確かさという名の偶像(4)

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

(シリーズ過去記事 1 2 3)

グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第2章「感情のとりこ」を見ていきます。

ボイドは、彼自身が確実性追求型の信仰のあり方に対して疑問を持つきっかけとなったできごとについて語ります。それは本書が書かれる約20年前に起こりました。彼の知り合いの若い男性の脳にがんが拡がっているのが見つかり、医者からは手遅れだと言われました。彼の教会ではその男性のいやしのために祈祷会が持たれました。その時、ボイド自身も含め、その場にいたクリスチャンたちは、彼らがその男性のがんがいやされることを疑わずに信じるなら、実際にその通りになると考えていました。そこで彼らは聖書のことば(マタイ9章29節「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」)を告白し、「神の約束に立ち」、この若い男性のいやしを宣言しました。要するに、彼らはこれまで見てきたような確実性追求型の信仰に立っていたのです。

彼らが熱心にがんのいやしのために祈りはじめた時、ボイドは自分自身の心の中に起こっている葛藤に気がつきました。彼は、おそらくこの男性は死ぬだろうという至極道理にかなった考えと戦い、彼のがんはいやされることを何とかして自分自身に納得させようと必死に努力していたのです。すると突然、彼は映画「オズの魔法使い」の1シーンを思い浮かべたそうです。それは、臆病なライオンが目を固くつむって、必死になって「私は信じる、私は信じる、私は信じる信じる信じる!」と唱えている場面でした。

「オズの魔法使い」の臆病ライオン

その祈祷会の真剣な雰囲気とはまったくそぐわないこのコミカルなイメージが頭に浮かんできた時、ボイドはこのようなタイプの信仰のあり方はとても愚かに思えてきたと言います。多くのクリスチャンは、現実から目を背けて、あることがらが真理であることを自分自身に納得させようと必死に努力し、それを「信仰」と呼んでいるのではないでしょうか

ボイドはこのようなタイプの信仰のあり方はまったく理不尽なものであることに気づきました。彼は言います:

理性的な人間が、あることがらが真理であると確信する度合いは、その信念が誤りであるとする証拠と議論に対して、それを支持する側の証拠と議論がどれほど強力であるかに比例する。だがあることがらが真理であると自分自身に語りかけることによって、自分の確信の度合いを強めようと試みることは、理性的な人間のすることではない。(p. 34)

ボイドによると、このようなタイプの信仰は現実を無視したものであると言います。彼自身、もちろん神が祈りに応えられる方であることを信じていますが、「力ある祈り」ということは、現実的には不可能と思えるような結果が与えられることについて強固な確信を持つことを必ずしも意味するわけではない、と言います。

確かに聖書は信仰の重要性をくりかえし強調しています(たとえばヘブル11章6節)。しかし、ボイドはある人の信仰が強いということと、その人が特定のことがらについて強い確信を持つことができる能力は必ずしも関係がないと言います。そして、この後者の能力が高いからと言って、必ずしもクリスチャンとして徳が高いわけではないと論じます。生まれつき他の人々よりもものごとを「信じやすい」人々がいますが、そのことは必ずしも人格的高潔さの指標ではありません。場合によってはそのような人々は他人から騙されやすい、「おめでたい」人々と言えるかもしれません。ましてや人々のいやしや救いがそのような「信じる」心理的能力にかかっていると考えるのは道理に合わないことです。

そして、もし神がそのような「疑わずに信じる」能力にそれほど重きをおいているのなら、なぜ神は人間に批判的精神をお与えになったのでしょうか?たしかにクリスチャンは知的高慢には注意しなければなりませんし、幼子のように神に信頼することを求められています(マタイ18章3節)が、神はクリスチャンたちが幼子のように無批判にものごとを信じるように努めることを望んでおられるのでしょうか?ボイドは言います:

確実性を美徳とし、疑いを悪徳とする、このあまりにも広く行き渡っている信仰のモデルにとっては、批判的思考は最高の障害となるのである。(p. 36)

ボイドはこのようなタイプの信仰は理不尽なものであるだけでなく、非聖書的であると言います。なぜなら神は人間に理性を与え、それを行使することを望んでおられるからです。

「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。」(イザヤ1章18節)

「主は言われる、『あなたがたの訴えを出せ』と。ヤコブの王は言われる、『あなたがたの証拠を持ってこい。』」(イザヤ41章21節)

聖書全巻を通して、神は人間に知恵を追い求め、真理を追究し、ものごとを理性的に考えるように求めておられます(たとえば箴言8章参照)。復活後のイエスは弟子たちに現れ、「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」とあります(使徒1章3節)。また、信仰者は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22章37節)と命じられています。このように、聖書的な強い信仰を持つことと批判的な理性を行使することとは矛盾するものではないのです。信仰は「盲信」とは違います。

ボイドは2章でさらに確実性追求型信仰の問題点について論じていきますが、長くなりましたので続きは次回にします。

(続き)

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