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確かさという名の偶像(4)

(シリーズ過去記事 1 2 3)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第2章「感情のとりこ」を見ていきます。ボイドは、彼自身が確実性追求型の信仰のあり方に対して疑問を持つきっかけとなったできごとについて語ります。それは本書が書かれる約20年前に起こりました。彼の知り合いの若い男性の脳にがんが拡がっているのが見つかり、医者からは手遅れだと言われました。彼の教会ではその男性のいやしのために祈祷会が持たれました。その時、ボイド自身も含め、その場にいたクリスチャンたちは、彼らがその男性のがんがいやされることを疑わずに信じるなら、実際にその通りになると考えていました。そこで彼らは聖書のことば(マタイ9章29節「あなたがたの信仰どおり、あなた

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その4)

(その1 その2 その3)藤本満先生によるゲスト投稿の第4回を掲載します。今回は物語論についてです。聖書信仰(4) 物語物語の復権昨今、聖書の物語性、あるいはナラティブとしての聖書という表現をよく耳にするようになりました。アブラハム、士師、ダビデ、福音書、使徒の働きなど、聖書を切れば必ずと言って良いほど物語が出てきます。1974年にイエール大学のハンス・フライが著した『一九世紀における聖書の物語の陰り』という書物がきっかけとなって、急にナラティブとしての聖書が注目されるようになりました。なぜそれまで、聖書の物語性が無視されてきたのでしょう。19世紀、リベラルなドイツの学者たちは、歴史の中に全能の力をもって介入してくる神を前提とせずに、聖書を文献として研究します。彼らの多くは、紅海が二つに分か

N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版④

過去記事 ① ② ③前回の記事では、創世記における性や結婚の記述をそのまま神の創造のオリジナルデザインと捉えるライトに対して、そこで提示されているバイナリー的・異性愛主義的な考えは普遍的なものではなく、創世記が書かれた当時の古代イスラエル人の人間観が反映されているのではないかと論じ、その根拠として、天地創造の記述に古代の宇宙論が反映されていることを挙げました。このような議論に対しては、次のような反論が予想されます:古代の宇宙観に基づいた創造記述は、神が例外的に当時の人々の世界観に合わせて語られた部分であり、それを文字通りに受け取る必要はない。しかし、人間の性や結婚について書かれた箇所は普遍的な教えであって、これらを安易に混同すべきではない。我々は聖書のどの部分が書かれた当時の文化の限界内にあ

御国を来たらせたまえ(2)

前回の記事では、主の祈りの中の「御国を来たらせたまえ」という部分を手がかりに、キリスト教の希望は神の国(支配)がこの地上に到来するということであって、この地上から霊的な楽園としての「天国」に逃避することではない、ということを書きました。にもかかわらず、「死んだら霊魂が天国に行く」のがキリスト教の最終的希望だという考えはいまだに根強くあります。なぜこのような誤解が生じたのでしょうか?これにはいろいろな理由があると思われますが、一つには、西洋のキリスト教思想が、霊と物質(肉体)を対立するものと考え、前者を後者より優れたものとする、ギリシア的な霊肉二元論に影響されたということが考えられます。(二元論とは対立する二つの原理や要素の関係を通して世界をとらえていこうとする考え方のことです。)使徒行伝の中

「福音」とは何か?(1)

前回の投稿では、新約聖書のクリスマス物語が持つ政治的なメッセージについて述べました。ルカの福音書2章に描かれている降誕物語は、「王の誕生」を描いたものであると言って良いと思います。そして、羊飼いたちに現れた天使はそれが素晴らしい喜びの知らせであると告げたのです。新改訳、口語訳、新共同訳といった日本語訳聖書では訳出されていませんが、ルカ福音書2章10節ではエウアンゲリゾマイ(福音を伝える)というギリシア語の動詞が使われています。王なるイエスの誕生は「福音」だったのです。「キリスト教の中心的メッセージは福音である」と言われます。しかしこれは分かるようでよく分からない表現です。「福音(エウアンゲリオン)」は「良い知らせ」という意味で、キリスト教以外でも使われる言葉です。たとえばこれまで治療困難だっ

Context Is King

聖書解釈における大原則の一つに、「文脈(コンテクスト)に即した解釈をする」というものがあります。英語では“Context is King” (文脈は王)などと言われます。聖書テキストの意味は、その前後の文脈の中ではじめて正確に捉えることができる、というもので、神学校で学ぶと、このような聖書の読み方を徹底的にたたき込まれます。前後の文脈に即して聖書を解釈することが身についてくると、こんどは文脈を無視した解釈に生理的な違和感を覚えるようになってきます。牧師の説教やキリスト教関係の書籍、メディア、クリスチャンの友人との会話などで前後の文脈を無視した聖書の解釈や引用が行われると、条件反射的に頭の中に黄色信号や赤信号が点灯し、「この箇所はそんな意味じゃないよ」と頭の中でつぶやい

