『聖書信仰とその諸問題』への応答2(藤本満師)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(その1)

藤本満先生によるゲスト投稿の第2回目です。第1回目の記事には多くのアクセスをいただき、投稿当日の当ブログアクセス数はこれまでの最高記録を更新しました。この主題についてどのような立場を取るにせよ、関心の高さを感じています。寄稿くださっている藤本先生には心から感謝しています。

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2 1970~80年代日本の福音派における論争

『聖書信仰とその諸問題』(以下、『諸問題』)では、1970~80年代における福音派内の論争を拙著よりも詳しく取り扱っています(27~32頁)。その中で、JPC(日本プロテスタント聖書信仰同盟)の機関誌であった『聖書信仰』編集の責任をもちながら、その「ゆらぎ」の故に1983年のJPCの総会において、村瀬俊夫氏とともに引責辞任をした中澤啓介氏のことも取り上げてくださいました。感謝なことに、中澤氏の言葉が引用されています。

「その総会後、本論文を執筆した筆者(中澤氏)と機関誌の編集長だった村瀬俊夫氏は、引責辞任することになった。筆者は、本論文の中身はあまりに常識的なものであり、なぜこの程度のことが問題視されるのかがわからなかった。ただ、日本の福音派の神学的状況は、欧米に比べてかなり遅れていることだけは明らかになった。日本の福音派が、自らの聖書学と神学方法論は近代の認識論哲学以前のスコットランド常識哲学に基づいていることに気づき、その狭い神学的ゲットーから脱却しない限り、未来の展望は開かれていかない。筆者自身は、そのように確信した。そこで、しばらくの間福音派の中では冬眠することを決め込んだ」(『諸問題』、29~30頁)。

拙著もウォーフィールド型の聖書信仰の背後に、19世紀後半のプリンストン神学校を支配していたスコットランド常識哲学があったことを論じましたが(75~85頁)、中澤氏は筆者より以前にこの問題を指摘をしておられました。拙著では、JPCが講師として迎えたクラレンス・バスを取り上げました。バスは米国福音主義学会の会長を務めた経験もありますが、何よりも敬虔主義の流れを汲むベテル神学校(中澤氏の留学先)で教鞭を執っていました。中澤氏は通訳を務め、後に英文の講演原稿をバスから取り寄せ翻訳し、『新しい時代を開く聖書信仰』(1976年)に講演が掲載されました。

バスは聖書の客観的側面を強調するウォーフィールド型の聖書信仰に気を遣いながらも、それを手にして、極端に走る人々に警鐘を鳴らすために、聖書は「聖霊が用いる管」であり、それ故に聖書は神の言葉であるとの体験的・主観的側面をも持っていることを強調しました。

「聖書の主観的側面も等しくバランスを保って強調されること……聖書が神のことばであることの主観的側面とは、人間が聖書を読むと、神はその聖書のテキストを通じて、または、そこにおいて語りかけられる、ということです。その時、聖書は、人間が書いた他の書物のように生命のない、印刷された文字ではありません。むしろ、感動に満ちた、生き生きした神の語りかけがなされ、読者を悔い改めに導き、慰めに満たし、あるいは献身へと励ますのです」(拙著、188頁)。

講演でバスは、米国福音派が内包してしかるべき「ゆらぎ」/「多様性」を上手にバランスを取りながら、一辺倒な聖書信仰にならないように、聖書信仰は「救済論」に基づくべきであると主張しています。これを中澤氏は文字に残したかったのでしょう。

大きな損失

70~80年代の論争でJPCが失った聖書信仰の論客は、村瀬氏、中澤氏だけではありませんでした。日本の聖書信仰の中核となってきた改革派教会の榊原康夫氏が離れていきます。発端は、氏が記した五書の緒論にありました(『新聖書注解』旧約1、いのちのことば社、1976年)。榊原氏は、五書のモーセの著者性・成立年代という著論的問題に、文献批評や様式史批評の成果を取り入れました。これによって、福音派の学的成果を結集したはずの注解シリーズでしたが、榊原氏は論争の火付け役となってしまいました。ご自分の思いを次のように要約しています。

「この種の緒論の分野では……冷静な学問的論議をする方がよい、と思った……私としては、聖書観もしくは聖書への信仰においては強固でありつつ、緒論ではそれ以前の学問的検討を進める方がお互いによい、と考えています。」(『福音主義神学』1978年、63-64頁)。

