主の僕の忍耐

ここで引用される聖書の著作権は日本聖書協会に属します

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「主の僕の忍耐」

秋葉正二
;コリント二 11,17-27

 棕梠の主日を迎えました。 きょうから始まる受難週に備えたいと思います。イエスさまはとても恰好良い人として、威厳を持ってエルサレムに入城しませんでした。  世間では愚鈍と言われていたロバに乗って行きます。 それも弟子にわざわざロバを連れてくるように指定していますから、完全に意図的です。 神の御子を前面に打ち出して、どんな状況でも設定出来たはずなのに、ドンキホーテの従者、サンチョ・パンサみたいに、わざとロバに乗って行ったのはなぜでしょうか。

 そこにはキリスト教の神様の本質が隠されていると思います。 これはクリスマスの時、イエスさまがみすぼらしい馬小屋で生まれたことと共通していて、神様はイエスさまをごく普通の当たり前の人間として世に送り込んだのです。 神様は自らの分身であるイエスさまを、不完全で罪深い人間として世に送り込み、その犠牲によって罪を贖おうとされたのです。 ですから、ヨハネ福音書(12:13)にあるように、『ホサナ。祝福あれ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に』 と人々に歌わせます。

 ホサナとはヘブライ語で「我を救い給え」という意味です。 人々はロバに乗った人イエス・キリストを救見て、救世主メシアがやって来た、と叫びました。 そのように、イエスさまはエルサレムに入り、人類の罪を一心に背負って十字架に架けられることになります。 ロバは神様が人間の背丈まで降りてきてくださっていることを示す象徴だと思われます。 そこで、きょうは受難週をスタートするにあたり、このひと回りにふさわしい過ごし方はどうあるべきか、テキストを頼りにしながら考えてみます。

 テキストは40-55章の第二イザヤの中に4つあります「主の僕の歌」と呼ばれる3番目の歌です。 「主の僕」は第二イザヤの重要テーマなのですが、「主の僕」というのは、イスラエルあるいはイスラエルを仲立ちとした世界の諸民族を代表する個人あるいは集団だろうと見られています。

 あるいは第二イザヤその人かもしれません。 すなおにきょうのテキストを読めば個人性を感じます。 簡潔に表現すれば預言者の救済預言の一つということになりますが、きょうのテキストに語られていることは苦難なのです。 長いキリスト教の伝統では、この苦難は直接的にキリストの苦難についての預言だ、と理解されてきました。 ところが、カルヴァンはこれに反対してこう言っています。 《イザヤは彼以前のすべての神の僕たちを代表すると共に、彼以後のすべての僕たちも代表している》。

 預言者の務めは神様の言葉を告知することですが、そのこともきょうのテキストの4-5節に記されています。 このことをまず確認した上で、第二イザヤは神様の救いとか恵みを明確に知らせるまでは、死に至るまでの苦難を通らねばならないと、縷々語っていくのです。 そして本来の使命を完遂するために、主の僕は苦難を通して多くの人の罪を負わねばならないことを53章11,12節で述べるに至ります。

 そこには、『わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った』 とありますし、『多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった』 とありますから、イエスさまの歩み方を新約聖書で読んでいる私たちにとれば、“これはイエスさまのことだ” と感じるのは自然でしょう。

 第二イザヤはバビロン捕囚によってバビロンに捕囚民生活を送っていた人々の中で、捕囚生活も終わりに近づいた頃の指導者的人物と見られていますが、なぜこうした一つの人物像を示し得たのか不思議です。 4節には「弟子」が登場しています。 弟子には普通師匠がいますから、弟子という言葉で師匠すなわち神様の対する従順性を表しているとも理解できます。