グラント・オズボーン師の祈り

今日家にある古い書類を整理していた妻が、こんなものを手渡してくれました。これは私が米国のトリニティ神学校を卒業した時に、博士論文の指導教官の一人でもあり当時まだ存命だったグラント・オズボーン博士が祈られた奉献の祈りです。このようなものが印刷配布されていたことすらすっかり忘れていましたので、とても驚きました。13年前に祈られたこの祈りを改めて読み、懐かしさとともに身を引き締められる思いにさせられたので、以下に翻訳を載せておきます:トリニティ福音主義神学校・トリニティ大学院2007年度卒業生のための奉献の祈り(グラント・オズボーン博士)尊い主また愛に満てる天の父よ、あなたはこれらの賜物ある男女において、私たちに貴重なリソースを与えてくださいました。そして、世界に広がるあなたの教会の指導者として彼

二人の女性の物語

先日アメリカから一時帰国していた中村佐知さんが聖契神学校に来てくださり、関野校長、吉川直美先生と4人でとても素晴らしい交わりを持つことができました。その際に、この度出版された『隣に座って』を恵贈いただきました。この本は、2016年にスキルス胃がんで亡くなった娘のミホさんとの最後の日々を、当時のブログやフェイスブックの記事をもとに綴ったものです。 私はミホさんのがんが発見される前から佐知さんのブログの読者でしたし、個人的にも知り合いでしたので、彼女の闘病と召天についてはリアルタイムで中村家のみなさんの旅路について知り、祈る特権を与えられました。本書のページを繰るごとに、その時の思いがよみがえってきました。特に第2章「闘病」の最後の部分。久しぶりに家族が揃うのを待ち望む3月3日付のエントリーの次

N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版⑦

過去記事 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥前回はライトの5幕劇のアナロジーを再び取り上げ、聖書のグランドナラティヴの展開の中で、現代に生きる神の民としてふさわしいパフォーマンスをアドリブで行うべきだと述べました。これこそ、現代のキリスト教会が聖書の権威にしたがって生きるということです。ここまでは私はライトに完全に同意します。けれども私は、一夫一婦制だけが許されるべき結婚のあり方であるというライトの考えには同意しません。同じような聖書解釈を行っているようなのに、なぜ意見が異なるのでしょうか?そもそも、現代の教会が行う「アドリブ」が良いものであるのかどうかは、どうやって判断するのでしょうか? 即興演技が良いものになるための条件をライトは『聖書と神の権威』176頁以下で列挙していますが、その筆頭に挙げられて

黙示録における「福音」(7)

(このシリーズの先頭はこちら)今回から、いよいよ本シリーズのタイトルである「黙示録における福音」について考えてみたいと思います。まず、黙示録の中に「福音」ということばはどのくらい出てくるのかを調べてみると、その頻度は非常に少ないと言うことが分かります。 「福音euangelion」という言葉は「良い知らせ」という意味ですが、黙示録の中でこの名詞形が使われているのは14章6節の1回のみで、「福音を宣べ伝えるeuangelizō」という動詞形は14章6節と10章7節の2回しか出てきません。つまり黙示録全体の中で、明示的に「福音」について語られているのは、10章7節と14章6節の2節しかないのです。しかも、 このどちらの箇所で語られている内容も、私たちが「福音」という言葉を聞いて抱く通常のイメージ

御国を来たらせたまえ(7)

(本シリーズの過去記事 1 2 3 4 5 6)このシリーズでは「神の国の到来」というテーマをいろいろな側面から考えてきました。聖書の提示する終末的希望は、神の国すなわち神の王としての主権的な支配が地上に到来することである、とういことを何度も繰り返してきました。しかし、神の国は何もない空き地に到来するわけではありません。現在の地上は神以外の存在によって支配され、神の意志とは異なる意志によって動かされています。主の祈りの中でイエスが弟子たちに、「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るように教えられたのは、まさに現時点では神の支配はこの地上を未だ完全におおっておらず、神のみこころが完全になっていないからこそなのです。そのような領域に神の国が「訪れる」というの

ジョン・ウォルトン博士来日講演(2)

昨日の投稿に続き、ホィートン大学の旧約学教授であるジョン・ウォルトン博士の来日講演会の内容を紹介します。5月14日(月)は福音主義神学会東部部会の主催で行われた、春期公開研究会での講演「創世記1章は何を語っているのか?~機能的コスモロジーの再発見~」に出席しました。タイトルを見て分かるように、この講演は12日(土)に行われた講演会と同じ主題について行われました。しかし、神学会での講演ですので、前回よりも専門的な内容に踏み込んで話がなされました。そこで、この記事では、前回と重なる内容は割愛して、前の記事で詳しく触れなかった内容について、ポイントごとに紹介したいと思います。古代近東文化前回の記事でもお伝えしたように、ウォルトン師は聖書が書かれた古代近東の文化の流れは現代の私たちが生きている文化と

死をもたらす神学

昨年のこの時期に書いた「クリスマスの星」という記事が、今年になってまた読まれているようです。そこでも取り上げた、マタイ福音書の降誕物語を改めて読み返していると、昨年とは違う側面に目が留まりました。異教徒の占星術師である東方の博士たちがエルサレムを訪れて、ヘロデ大王に「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。」と訊ねると、王とエルサレムの住民は不安に陥ります。マタイは次のように続けます:そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が

