「安息日を心に留めよ」

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

「安息日」とは、金曜日の日没から土曜日の日没までの丸一日のことである。ヘブライ語で「シャバス」というが、これは「やめる」という動詞に由来するという。この日には、週日の労働をすべて「やめて」休め、というのが第四戒の内容である。出エジプト記20,8-11に出ている。

イスラエル民族が安息日を重んじるようになったのは、紀元前587年の「バビロン捕囚」の時からだと言われる。神殿は破壊されて礼拝儀式は不可能になった。だが、神殿での礼拝は出来なくても、毎週「安息日を守る」ことによって自己の「アイデンティティー」をを確認することはできる。こうしてイスラエル民族は、「ヤハウエとの契約のしるし」としての安息日を「心に留めた」のである。人々の目は、いわば神殿礼拝という儀式から離れて、世界や人生の本来の根拠である神に向けられた。

このことは、出エジプト記20,11にもよく現われている。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」。つまり、我々が生きるために必要な一切を神は最初に創造された。万物が完成し、神は「すべてのものをご覧になって」、それが「極めて良い」ことに満足され、「安息なさった」(創世記1,31-2,3)。ここに安息日の起源があるという。

だから、この日、我々は日常の仕事を休む。それは、人間の業を中断するということである。常に余計なことに目を奪われる我々が、自己の思いを中断して神に視線を向け直す。神に注目し、一切に先立つ神の恵みを心に留める。これが安息日の意味である。

この意味で安息日は人間にとって極めて大切な日である。しかし、これもやがて形骸化することを免れなかった。第四戒は、始めは極めて簡潔な戒めだったものが、「ラビ文献」の中で拡大の一途を辿る。「ミシュナー」によると、安息日に禁止された労働は39項目にわたり、各項目にそれぞれ細かい規定が加わって、イエスの頃には禁令の数は数百に上っていたという。

たとえば「農」に関しては、種を蒔く・耕す・取り入れる・藁を束ねる・脱穀する・簸る・選り分けるなどが禁じられた。「食」については、粉に挽く・ふるいにかける・こねる・パンを焼く等々の作業が、「衣」に関しては、羊の毛を刈る・漂白する・梳く・染める・糸に撚る・織る・裁断する・縫うなどが禁じられた。その他に、「歩く距離」も800メートル以内に制限され(家畜の場合はその倍)、「字を書く」のも二つ以上は許されないなど、この「煩瑣な形式主義」は際限もなく自己増殖した。

このような形式主義は「本末転倒」であるとして果敢な戦いを挑んだのが、イエスである。マルコ 2,23-28はその一例だ。「麦の穂を摘む」ことは、「安息日にしてはならないこと」の一つだったが、空腹になった弟子たちが麦の穂を摘んで食べたとしても、それは禁じられねばならぬことではない、と彼は弟子たちを擁護した。「病人を治療する」ことも同様だ。これも形式主義的なラビたちによって禁じられていたが、イエスは、安息日なのに敢えて片手の萎えた人を癒した。マルコ3,1以下。当時、意図的な律法違反は死刑と決まっていたから、これは生命がけの行動だった。

このようなイエスの思想と行動の規範は、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2,27)ということであった。安息日は、人のために定められた!すべての人が、自らの思いと業を一旦断ち切って、一切に先立つ神の恵みの業に注目する。そのことによって真に人間らしい生活に至る。安息日は、正にこのために定められたのである。

さて、最後に第四戒の申命記版に注目したい。「七日目は、あなたの神、主の安息であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」(申命記 5,14-15)。

これは、「奴隷状態からの解放の喜び」を根拠にしている。安息日は、本来、決して陰鬱な禁令づくめの日ではなく、自由と喜びに満ちた祝祭なのだ。そして、奴隷や寄留の外国人も含めて、すべての人が等しくこの大きな喜びに与らねばならない。

 ディートリッヒ・ボンヘッファーが、十戒をベースに「罪責告白」を書いたことは有名だが、第四戒に当たるところで、次のように述べている。

「教会は告白する。---教会は祝い日を失い、その礼拝を荒廃させ、日曜日の安息を軽視するという罪を犯した。教会は、休息の喪失と不安に対して、しかしまた、労働日を越えての労働力の酷使に対して責任がある…」。

ここには、むろん日曜日の過ごし方や礼拝の持ち方についての反省もあるが、単にそれだけではない。以前、第一戒に関して話したとき、彼が具体的に「ユダヤ人迫害」という罪を告白していること指摘しておいたが、今日の所では、当時ナチスによって行われていた「強制労働」のことを念頭においていたのである。

このように、彼においては、十戒は「人権問題」への広がりを持っていた。申命記の見方も、これと共通する。現代に生きる私たちにとって、まことに大切な視点だと言わなければならない。


 
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