途中であったが
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- 平和があるように
「平和があるようにI毎年8月になると「戦争と平和について考えさせられます。今年は敗戦後60年の節目にあたり、とりわけ憲法9条の改正が政治日程に載せられていることもあって、新聞やテレビなどでもたくさんの特別報道がなされました。 NHKのある討論番組で、靖国神社への参拝をめぐって、次のようなやりとりがありました。旧日本軍の兵士であった男性が、自分は「平和を祈るために参拝していると発言し、おそらく韓国からの留学生である女性が、「そのような意図で参拝する人がいたとは驚いたと反応したのです。二人は、戦争はよくないという点では、おそらく一致しています。しかし、具体的に「平和とは何であるかについて、かなり異なった意見を持っているように感じました。 「戦争と平和という表現は、平和とは戦争がない状態であるとい
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- 希望、喜び、誇り
「希望、喜び、誇り 今日の箇所の内容は単純である。つまり、パウロにとってテサロニケ教会の人々は「希望、喜び、そして誇るべき冠(19節)であり、「誉れ(20節)であるということ。要するにこれに尽きる。 これは「お世辞のように聞こえるかもしれないが、そうではない。第一、パウロは心にもない「お上手を言うような人ではなかった。次の第3章を読んでも分かるように、彼はテサロニケ教会の人々の神との関係、つまり、彼らの信仰を見て本当に心を打たれ、深く慰められていたのである。 どんな人でも、人間である以上、「100%良いとか「100%悪いとかいうことはあり得ない。良い所もあれば、悪い所もあり、その両面が混じり合っているのが人間である。そのような人間として、私は神と向き合う。そして神は、私の美点も弱点もすべてを
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- 動揺しない
「動揺しない パウロがテサロニケの町に行ったのは、紀元49年頃のことである。彼はそこに4週間ほど滞在して伝道し、入信する人も出たが、それを妬んだユダヤ人が騒動を起こしたために、やむを得ず難を避けて夜中にベレアという町へ逃げた。そこでも伝道し、ある程度の成功を収めたが、意地の悪いテサロニケのユダヤ人たちがわざわざそこにも押しかけて来て群衆を煽動し、パウロを困らせたので、今度はアテネに逃げた。このように、彼は行く先々で苦しい目に遭う。それも、多くは「同胞(ユダヤ教徒)からの難・・・偽の兄弟たち(使徒を自称する人たち)からの難」(コリント第二 11章26節)であった。腹に据えかねた彼は、ある時、本音を洩らしたことがある。「彼らは・・・キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたし
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- 主の戒めに耳を傾ける
05・9・18 ⇒「主の戒めに耳を傾ける「教会カンファレンス」開会礼拝の説教テキストに、私はを選んだ。それは、「わたしの戒めに耳を傾けるなら、あなたの平和は大河のように、恵みは海の波のようになる(18節)という聖句がカンファレンスの標語として「しおり2頁に掲げられているからである。先ず、この標語について考えよう。 これは「第2イザヤ」(イザヤ書40-55章)に属するから、時代背景が「第1イザヤ」(1-39章)とは違う。「イスラエルの聖なる神、あなたを贖う主はこう言われる。わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力をもたせ、あなたを導いて道を行かせる」(17節)という言葉の背景には、「捕囚からの解放という歴史的事実があった。第1イザヤの時代には生々しい現実であったアッシリヤ帝国の脅威は
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- 世にあって星のように
「世にあって星のようにI先日、大学のサマーキャンプで、レイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー』という本を、講師の方を招いて、学生たちとともに読みました(原著1965年、邦訳は上遠恵子訳、新潮社、1996年)。衆院選挙の結果や改憲論議を含めて最近は暗い話題が多い中で、自分をリフレッシュさせるよい機会になりました。カーソンは、農薬による環境汚染について警告した『沈黙の春』(原著1962年、邦訳は青木梁一訳、新潮社)という書物で知られた海洋生物学者です。『センス・オブ・ワンダー』は彼女の未完の遺作になりました。米国メーン州の海と森に囲まれた彼女の別荘で、休暇ごとに、姪の幼い息子ロジャーとともに自然の中で過ごした体験を、分かりやすい言葉で綴ったものです。ベストセラーですので、お読みになった方
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- あなたがたの信仰によって
