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- 「神の霊が宿るとき」
復活祭から7週間、つまり50日目(ギリシャ語でペンテコステ)に、教会は「聖霊降臨祭」を祝う。クリスマスやイースターと並んでキリスト教の三大祝日とされているが知名度はぐっと落ちる。一つの理由は、この日に起こったことが、使徒言行録2章1-4節によると何か「異様な現象」という感じがするからであろう。 イエスの「誕生」は自然の出来事だし、「復活」も、信じるかどうかは別にして、物語性を具えている。だが、「聖霊降臨」は、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ…炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ…ほかの国々の言葉で話しだした」(2-4)と書かれているように、一種「異様な」出来事である。中々理解しにくい。そのために「ペンテコステ」には人気が集ま
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- 「主よ、わたしたちの神よ」
アジア州の七つの教会に宛てた手紙(ヨハネの黙示録1-3章)は前回で終わった。は、一連の幻の最初のシリーズが始まる(11章迄)。ここでヨハネは、「七つの封印で封じられた巻き物が」神の手の中にあるのを幻で見る(5,1)。この封印が、小羊(イエス・キリスト)の手によって次々に開かれるという展開である。 さて、先ず「開かれた門が天にあった」(1)という言葉に注目したい。 聖書の信仰では、神は超越的な存在であるから、超越的な神の在り処である天を地上の人間が覗き込むことは出来ない。天と地は絶対に隔絶している。預言者イザヤが、 「わたし(神)の思いは、あなたたち(人間)の思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道はあなたたちの道を、わた
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- 「主の名をみだりに唱えない」
「主の名をみだりに唱える」とはどういうことか。そして、それがなぜ厳しく「罰せられ」なければならないのか。このことを理解するために、先ず、イスラエル民族の神が「ヤハウェ」という固有の名を持つことを指摘しておきたい。 人はそれぞれ「名」を持ち、そして「名」はその人固有の「人格」と分かちがたく結びついている。夫婦別姓にこだわる人々が主張するように、「名」は単なる符牒以上の意味を持っている。アウシュヴィッツの犠牲者たちは、腕に何桁かの数字の刺青を施され、その「番号」で呼ばれた。これだけでも人間性に対する甚だしい冒涜である。万事合理的になった現代でも「名」は重要である。まして、「名」に特別な意味があると信じられていた古代においては、なおさらだ。 モーセがホレブ山で神の顕現に接したとき、神に「名」を
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- 「子供たちと神の国」
子供たちへの説教夏が近づいて、日も長くなり、外で遊ぶのが楽しい季節になりました。私の家の近くには公園があって、子どもたちが、砂遊び、一輪車、ブランコ、サッカー、野球をして夕暮れまで遊んでいます。そう言えば、虫たちも出てきました。じつは大人たちも遊んでいますね。今は、サッカーのワールドカップがあって、世界中からいろんな人たちが応援にやってきますね。大人もそうですけれど、子どもたちは、もっともっと遊ぶことが好きです。どんな国に住んでいても、それは同じです。大人たちが戦争をしている国、例えばパレスチナの子供たちも遊びます。でも兵隊たちが戦争を始めると、まず大人たちが走って逃げます。すると子どもたちは簡単に取り残されるのです。アフガニスタンの子どもたちが遊ぶ原っぱには、地雷がたくさん埋まっています。
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- 「世界史の封印を解く」
ここでヨハネは、4章に続いて幻を見ている。ヨハネの黙示録が「幻を見る」と言うとき、それは単なる「幻覚」ではない。「普通の物の見方を超えたところから世界史の現実を見る」ということであろう。 私が言う「普通の物の見方」とは、換言すれば、ごく普通の人間として生きている我々の「ホンネ」と言ってもいい。例えば、パレスチナで繰り返し起こっている泥沼のような憎悪と報復の悪循環、あるいは、「悪の枢軸」と名指しされた国々と米国指導部との間の抜き難い不信感、インドとパキスタンの長年の緊張 ―― こういった問題を、我々は殆ど絶望的な気分で見ている。「ホンネ」を言えば、「もうどうにもならないのではないか」と言いたいくらいである。 もっと身近な例を挙げれば、我々の国の現状だ。最近のNHKの世論調査によれば、ほぼ半