村瀬氏や中澤氏が神学的に切り込んできたのに対して、榊原氏は聖書学から切り込んできました。このチャレンジに応えたのは、当時まだ筑波大学で講師を務められていた津村俊夫氏であり、その反論は同年の学会誌に同時に掲載されています。その批判は、手厳しいものでした。ひと言で、榊原氏の緒論は、「冷静な学問的検討」を求めながら、その実を欠いていると、実例を挙げながら全面的に論駁されました。

同シンポジウムではホーリネス教団の千代崎秀雄氏も席を占めていました。千代崎氏は、「……しかしいつまでもそのカラの中に閉じこもっていることを許されない時期に来ている」と榊原氏が批評学に耳を傾けたことを評価しています。しかし、榊原氏の論述が、五書の編集時期や編集者がどうであれ、仮に「本質的内容的なモーセの著者性を積極的に肯定される」ような論調であれば、JPCで論争がこれほどまで紛糾することはなかったのではないかと。批評学の成果以上に、その導入の仕方に注意すべきことを促しています。新しいものを導入するときの学者の姿勢は、いつも教会にあっては配慮されるべきと(72頁)。

私は当時の議論の詳細には無知なものであります。が、残された文書を読んでみますと、一歩踏み出そうとした榊原氏、それを阻んだ津村氏、そして批評学の成果に耳を開くべき時が来ている、しかしそれが学者の新説、学問的探求であるべきではなく、教会的態度でなされることを強調する千代崎氏、という三者の図式が見えるように思われます。

結果は、残念なことに、日本における聖書信仰の「拠点」であった神戸改革派神学校で教えていた榊原氏が、福音主義神学会から身を引いていきました。そして、様式史等の資料説にまでに話が発展しなくても、聖書各書が成立するまでの口伝伝承の存在や最終的に文章が成立するまでの信仰共同体の編集過程にいたるまで、批評学が取り扱うべき文書成立の「過程」の課題には、今後「首を突っ込まない」という方向性が福音派に定着してしまったように思います。

神が直接に各書の記者に霊感を与えたわけですから、与えられた啓示の「産物」を釈義し、その真理を把握することが福音的聖書学の目指すべきことだ、ということなのでしょう。こうして聖書が出来上がるまでの過程に目を留める批評学は閉め出されていきました。

三者が福音主義神学会から一線を引かれたことは、大きな損失であったと思っています。理由は二つです。

①課題の提起をした人物はいずれも福音主義の中心にいて、その信仰も働きも、だれもが一目置かざるを得ない優れた人物だったからです。しかも村瀬氏と榊原氏は福音主義神学会の呼びかけ人6人に名を連ねています。またそれぞれが戦後の福音派、特にその聖書論を形作るような教会・教団で中心的な役割を担っていました。特に榊原氏は日本改革派教会で大きな働きを担っておられました。

②疑問、異論を唱える人物が去って行ったことによって、福音派の聖書論はそれ以上の展開が許されなくなりました。激化した論争のあと、「シカゴ声明」に物言う論や批評学に着手することは難しく、論争後の聖書信仰は後ろ向きになったと言わざるを得ないでしょう。

求心力の低下――その原因?

『諸問題』は、最近の福音主義神学会の求心力の低下についての内田和彦氏の言葉を引用しています(24頁)。内田氏は、福音主義神学会の神学会の求心力の低下の理由として3つ挙げておられ、その一つが「ゆれ」、すなわち聖書信仰という神学的アイデンティティーが曖昧になってきていることがある、と『諸問題』の論者は記しています。

ここに記載されている文章の背後には、さらに奥の深いお考えがあるはずですから、この一箇所をとって、云々すべきではないでしょう。筆者もまた福音主義神学会の責任を担ったことがありますので、神学的なアイデンティティーを明確にしつつ、活発な発表や意見交換が求められる場であってほしいと心から願う者です。

しかし、聖書信仰や福音主義神学という小さくとも豊かな多様性を含んできた学究的・教会的交わりに、「シカゴ声明」を踏み絵にして聖書信仰を守るような姿勢があるとすれば、福音派の教会と福音主義神学に「閉塞感」を招くことになるのではないでしょうか。それは上記の歴史的な出来事を踏まえてのことです。