「あなたがたの信仰によって 10月は宗教改革を記念する月なので、先ずそのことに関連して語りたい。 宗教改革の直接の発端が「免罪符の問題にあったことはよく知られている。当時カトリック教会はサン・ピエトロ大聖堂建築のために抱え込んだ莫大な負債を処理するために、この「おフダを大々的に売り出したのである。代金の「コインがチャリンと音を立てるや否や、煉獄の火で焼かれている愛する者たちの魂はたちどころに苦しみから解放されて天国に移されるというのが売り口上だった。 当時ヴィッテンベルク大学で聖書を講じていたマルチン・ルターは、このことに疑問を抱いた。聖書にはこんなことは書いてない! そこで彼は、1517年10月31日、「聖書に照らしてこの問題を検討しようと呼びかける「95か条の提題をヴィッテンベルク城教会
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- 神の裁きと恵み
「神の裁きと恵みI今日のテキストは、いわゆる「最後の審判の主題を扱っています。この世の終わりに、神が私たち一人ひとりを御前に立たせて、私たちの運命について最終決定的な裁きを行うという考えです。私たちは、世界の終わりや「最後の審判について、どんな考えを持っているでしょうか。日本人に親しいのは「閻魔大王と呼ばれる地獄の王です。閻魔さまは、それこそ閻魔帳を持っています。そこには死者が生前に犯した罪状が書きとめられている。閻魔は、この帳簿に従って死者を裁きます。私たちの罪は容赦なく暴かれ、責任が追求される。世界中の宗教に似たような話があります。例えばエジプトの宗教では、悪人はワニの形相をした化け物に、ぱっくりと喰われてしまうそうです。何と恐ろしい! 何れの場合も、地獄の火をうんと熱くすることで私たち
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- 生かされて生きる歩み
説教に先立って先ず皆様にお礼を申し述べさせて頂きます。『上原教会の歩み』をこの教会が後押しして下さったお陰で、今年の5月に出版することができました。そのお礼を申し上げたく思います。本当に有難うございました。丁度昨年の夏から昨年の今ごろにかけて、教会史の執筆と編集作業をしていたとき、私は今までに体験したことがないような、不思議な経験を致しました。それは自分が指を動かして活字にしていながら、それは自分ではないような体験でした。何かに押し出されて書いている。その押し出す力は何なのか。教会史は自分の歴史ではありません。自分が関わっていても現在の代々木上原教会でもそうですが、多くの方々が働いておられます。そうした働きにはある共通の土台があり、共通の目標があるものです。教会史を執筆していると、そうした
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- あふれる愛
旧・東ベルリンのほぼ中央にベルリン=ブランデンブルク州教会の本部がある。私たちの教会の親しい友人であるアンネリーゼ・カミンスキーさんは、この建物の4階に州教会総会議長としての執務室を持ち、二人の秘書に助けられて仕事をしている。私はベルリンに行く度に、この部屋に彼女を訪問して話し合うことを楽しみにしているのだが、今回は特に彼女の好意で、滞在中、図書館を使わせて頂くことができた。毎日そこに通って必要な資料に目を通した。有難いことであった。その建物の隣りに小さな本屋さんがあって、神学書や、子供向けの楽しい本が並んでいる。ある日、仕事に疲れた私は、そこで本を見ていた。すると10歳前後と思われる女の子が3人、カヤカヤと楽しそうに談笑しながら入ってきた。言葉はドイツの子と変わらない。だが、顔はどう見ても
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- 信仰によって生きる
今日私たちは、明日の「宗教改革記念日を前にしてこの音楽礼拝を守っている。いつかも話したように、1517年10月31日、マルチン・ルターは「免罪符問題についての討議を呼びかけた「95か条の提題をヴィッテンベルク城教会の扉に張り出した。この「小さな行動は、ルター自身が予想もしなかった大きな時代のうねりとなって遂には世界を動かすことになった。この点に先ず注目したい。 私は、若き日に鈴木正久牧師からジョン・ウェスレーの言葉を聞かされて、強い印象を受けたことがある。それは、「神のほか何者をも恐れず、罪のほか何ものをも恥じず、イエス・キリストとその十字架のほか何ものも誇らない人間が10人いれば、世界は動く」というのである。これは大言壮語だろうか? そうではあるまい。ルターのあの小さな行動が、歴史の大き
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- 神に喜ばれる生活
パウロは今日の箇所(4章1節)で、テサロニケの信徒たちに向かって、「あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びましたと言う。そして、「現にそのように歩んでいると評価し、「どうか、その歩みを今後も更に続けてくださいと励ましている。。これが、キリスト者の生活の基本である。衣・食・住など単純な問題に関しては難しく考えなくてもいい。「社会の習慣に従って生きても一向に構わない。だが、人生の重要な問題で判断に迷うような場合は、「神に喜ばれるかどうかを基準にして考え・決断すべきだ、とパウロは言うのである。その上で、彼はここで、とくに「性の問題を取り上げる。これが中々難しい問題であることを知っていたからであろう。先ず、いくらか抽象的な表現で「神の御心は、あなたがたが聖なる者