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- 「新しい歌をうたう」
我々の世界は一体どうなるのか? 歴史はどこへ向かうのか? 問題と矛盾に満ちた現代世界のことを思う時、 我々は不安に閉ざされ、しばしば途方に暮れたような気持ちになる。紀元1世紀末のヨハネも同じであった。確かに彼は、「玉座に座っておられる方(神)の右の手に巻物があるのを見た」。つまり、世界史の行く手や意味を神はご存知である、と信じていた。だが、それは「七つの封印で封じられて」いて、ヨハネ自身にも他の誰にも見えない。途方に暮れたヨハネが泣いていると、「泣くな」と励ます声がして、封印を解くことの出来る方がいる、と告げられる。---これが、先週共に学んだ 5,1-5の内容である。 今日は 6節以下を読む。ヨハネの幻は続いている。その中で彼は、「屠られたような小羊」(6)を見た。ヨハネ福音書1,29で
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- 「安息日を心に留めよ」
「安息日」とは、金曜日の日没から土曜日の日没までの丸一日のことである。ヘブライ語で「シャバス」というが、これは「やめる」という動詞に由来するという。この日には、週日の労働をすべて「やめて」休め、というのが第四戒の内容である。出エジプト記20,8-11に出ている。 イスラエル民族が安息日を重んじるようになったのは、紀元前587年の「バビロン捕囚」の時からだと言われる。神殿は破壊されて礼拝儀式は不可能になった。だが、神殿での礼拝は出来なくても、毎週「安息日を守る」ことによって自己の「アイデンティティー」をを確認することはできる。こうしてイスラエル民族は、「ヤハウエとの契約のしるし」としての安息日を「心に留めた」のである。人々の目は、いわば神殿礼拝という儀式から離れて、世界や人生の本来の根拠であ
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- 「青白い馬が現われた」
5章で、ヨハネは神の右手にある巻物が七つの封印で封じられている幻を見た。世界史がどこへ向かうのか誰にも分からない、という比喩である。ただ、小羊、つまりイエスだけが、世界史の隠された秘密を読み解くことが出来ると告げられた。 6章に入ると、その小羊が封印を一つ一つ解き始める。 小羊が第一の封印を解いたとき、「見よ、白い馬が現われ、乗っている者は、弓を持っていた」(2)。これはどういうことだろうか? ヨハネ黙示録では、「白」い色は三通りに使い分けられている。第一に、天的栄光の象徴として(1,14)、次に勝利のシンボルとして(2,17)、そして第三に純潔のシンボルとして (3,4)。「白い馬」は、この直後に、「冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った」(2)という言葉が続くところか
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- 「静かに待つ」
前回も見たように、神の右手にある世界史の行方を記した巻物は、七つの封印で封じられていて誰にも分からない。小羊、つまりイエスだけが、それを読み解くことが出来る。そして、彼は封印を次々に開き始める。それがヨハネの見た幻であった。 第一の封印を開いたとき、白い馬が現われ、第二の封印を開いたとき赤い馬が、第三の封印を開いたとき黒い馬が、第四の封印を開いたとき青白い馬が現われた。キリストが解き明かす世界史の行方は、差し当たりは、白い馬・赤い馬・黒い馬・青白い馬によって象徴されるような、不安と戦争と飢饉と死である。この幻は、我々の世界の現実をほとんどそのまま言い当てているのではないかとさえ感じられる。 だが、それが最後ではない、と黙示録は言う。死の力は地上を広く覆うが、全部というわけではない。四分の
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- 「刻印を押された神の僕たち」
前回は、6章後半、小羊が第五と第六の封印を開いた時の話をした。天にある祭壇の下に殉教者たちが見えたこと、彼らの魂が、天に昇り、神の直ぐ傍で純白の衣をまとい、神に向かって大声で、「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行われないのですか」 (10)叫んでいたという。これは幻だろうか? この殉教者たちの祈りに対して、「自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つように」(11) という答えが返ってくる。まだまだ殉教者は出るだろう。だが、やがてその「数が満ちる」。そして、神の裁きが行われる。その時までは、しばらく静かに待つように、というのである。 続いて「天変地異」が見えた。それはいつの時代にもあることだが、ヨハネは来るべき「終