「無誤性に関するシカゴ声明」(1978年)を導き出したのは、ハロルド・リンゼルの『聖書のための戦い』(1976年)でした。彼の主張は保守勢力の結集につながりますが、逆に「保守VSリベラル」的な構図が、福音派の中に誕生しました。けれどもそれは保守とリベラルの壁ではないのです。そもそも「聖書信仰」を、17世紀プロテスタント正統主義~ウォーフィールド~シカゴ声明のラインで理解しているのか、それともそれ以外の型で(たとえば敬虔主義型・英国型)理解しているのか、という違いなのです。

「シカゴ声明」に偏って理解するとき、聖書信仰の求心力が低下していくことは明らかなのではないでしょうか。そうした反省の上に『諸問題』で取り上げられている『聖書の無誤性をめぐる5つの見解』のような書物が生み出され、それぞれを尊重しながら自分の考えを展開し、互いの理解を深める試みが重んじられるべきです。内田氏が述べている「聖書信仰という神学的確信を空洞化させないため」(『諸問題』、24頁)に、聖書信仰を否定するようなチャレンジに応え、逆にそれに挑んで乗り越えていくような柔軟さと力強さが求められていると思います。

痛恨の極み

私は拙著において、JPCを去って行かれた村瀬氏の言葉「遺憾の極み」という表現を引用しました。これに対して『諸問題』でご批判をいただきました。

「当事者の個人的評価としてそのまま受け取るものだろう。しかし、これが他所で引用されて、日本における聖書信仰の歴史を評価するかのごとくに用いられることがあるのは不適切だ。」(『諸問題』、31~32頁)。

私はこの御批判に妥当性があると認めつつも、論争で去って行ったのは一人ではなく、主要な三人であったことを踏まえると、やはり大きな損失であったと思います。

痛恨の極みは、筆者自身のものでもあります。つまり、ウォーフィールド型の聖書信仰を堅持している側が異なる見解を警戒しても、それは当然でしょう。しかし、そうではない、たとえば私のようなホーリネス系の人間が、一歩前に踏み出そうとする彼らを援護することはできなかったのだろうか。私自身が、2014年に福音主義神学会での発題依頼を受けるまで、この論争にほぼ無知であったことに愕然としています。

メソジスト系の福音派は、私の所属するインマヌエルを含めてJPCの中にいました。この系列は往々にして中田重治、あるいは英国のバックストンの影響を受けていました。伝道と信仰の建て上げに夢中で、学びに乏しく、論客に欠けていました。

さらに私にとって痛恨の極みは、ホーリネス系の教会の中で学的に常に兄貴分であったナザレン教団批判さえも見過ごしにしてしまったことです。当時の理事長であった喜田川信氏は、福音派に収まらない自由な学風をもっておられたことは事実です。しかし彼が1982年にジェームズ・バーの『ファンダメンタリズム』を翻訳した理由は、おそらく70年代の論争を知り、そこに一石を投じたいという思いがあったのでしょう。バーは、専門とする聖書学・正典論研究の他に、プリンストン神学、ファンダメンタリズムと、聖書信仰を取り巻く諸論や出来事に精通していて、この書物には耳を傾けるべき諸点が多くあります(拙著、204~09頁)。もっとも「あとがき」で、喜田川氏が福音派を指導する立場にある人物の名前を挙げて、ひとまとめに批判するような短い文章を書いたことが、バーの書物に対する厳しい反論の引き金を引き、結果、それが「悪魔の書」であるかのようにみなされてしまったことは残念です。

そもそもナザレン教会が抱いてきた聖書信仰の考え方は、ウォーフィールド型とは論法を異にしています。そしてそれは、ごく標準的な立場です。あらためてその一部を引用します(拙著、209~12頁、225頁注30)。ナザレンの藤井政男氏は、ウォーフィールド型無誤論の基本論法――1神は真理であって、神の言葉には誤りがない。2聖書は真理の神の言葉である。3したがって、聖書(神の言葉)には誤りがない――は、信仰告白、すなわち、「聖書に誤りがないと信じて、全面的にコミットし、それに従って生きるという態度の表明に他ならない」と述べます。無誤性という用語がこの意味で「信仰的」に用いられるなら、藤井氏もまたその通りに信じていると。

