神の裁きと恵み

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「神の裁きと恵み

I

今日のテキストは、いわゆる「最後の審判の主題を扱っています。この世の終わりに、神が私たち一人ひとりを御前に立たせて、私たちの運命について最終決定的な裁きを行うという考えです。

私たちは、世界の終わりや「最後の審判について、どんな考えを持っているでしょうか。日本人に親しいのは「閻魔大王と呼ばれる地獄の王です。閻魔さまは、それこそ閻魔帳を持っています。そこには死者が生前に犯した罪状が書きとめられている。閻魔は、この帳簿に従って死者を裁きます。私たちの罪は容赦なく暴かれ、責任が追求される。世界中の宗教に似たような話があります。例えばエジプトの宗教では、悪人はワニの形相をした化け物に、ぱっくりと喰われてしまうそうです。何と恐ろしい! 何れの場合も、地獄の火をうんと熱くすることで私たちを脅かして、悪い行いを押しとどめ、善い行いをするよう教え諭しているように見えます。

キリスト教が教える「最後の審判も同じように恐ろしいもの、あるいは脅しによる教訓のようなものなのでしょうか。

II

胸に手を当てて考えてみましょう。そもそも、私たちは「神の裁きに何を期待するでしょうか。ひとつには「正義です。あってはならない抑圧の下で苦しむ人々は、命の創造者である神に向かって、正義を求めて叫びます。かつて神は、エジプトで奴隷労働をさせられたイスラエルの人々の呻きと嘆き、そして助けを求める叫びを「聞いたとあります(出2,23以下)。この願いは今も変わりません。そしてもうひとつ、私たちが神の裁きに期待するのは「恵みと「憐れみです。詩編の詩人は、「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方。怒りを発せられるとき、誰が御前に立ちえよう(詩76,8)と歌いました。だからこそ私たちは、「神よ、私を憐れんで下さい。御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪を拭って下さい。私の咎をことごとく洗い、罪から清めてください(詩51,3-4)という祈りの言葉に、深い共感をもって自らを重ねるのではないでしょうか。

ところが私たちの世界では、正義と恵み、処罰と憐れみは、しばしば両立しません。犯罪者や民衆の抑圧者を、処罰なしに無罪放免していては、社会の正義は保てません。私たちのモラルは、たちどころに崩壊してしまうでしょう。

では、世の終わりの「神の裁きとは、憐れみと赦しをいっさい排除した、ただ正義一色の裁きなのでしょうか。そこに恵みはないのでしょうか。あると思います。パウロが発見したように、神なき者をただその信仰に基づいて義とする神は、恵みの神です。この神は、恵みによって私たちを義とすることで、自らが義なる神であることを示す。神の義は、義のないところに義を創造するところにあります。その神が、最後の審判において、恵みと赦しを押しとどめ、正義だけを優先させることがありうるでしょうか。いいえ、イエス・キリストにおいて「愛の神として自らを現した神は、最後の審判においてこそ、義を作り出す神であることを完全なかたちでお示しになる。これこそ希望の名に値する希望であり、私たちはそう信じることが許されているに違いない。この予感をもって、テキストにとりくんでみましょう。

III

私たちを裁くのは誰でしょうか。天使たちを連れて栄光の座に着く「人の子(31節)、救われる人々に向かって、「私の父に祝福された人たちと語る「王(34節)、そして「(私の兄弟である)この最も小さい者の一人にしたのは(/しなかったのは)、私にしてくれた(/してくれなかった)ことなのである(40/45節)と言って、自らを「最も小さい者と重ね合わせる審判者――それは明らかにイエス・キリストです。

最後の審判の裁き手が、私たちのよく知っているイエス・キリストであるとは、何という恵みでしょう。私たちの最終的な運命を決する方が、私たちのために命を棄てた方であることを、私たちは知っています。

この世の裁判では、そうではありません。裁判官は、私の知らない他人です。しかも裁判所で裁かれるのは、私の人格ではなく、私の行為です。ある特定の行為が、その行為をした者の人格までも否定することなく、定められた法に従って適切に裁かれること、それが理想の裁判です。正義の女神ユスティツィアは、その手に天秤を持っていますが、彼女の両目ははちまきのようなもので縛られています。裁かれる人を見ないですむように。これは、万人の法の下での平等という理想を表現したものです。