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- 「神が涙をぬぐわれる」
小河陽氏の翻訳による『ヨハネ黙示録』(岩波書店)には、ほとんどすべての章に図像が添えられている。多くは10世紀から17世紀頃までの写本に載っている絵だが、そのほかに祭壇画もあるし、タピストリーもある。全部で80数点に及ぶ。これを見ると、古代や中世のヨーロッパの人々が、黙示録によって大いに想像力を刺激されたことが分かる。それ程、黙示録には色彩豊かな絵画的世界が繰り広げられているのである。 しかし同時に、黙示録はきわめて音楽的でもある。先週、7章は小羊が第七の封印を開く前のいわば「間奏曲」のような所だと言ったが、「間奏曲」(インテルメッツオ)といっても、気分転換のための軽いものではない。10節や12節は堂々たる大合唱だ。ヘンデルが「メサイア」を書く時、黙示録から刺激を受けて、「ハレルヤ」を始め
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- 「戦争は罪である」
明後6日は広島の原爆記念日、9日は長崎の原爆記念日である。同じ9日にはソ連軍が参戦して旧満州で進撃を始めた。これが原爆に次ぐ決定的な打撃となって、15日に日本は遂に無条件降伏に追い込まれる。しかし、それに先立って敗戦は既に現実となっていた。日本のほとんどすべての都市は焦土と化し、6月25日には、沖縄で日本軍の組織的な抵抗が止み、多くの住民を巻き込んだ惨澹たる地上戦は終った。私自身の経験で言えば、生徒として在籍していた東京陸軍幼年学校が8月1日深夜に八王子の町と共に空襲で焼け落ちた。明け方、まだ余燼の燻る廃墟に立った時の無力感を、忘れることは出来ない。 これらは、若い人々には縁遠い話かもしれない。しかし、これをある世代の経験と限定すべきではない。すべての日本人にとって「忘れてはならない記憶」
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- 「求めなさい」
I「求めなさい。そうすれば、与えられる」というイエスの言葉は、キリスト教徒でない人々にもよく知られています。その場合この言葉は、〈夢を諦めてはいけない〉という意味に理解されることが多いのではないでしょうか。もっとも夢の内容が何であるかは、とりあえず不問に付されます。イエスも、何を求めるのかについて明言しません。いったい私たちは、何を求めているのでしょう。胸に手を当てて考えれば、私たちの求めるものが、私や私の属する世界にとって、必ずしも常によいものである訳ではないことに気づかされます。環境問題を見れば、このことは直ちに明らかです。東京都心の夏の熱気には耐えがたいものがあります。最近「ヒートアイランド(熱の島)」という言葉を耳にします。棒グラフによる気温標示を地形表示と組み合わせると、都心の気温
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- 「霊に満ちたうめき」
I「うめく」などということは、できるなら避けたいものです。そこにはきっと、過去のとりかえしのつかない過ちに対する苦い後悔と、八方塞で出口の見えない現在の苦しみ、そして孤独があり、また自分の無力さに対する絶望があるのでしょう。また「うめく」人が元気一杯とは考えられません。むしろ疲れ切って、生きる力を半分失っているように思われます。 私たちは、それだけいっそう「強さ」にあこがれます。「うめく」のは、その人が弱いからだと考えるのです。もし私が強ければ、過去のしがらみを自力で振り切り、鋭い眼力で進むべき方向を見定め、目標に向かって脇目もふらずに一直線に進むことができるでしょう。そうして「弱さ」を克服したとき、私は自信と輝きを取り戻すことができるし、友人たちも、そんな私を賞賛の眼差しで迎え入れるだろう
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- 「父と母を敬え」
十戒は二枚の石の板に刻まれた。「第一の板」(1-4戒)は人間の神に対する関係を、「第二の板」は人間同士の関係を教えている。そして、「第二の板」の最初が第五戒である。「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」(出エジプト記20,12;申命記 5,16)。 では、「父母を敬う」とはどういうことか? 『ハイデルベルク信仰問答』(問104)は、両親に対して「あらゆる敬意と愛と誠実とを示し…ふさわしい従順をもって服従する」ことだと説明している。これは一応納得できるが、十分とは言えない。最近の研究によると、この戒めは本来、信仰者個人の心がけだけではなく、社会全体に関わる問題を示すものであったらしい。 つまり、古代イスラエルでは氏族単位で生活
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- 「被造物のうめき」