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- 召天会員記念礼拝死者の復活
召天会員記念礼拝に際し、ご遺族の方々に心からご挨拶を申し上げる。天に召された懐かしい方々のお名前は週報裏面に記した。講壇の前に飾られたお写真も、故人を偲ぶよすがとなる。だが、何よりも先ず、共に神の言葉を聞きたい。 今日の箇所で、パウロは「ほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい(13)と前置きした上で、「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています(14) 、と述べている。「イエスは死んで復活されたというメッセージは、私たちの嘆きや悲しみを取り除く、というのである。これは本当だ。 これに少し説明を加えたのが、『ローマの信徒への手紙』8章34節である。「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのため
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- 荒れ果てた神の庭
I アレクサンドリアのクレーメンスという古代キリスト教著述家に『テオドトスからの抜粋』という作品があり(紀元200年頃の成立)、そこに次のような文言が現れます。私たちは、何者であったのか?何に、私たちはなったのか?どこに、私たちはいたのか?どこに、私たちは投げ込まれたのか?どこへ、私たちは急ごうとしているのか?どこから、私たちは解放されたのか?誕生とは何か、再生とは何か? テオドトスは、初期キリスト教の「異端であるグノーシス主義の教師の一人で、ヴァレンティノス派という流派に属していました。それでも彼の立てた問いは、宗教の本質にふれています。「私たちは何者であったのかとは、遠い過去、神話的な過去を問うことで、私たちの由来を問うことに他なりません。「何に、私たちはなったのか「どこに、私たちは投げ
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- 秘められた意味」
17章全体の見出しは、「大淫婦が裁かれるである。こういう表現にはいかがわしい響きがあっていささか辟易するが、ここに秘められた意味を探らねばならない。 旧約の預言者がしばしば都を女性に喩えていることは参考になろう。例えばイザヤは、エルサレムを「シオンの娘と呼び、この都が神の戒めに背いて信仰的・道徳的に堕落したときは、「どうして、遊女になってしまったのか、忠実であった町が(1,21)と嘆いた。ヨハネもこの章の最後で種明かしをしている。「大淫婦とは、「地上の王たちを支配しているあの大きな都のことである(18)。 では、この「大きな都とは何か? 「多くの水の上に座っている(1)とあるし、5節にも「大バビロンと言われているから、これはバビロンだとも思える。バビロンはユーフラテス川から引かれた無数の運
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- おごり高ぶる者は裁かれる」
18章は「バビロンの滅亡」について書いている。先週も指摘したように、バビロンとはローマ帝国のことである。当時キリスト教徒は、帝国による厳しい迫害にさらされていた。あからさまにローマを批判するような言葉は口に出せない。だからヨハネは、過去の歴史的出来事に言及するようなふりをして「大バビロンが倒れた」(2)と言い、それによってローマ批判を行ったのだ。これは、一種の暗号である。 序でに少し脇道に逸れるが、我々の教会の門の上には「イクシュスというギリシャ文字のついた魚の形が掲げられている。「イエス・キリスト・神の・子・救い主」と書き、その頭文字を取って順番に並べると「魚という単語になるところから、迫害時代のキリスト教徒たちは密かな信仰告白として、あるいは支配者側に気取られずに相互に連絡をとるための
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- 私たちの内に住み給う神」
「聖霊が降るとはどういうことだろうか? 使徒言行録にはこう記されている。 「五旬祭の日(イエスの復活後50日目)が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、…ほかの国々の言葉で語り出した」(2,1-4)。 これは確かに不思議な出来事だが、よく読んでみると、それほど「異常な現象」というわけではない。一同がいろいろな国の言葉で話し始めたというのも、わけの分からない言葉を口走ったのではなく、どんな人にも意味がはっきり伝わる言葉で「神の偉大な業を」(11)語ったのである。その代表が「ペトロの説教」(14-35)であった。

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