しかし聖書の神は、私たちが知っているキリストに最後の審判を委ねます。そして審判者キリストは眼を開いて私たちをご覧になり、対話を交わされる。それは、羊飼いが自分の羊の名を呼び、羊たちがその声を聞き分けるような関係と言うこともできるでしょう(ヨハネ福音書10,3以下参照)。最後の審判における裁判者は、単なる正義の裁きを超えた存在です。

IV

ではキリストは、どのような規準によって私たちを裁くのでしょうか。その答えらしきものが、祝福を受ける者たちに対する、王の言葉の中にあります(35-36節)。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。

この言葉は、審判者が実現しようとしているのが平和(シャローム)であることを示しています。小さな命が傷を受けないで保たれることは、太古からの創造者の意志に他なりません。この神の恵みの意志を無視し、自分にも他人にも世界にも、神の平和など関係がないという態度をとることが断罪されます(45節)。

はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。

ある聖書注解書は、1933年、ナチス時代のドイツで、一人のジャーナリストが公表した物語を紹介しています。ユダヤ人を公職から追放することを定めた「アーリア条項を受けて、「ドイツ・キリスト者の会に属する一人の牧師が、自分の教会からユダヤ人の会員を追い出そうとしました。「そのときに、何かが動いた。それも祭壇にあった十字架の上で。十字架につけられた者が十字架から降りて、教会を去った――マタイ25,45の言葉と共に(ウルリヒ・ルツ『マタイによる福音書I/3』教文館、619頁より)。

キリストを通して示された神の恵みに基づく裁きは、よく考えれば、単なる正義に基づく裁きよりも、ずっと厳格です。それは人が自力で達成できる正しさを超えています。いくら善行を積んでも、神の恵みの呼びかけを無視するならば、それは「永遠の罰(46節)を自ら呼び寄せているようなものです。

V

最後に、世の終わりにキリストによって裁かれる人たちについて考えてみましょう。

「人の子が裁きの玉座に座るとき、「すべての国の民がその前に集められる(32節)とあります。ユダヤ教の黙示思想の伝統に従えば、そこには復活した死者たちが含まれます。彼らは、死の中に忘れ去られることがない。神は、人間一人ひとりの運命に対して、大きな関心を寄せています。もし死者たちの復活と最後の審判がなかったとしたら、それは神が、人間と世界の運命に対して、まったく無関心であることのしるしとなっていたことでしょう。

そしてすべての国の民は、先にふれた規準に従って裁かれます。「裁かれるとは、私たちがなした行為が本当は何であったのかが明らかにされる、ということです。しかも、神がその独り子をたまわるほどにこの世界を愛された、その愛の光の下で。

この世が続く限り、私たちの行いが本当は何であるのかは分かりません。およそ人は、「善悪を知る知識の木から食べて「神のようになろうと欲する、という罪責を初めから負った存在です(創3,5参照)。何らかの善悪の判断をすることなしに、互いの行為について裁き・裁かれることなしに、私たちは生きてゆくことも社会生活を営むこともできません。しかし裁き・裁かれることは――とりわけ自らの行いによって自分の正しさを証明しなければならないという強迫観念に私たちが囚われている場合――何と困難な課題であることでしょう。しかし世の終わりには、私たちはこの曖昧さから解放される。裁き・裁かれることにも終わりが来る。私たちのために命を投げ出されたキリストが、すべてを明らかにして下さるからです。それは私たちにとって大きな解放です。

ここで注目したいのは、「最も小さい者の一人に善い行いをした人たちも、あるいはそれをしなかった人たちも、自分が何をしたのか知らないと発言していることです(35節以下、44節)。この「知らないというモチーフは、キリストの裁きは彼の主権に属しており、人はそのことについてとやかく言う資格がない、いやその必要もない、という意味ではないでしょうか。パウロが次のように言うとおりです(1コリ4,3-5)。

私にとっては、あなた方から裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。私は、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それで私が義とされているわけではありません。私を裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。

神の裁きは、私たちが知っており、私たちを自分たち以上によく知っておられるキリストによる裁きです。このことを信じることに、私たちの希望と自由があります。さぁ、今日も勇気をもって、私たちに委ねられた世界に出てゆきましょう。


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