恵みへの応答

26 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。27 この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。28 御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。29 この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。30 すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。31 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。32 彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、33 彼はとこ

『聖書信仰とその諸問題』への応答2(藤本満師)

(その1)藤本満先生によるゲスト投稿の第2回目です。第1回目の記事には多くのアクセスをいただき、投稿当日の当ブログアクセス数はこれまでの最高記録を更新しました。この主題についてどのような立場を取るにせよ、関心の高さを感じています。寄稿くださっている藤本先生には心から感謝しています。*     *     *2 1970~80年代日本の福音派における論争『聖書信仰とその諸問題』(以下、『諸問題』)では、1970~80年代における福音派内の論争を拙著よりも詳しく取り扱っています(27~32頁)。その中で、JPC(日本プロテスタント聖書信仰同盟)の機関誌であった『聖書信仰』編集の責任をもちながら、その「ゆらぎ」の故に1983年のJPCの総会において、村瀬俊夫氏とともに引責辞任をした中澤啓介氏のこと

ホタルとパウロ

夏になると、私の住んでいる地域では水辺でたくさんのホタルを観ることができます。宵闇の中で音もなく明滅しながらゆったりと飛び交うホタルの光は、何度見ても心がなごみ、良いものです。私はホタルを見るたびに、ある話を思い出します。Photo credit: Mr.k_Taiwan via VisualHunt / CC BY-NC-SA3年前に地元の文化会館で、「とべないホタル」というミュージカルが上演されました。このミュージカルには妻と娘たちも出演していましたので、私も観に行きました。当日は1000人を超える盛況で、たいへんな好評でした。私もこの劇を見て大きな感動を受けました。それは家族が出演しているという身びいきだけでなく、劇自体のストーリーがたいへん良くできているということも大きかったです。そ

「主の祈り」を祈る(5)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4)天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。「ねがわくは御名をあがめさせたまえ。」第2回の投稿で指摘したように、主の祈りに含まれる祈りには、優先順位があり、私たちはイエスが弟子たちに教えられた順番で祈っていく必要があります。その意味で、天におられる父なる神に対する呼びかけに続く「ねがわくは御名をあがめさせたまえ。」という祈りは、クリスチャンが祈るべき最も重要な祈

『聖書信仰とその諸問題』への応答6(藤本満師)

(その1 その2 その3 その4 その5)藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第6回をお送りします。*     *     *6 説教と聖書信仰前回、言葉はそもそも「記される前に語られるもの」であることを論じました。聖書においても、「神は言われた」とあるように、記された言葉がはじめは語られた言葉であったことを示している箇所がいくつもあります。当然その次に、記された神の言葉は語られます。つまり説教です。そこで説教の意義が、「聖書信仰」の世界でも十分に考慮されなければならないことを今回は論じてみようと思います。ここで筆者は、このことに特別な問題意識を持っていることを先に述べておきます。日本の「聖書信仰」を標榜する教会の中でも、改革派系ではなくホーリネス系に育ちました。これから述べる問題は、ホーリ

蟷螂と海(The Old Mantis and the Sea)

人のまばらな秋の海岸は疲れた時に訪れるといい世の喧騒に汚れた耳を潮騒で洗いながら時を忘れ 波打ち際をあてもなく歩いていく砂の上には、さまざまな大きさ、形、色、模様の石が落ちている暗緑色のもの、赤褐色のもの、乳白色のもの、筋の入ったもの・・・どれ一つとして同じものはない気に入ったものを拾っては、ポケットに入れて歩くと、茶褐色に光る砂の上に鮮やかな緑が目についたどこから飛んで来たのかそれは一匹のかまきりだったそれは大斧のような前脚をしっかり上げ背筋をぴんと伸ばして、海をじっと見つめていたが何を思ったか、つと寄せくる波に向かって進んでいったまるで大軍に一人で立ち向かおうとする老将のように勇敢なかまきりに別れを告げてふたたび歩きだす浜には石だけでなく、貝殻も落ちているだが完全な形のものは少ない整った

黙示録における「福音」(3)

黙示録における十字架前回は、黙示録におけるイエス像と、他の新約文書、とりわけ福音書に描かれているイエス像との間に連続性はあるのか、という問題を提起しました。一般的に、黙示録に登場するキリスト(あるいは神)のイメージは暴力的な裁きによって特徴付けられることが多く、それは福音書に登場する愛に満ちたイエスの姿と一見相容れないように思われます。しかし、神の本質は愛であり、受肉したイエスは神の愛を体現した存在であり、さらに「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」(ヘブル13章8節)のであるなら、そのような特徴は終末に再臨するイエスにも何らかの形で当てはまるはずです。もし福音書のイエス像と黙示録のイエス像に本質的な連続性があるとすれば、私たちが黙示録を読む時、福音書のイエス、

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

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