前回も見たように、神の右手にある世界史の行方を記した巻物は、七つの封印で封じられていて誰にも分からない。小羊、つまりイエスだけが、それを読み解くことが出来る。そして、彼は封印を次々に開き始める。それがヨハネの見た幻であった。
第一の封印を開いたとき、白い馬が現われ、第二の封印を開いたとき赤い馬が、第三の封印を開いたとき黒い馬が、第四の封印を開いたとき青白い馬が現われた。キリストが解き明かす世界史の行方は、差し当たりは、白い馬・赤い馬・黒い馬・青白い馬によって象徴されるような、不安と戦争と飢饉と死である。この幻は、我々の世界の現実をほとんどそのまま言い当てているのではないかとさえ感じられる。
だが、それが最後ではない、と黙示録は言う。死の力は地上を広く覆うが、全部というわけではない。四分の一に過ぎない。そして、それを潜り抜けるようにして、最後には新しい天と新しい地が現われる。これこそ世界史の真の行方なのだ。――これが前回の話の要点である。礼拝の後である方が来られて、「黙示録は希望の書物なのですね」と言われた。正にその通りである!
今日のところでは、小羊は続けて第五の封印を開く。すると、天にある祭壇の下、つまり神に最も近いところに、「神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂」(9)が見えた。この人々は殉教者だ。神の言葉を語ったために、あるいは「イエスは主である」と証言したために殺されたのである。この世界は実に夥しい殉教者を生み出すような世界である。イエスは十字架が迫ってきたある日、そのことを嘆いて、「正しい人アベルの血から、バラキアの子ゼカルヤの血に至るまで(マタイ23,35)、どれほど多くの正しい人の血が地上に流されたことかと言い、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」と嘆いた。イエス自身も同じようにして殺された。
20世紀は大量虐殺(アウシュヴィッツ、南京、広島、長崎等々)によって歴史に残ることは確かだが、多くの殉教者を出したことでも記憶されるだろう。その中でも、コルベ神父、ボンヘッファー牧師、キング牧師、及びロメロ大司教の四人が、カトリック・プロテスタントの双方で、20世紀の殉教者の代表として記念される。
コルベ神父は長崎でも働いたことのある修道士だが、アウシュヴィッツで飢餓刑に決まった一人の囚人が家族のことを思って嘆き悲しむので、身代わりになると申し出て生命を捧げた。ボンヘッファー牧師は、ナチスの暴虐に抵抗して捕らえられ、獄中で常にイエス・キリストを証しし、敗戦直前39歳の若さで処刑された。キング牧師は言うまでもなく、アメリカにおける公民権運動をイエスの教えに忠実に非暴力で推し進めた代表的な指導者であるが、同じく39歳の時に暗殺された。ロメロ大司教は中米エルサルバドルの大司教として、特権階級が富と権力を独占していることを公然と非難し、貧しい人々の権利を擁護したために憎しみを買い、1980年、ミサをあげている最中に独裁者の手先によって自動小銃で蜂の巣のようにされた。
この四人に限らない。多くは無名だが、どれほど沢山の正しい人々が苦しめられ、生命を奪われたか分からない。それら殉教者たちの魂が、天で、神の直ぐ傍で、純白の衣をまとって、神に向かって大声で叫んでいる、というのである。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、…わたしたちの血の復讐をなさらないのですか」(10)。
「わたしたちの血の復讐」という言い方はイエスの教えにはそぐわないと、抵抗を感じる人も多いだろう。しかし、「復讐する」の原語「エクディケオー」は、「法を無視して」とか「不正に」という意味の言葉から来ている。殉教者を生み出すようなことは、本来無法な状態なのであり、「このように正義が無視された不正な状態をいつまであなたは放っておかれるのですか」というのが、殉教した人々の叫びの本来の意味なのではないか。
それに対して答えがあった。「自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つように」(11)。要するに、まだまだ殉教者は出る、というのである。だが、やがてその「数が満ちる」。つまり、神が「もういいだろう」と判断される時が来る。その時までは、人間が先走って神の裁きを代行するようなことをしてはいけない。我々はどんなにしばしばいきり立ち、先走って人を裁くことだろう! だが、やがて神ご自身が裁かれる。その時が来ることを信じて、静かに待たねばならない。終末論的な生き方の特徴は、正にここにあるのである。
さて、小羊が第六の封印を開いたとき、「大地震が起きて、太陽は毛の荒い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。…」(12-13)。ユダヤ教黙示文学では、「社会的不安」と共にこういった「天変地異」が終末の予兆とされていた。マルコ福音書13,24-25の「小黙示録」がその代表であろう。ここに引用されているのはイザヤ書13,9-10である。
戦争や飢饉などの「社会的不安」や「天変地異」はいつの時代にもある。それは、我々の住んでいる世界が絶対不変のものでも永遠のものでもなく、終わりがあるということを我々に考えさせるという意味で、「予兆」である。だが、これは「予兆」に過ぎない。これを極端に強調して「世の終わりが来た」と言い、人々の不安をいやがうえにも掻き立てる人々が昔からいたが、これは正しくない。終わりはただ神の手の中にある。そのことを信じて静かに待つことが、ここでも正しいのである。
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
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