先週の26日から9月4日まで、南アのヨハネスブルクで国連主催の「環境・開発サミット」が開かれている。予告したように、今日はこのことに関連して話したい。 神は天地万物を造り、これを愛し、保持して下さる。これが我々の信仰である。創世記の「天地創造」の物語や、先ほど交読した詩編104編、その後で読んだ創世記9,8-17の記事などにはこの信仰が言い表されているし、ローマ書には被造物が「共にうめいている」(8,18-25)という、今日の環境破壊を暗示するような言葉が印象深く記されている。イエスも、空の鳥や野の花といった小さな被造物に深い同情をもって視線を向けている(マタイ6,25以下)。 このように、聖書は本来、地球環境の問題と無関係ではないのだ。それなのに、教会は概して無関心であった。「地を従わせ
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- 「すべての人を照らすまことの光」ルカ2:1-16 中村吉基
イザヤ書9:1-6;ルカによる福音書2:1-16皆さん、2022年のクリスマス、おめでとうございます。今から50年以上前のクリスマスのことでした。ひとりのアメリカ人の男が海軍のパイロットとしてベトナム戦争に赴き、現地で捕虜になり、1967年から5年間収容所に入れられていました。特に最初の2年は厳しい拷問に遭いました。彼はそのほとんどを独房で過ごしていました。ハノイにある収容所は人呼んで「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれているそうです。何やら豪華なホテルを連想しますが、幅は2メートル、奥行きは3メートルとたったこれだけの広さの場所に床にはコンクリート製の板が置いてあるだけで、これがベッドがわりだったそうです。50センチ近い厚さのある壁に、窓には板が打ち付けられていたので、捕虜同士は顔を見ることも、話
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- 「虹と弓」寒河江健
創世記9章8~17節、ルカによる福音書11章33~41節 会堂の皆さん、そしてオンラインで礼拝に参加されている皆さんおはようございます。寒河江健と申します。千葉の四街道教会で牧師をしております。本日は代々木上原教会の教会カンファレンスにお招きいただき、上原教会の初代牧師であった赤岩栄が今を生きる私たちに投げかけているものに共に思いを向けたいと思います。このような機会を与えられ、皆さんとご一緒に礼拝が捧げられますことを大変嬉しく思っております。 さて私たちの教会の暦では先週の日曜日に新年を迎え、聖霊降臨節から降誕前節に切り替わりました。そこから私たちは9週間、救い主イエス・キリストの誕生を祝う降誕日(クリスマス)までの道のりを歩んでいきます。日本基督教団が定めた聖書日課を見ますと、本日の主日礼
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- 「一歩、前へ」ルカ5:1-11 2022/02/06 中村吉基
イザヤ書6:1-8;ルカによる福音書5:1-11今日の説教題は「一歩、前へ」。教会前の掲示板で自分でこの説教題が書かれているポスターを見ていて、どこかで見たことのある言葉だと思いました。男性の方はよく知っているでしょう。男性用のトイレの中でよく目にする言葉です。私が先日利用したトイレにはたしかこう書いてありました。「一歩前へ、目標を定めて発射!」私は結構気になる性格ですから、ネットでいろいろと探してみました。そうすると「一歩前へ、その積極性があなたの人生を変える」たしかにそうでしょう。これは本当に、トイレには紙もありますが、神もいらっしゃった!「一歩を踏み出せば何かが変わる」そうでしょう。そうでしょう。「何事もチャレンジ精神、一歩前」礼拝でご紹介できるのはこのくらいです。あとはどうぞお宅のパ
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- 「神はどのようなお方なのか」ヨハネ16:1-15中村吉基
イザヤ書40:12-17;ヨハネによる福音書16:1-15皆さんは一日の中で何度神さまのことを思い出すことがあるでしょうか。日曜日に教会にいるときには神さまを意識しているのに、教会を出た瞬間に神さまを忘れてしまっているというようなことはないでしょうか。教会ではクリスチャンらしい顔つきをしていても、一歩外に出れば自分がクリスチャンであることも隠してしまうことはないでしょうか。しかし、神さまのほうは私たちがいくら忘れてしまったからと言って、私たちのことをお見捨てになったり、忘れてしまうことがないお方です。でも、それをいいことに神さまのことを自分の都合の良い時だけ思い出して、自分勝手に使い捨てにする人がいます。自分の気分が向いた時だけ、必要な時だけ神さまを便利に出してくる人がいます。主イエスは仰せ

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