 バビロンにおける捕囚民としての生活は60年ほどですが、新盟主として登場したペルシャ王クロスの捕囚民解放令により捕囚生活は終わります。 第二イザヤはその頃活躍した捕囚民の中のリーダーであろうと見られています。 長年にわたる捕囚生活はイスラエルの人々を身も心も疲れさせたことでしょう。 エルサレムに帰還してもいいよと言われても、故郷に帰るには広大な砂漠の行進が待っているわけですし、実際すべての捕囚民が帰還の道を選んだわけではないと見られています。 帰還の旅も何度かに分けて行われていますし、帰り着いたとしてもそこに待っているのは生活苦であろうし、疲労困憊と落胆の日々かもしれないのです。こうした状況下、第二イザヤは預言者としての役目を果たさなければなりませんでした。 預言者自身も疲れ切っている状態の中で、どこから精神的エネルギーを供給したのでしょうか。 このあたりに第二イザヤの姿が少し浮かんでくるような気もします。

 4節に 『朝ごとに』 という表現があるのが気になります。 朝ごとに神様が預言者の耳を呼び覚まし、開かれたとありますから、その秘密はやはり神様と超人的に向き合う預言者としての姿です。 この神様の呼びかけに彼は 『わたしは逆らわず、退かなかった』 と告白しています。 ドイツの聖書学者の何人かは、ここにはエレミヤとの共通点があると指摘しました。 それによれば、どうも「主の僕の歌」とエレミヤ書には多くの類似した用語と表現があるらしいのです。 学者はその比較を表にしてくれました。 たとえばイザヤ書50章4節などはエレミヤ書の1章7、9節と共通だと指摘しています。 以下5節6節7節8節……と、すべてエレミヤ書に共通点があるのです。 ということは、第二イザヤはエレミヤの活動についてかなりのことを知っていたと考えられます。

 「主の僕の歌」はエレミヤ書から影響を受けているのです。 6節には第二イザヤと捕囚民の間に何事か意見の相違が生じたことを窺わせる表現が見られます。 おそらく捕囚民解放令が出たものの、困難な旅を重ねて帰還すべきなのか、それとももう慣れたバビロンでの生活に留まるべきか、意見が別れたのでしょう。 それらは対立しました。 もちろん第二イザヤは帰還推進派のリーダーです。

 反対派の意見も随分強かったうようです。 「打とうとする者」がいたり、「ヒゲを抜こうとする者」がいたことはそれを裏付けます。 ヒゲを抜くことなどは、イスラエルの人にとってはサムソンやサムエルの記事からも分かるように、堪え難い屈辱です。 砂漠の旅は命に関わる危険を孕みますが、バビロンに留まれば当面そうした危険はないわけです。 このあたりの捕囚民同士の対立には、民族のプライドとか信仰心の強さの問題が関係していたのでしょう。

 7節や9節になりますと、主なる神様のことが繰り返すように出て来て、自分の受ける苦しみはもはや自尊心などの問題ではなく、神様の助けだけが自分を慰めてくれる、と預言者は語っています。 帰国前後のどさくさに対立が起こったことは、預言者の指導がもう限界に来ていたことを示しているのかもしれません。 そうなれば、第二イザヤとしては、ひたすら神様の助けだけを信じ続けるしか方法がなかったのです。 そうすると次のステップとして、どういう行動を選択したらよいか、裁き主としての神様を意識するしかありません。

 8節と9節の言葉は、行動の是非を決めてくださる神様にすべてを委ねる彼の姿が浮き上がっています。 彼は苦しみと裁きによって主なる神様を確認し、『見よ』 と、神様が実際となって現れることを強調しました。 私たちは受難週の歩みの中で、イエスさまの苦難を受けられるその姿をどれだけ感じられるか、それを問われていると思います。

 第二イザヤがもちろんイエスさまの具体的な歩みを知っていたはずはありません。 しかし彼のように、苦しみを通して神様をより身近に感じることのできる感性を少しでも与えられたら、十字架上で極限の苦しみを味わわねばならなかったイエスさまを、私たちはもっと近くに感じられることでしょう。

 人間にとって苦しみは無駄ではありません。 イエスさまの苦しみとは比較になりませんが、私たちの苦しみもイエスさまの苦しみを思い起こすきっかけになるかもしれません。 使徒パウロが自ら体験した苦しみを書き残したこともそういう意味を持っていると思います。 パウロの命がけの体験の意味は、それを読む者に十字架のイエス・キリストを指し示すことです。 私たちもパウロのように、自らの苦しみをそのように十字架に近づけることができたら、なんと幸いなことでしょうか。 祈ります。


 
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