ところが、藤井氏は以下のことに問題を感じるのです。それは信仰告白的に成立している演繹論法が、近代になって実証的な証明を求める科学や歴史の問題に足を踏み入れ、その実証的世界でもまた無誤であると主張するようになったことです。

「聖書の著者達の生きた時代の自然理解や歴史理解と今日のそれとでは、理解のパラダイムというべきもの、つまり事物を捉える枠組みが異なっている。……となれば、古代の世界理解と現代のそれとの間に差異があるのは当然であり、この両者の世界理解の枠組みの相違を無視して、直接的に歴史的批判的研究方法に反対したり、一方的に無誤論を唱えたりすることはできない。従って、聖書に、今日的世界理解や思考方式をあてはめて、『誤りがある』、『誤りがない』と言っても、無意味なのである」。

ファンダメンタリズムが台頭してきた時代、聖書を近代主義の批判から守ろうとするあまり、逆に近代主義の領域に足を踏み入れてしまったというのです。そして、近代主義の土俵においても聖書は誤りがない、と断言してしまったことは、無誤論の信仰告白的性質からして不適切である、と彼は考えました。その上で、彼もまたクラレンス・バスがJPCで講演した「救済論から理解されるべき聖書信仰」を引用して、それが世界の福音派の一角をなしているナザレンが聖書について考えていることであり、その理解は福音主義からまったく外れていないことを主張しています。

筆者は、拙著の執筆当時に初めてナザレンの石田学氏からこの論文の存在を教えていただきました。米国においても日本においても、メソジストやホーリネス系は、ウォーフィールドを読んだことも学んだこともないと言っても過言でもありません。私自身も聖書観をプリンストン神学から学んでいません。だからといって、先に宇田氏が挙げたフリーメソジストのビーグルを、あるいは英国系の福音的聖書観を学んでいたのでしょうか?

いいえ。それらの文献にもおしなべて無頓着でした。リベラルに対する恐怖感・抵抗感は持っていたことは確かです。しかし、批評学の諸アプローチのこともまた、十分に理解していませんでした。神学校では現代神学を説く教師がほとんどいません。カール・バルトの啓示論の出発点も方向性も内実も論じる者はいません。

私たちは改革派と違って、聖書論そのものに疎い存在であったと思います。聖書論のきちんとした論文も書物も訳書もホーリネス系には残っていません。ですから、村瀬氏が「痛恨の極み」を味わわれたとしたら、それはシカゴ声明に忠実な当時の方々の批判の故ではなく、私たちがJPCにいながら、そして本来ウォーフィールド型とは異なる見地に立っていながら、異なるタイプの聖書信仰を明確に論じることをしなかった、できなかったからではないでしょうか。村瀬氏の主張すべてに同意しなくても、共通意見をたくさん持っている側から「味方」として手を差し伸ばすことも、「共感者」として意見を述べることもしなかった。私はこの自らのふがいなさを「痛恨の極み」として村瀬氏にお伝えしました。

 

『聖書信仰とその諸問題』から福音派の聖書信仰にはいつも「ゆらぎ」があったという指摘をいただくとしたら、逆に筆者が申し上げたいのは、そのゆらぎを止めようとするあまりに福音派には「ファンダメンタリズム的メンタリティー」もついてまわったということです。米国、そしてその影響を受けてきた日本の福音派でも同じです。

そもそも並列的に妥当な考え方であるにもかかわらず、片方を理解もせずに徹底して排除しようとする、あるいは自分の考えを検討しうる機会を与えるはずの異なる視点を早々に退ける傾向が福音派にはついてまわってきたように思います。もちろん、それは福音派だけの問題ではありません(参照、拙稿「排他主義という黒幕――神学的人間論の視点から」『原理主義』(JEA神学パンフレット、2006年)。教派神学にもそのような傾向がありました。教会史においては、教派を嫌う聖書主義においても、同じ傾向はありました。ですから、自分の立場や意見は譲らずに明確であったとしても、それと異なる存在、すなわち「ゆらぎ」を許容しておくべきです。そうしてはじめて主にある一致が生まれるという現実には、『諸問題』を執筆された方々も同意してくださると思います。

~続く

The Cross Pendant

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He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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