イエスという道

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14章6節)

これはイエスが受難前に弟子たちに語られた有名な言葉です。イエスは多くの偉大な宗教家や哲学者のように「道を示す」とか「真理を教える」とか「いのちに導く」と言われたのではなく、御自身が真理であり道であり、いのちそのものだと宣言されました。これは非常に大胆な発言と言わなければなりません。今日はその中でも、「道」ということについて考えてみたいと思います。

イエス御自身が道であると聞いて、どのような「道」を思い浮かべるでしょうか? 私自身が初めてこの箇所に触れた時にイメージしたのは、天国に向かって真っすぐ伸びる、広くてなめらかな高速道路でした。

イエス・キリストの福音を信じた今や、自分は天国へのチケットが与えられている。あとはまっしぐらにこの道を飛ばしていけば、いつの日か天に召されて父なる神のもとに行くことができる――そんなふうに考えていたのです。

けれども、信仰生活が長くなるにつれて、ことはそう単純ではないことが、だんだんと分かってきました。

神学校に入った頃は、一生懸命聖書と神学を勉強すれば、神についての正しい知識を体系的に身につけることができ、何が正しくて何が間違っているのかをわきまえ、確信を持って自らも信仰生活を送り、他の人々も導くことができると思っていました。

しかし、博士課程に入った頃から、聖書を学べば学ぶほど聖書がわからなくなる体験をしました。博士論文では学界でまだコンセンサスのない問題を意識的に取り上げて研究していくことになるので、それはある意味当然です。けれども、そうやって学びを進めていくうちに、聖書にはまだまだわからないことがたくさんあるというだけでなく、それまで分かっていると思い込んでいた多くのことがらさえも、実はいろいろな議論があって解釈が定まっていないということが分かってきたのです。このことで私は混乱し、不安になりました。それまで確実と思っていた土台が揺るがされ、さまざまな疑いが頭をもたげてきたのです。神についての確実な知識を得ることは不可能なのではないか・・・それは信仰の危機でした。

結論から言うと、私は信仰を失わずに済みました。けれどもそれは、ひたすら学びを続けた結果、すべての疑問が氷解したからではありません。そうではなく、信仰とは神学的知識とイコールではないことが分かった、ということです。聖書のすべてが分からなくても、いろいろな未解決の問いや疑いを抱えたままでも、そのような不確実な状況にありながら神に信頼する、それこそが信仰だと考えるようになったのです。これは私にとって大きな信仰の転換点でした。さらに、その後の信仰生活の中で、同じような葛藤を抱えている人々が他にも大勢いることに気づきました。

いま私は神学校で聖書学を講義しています。神学校に入学してくる学生の多くは、かつての私のように、神学校で勉強すれば聖書のことが(ほとんど)すべて理解できるようになる、という期待をもってやってきます。けれども学びを進めていくうちに、彼らは多くの新しい知識を吸収すると同時に(それは確かに心躍る体験です!)、多様な神学的伝統に触れ、激しい議論が展開されている難解な諸問題の存在を知り、それまで持っていた固定観念や先入観が崩され、自分の神学体系や信仰の確信が揺るがされる体験をします。その結果何を信じていいのかわからない不安にかられる学生もいます。

実は、このようなの体験は珍しいことではありません。米国の雑誌『クリスチャニティ・トゥデイ』は「福音派大学で信仰を失う」という、ショッキングなタイトルの記事でこの現象について伝えています。しかし、記事にも書かれているように、このような「危機」は信仰の成熟に欠かすことのできない貴重な体験なのだと思います。

不確実性の中に生きているのは学生だけではありません。教師(や牧師)にとって、最も口にするのが難しいのは「分かりません」ということばかもしれません。教える立場にある者が無知や不勉強を認めることは勇気のいることであり、ついもっともらしい「正解」でその場を取り繕いたい誘惑に駆られます。しかし、自らの限界を認め、すべてを理解できない状況の中で神に信頼する姿勢を示すことこそ、教師として最も大切な務めではないかと思います。

最初に紹介した聖句に戻ると、イエスは御自身だけが父に通じる道であると言われました。けれども主は、それは見つけやすい道だとか、歩きやすい道であるとはひとことも言っておられません。それどころか、別の箇所ではこうも言われています。

「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」(マタイ7章13-14節)

「命にいたる道」とは、ヨハネ福音書で言えば神へ通じるイエスという道と言い換えることができるでしょうが、それは狭く細い道だというのです。もしかしたらそれは、森の中の薄暗い小道のように、先を見通すこともできない、曲がりくねったでこぼこだらけの道なのかもしれません

この道を行く者は多くの困難を通ります。本当にこの道であっているのか、不安になることもあるかもしれません。けれども、この道を歩き続ければ、必ずいのちに至るという信仰――それは確実な知識ではなく、招いてくださるお方への信頼に基づくものです――を持って歩み続けることが大切ではないかと思います。

そして、私たちは一人でその道を行くわけではありません。道端にはかつて同じ道を通った多くの先人が立ててくれた道しるべがあります。そして何より感謝なことに、その道を共に歩く信仰の同行者が私たちには与えられているのです。イエスという道は、単に「父」という目的地に至るための「手段」ではありません。信仰の仲間と共にその道を歩む「旅」それ自体が、私たちのいのちであり、祝福なのかもしれません。

今週の「灰の水曜日」からレントが始まります。イエスはまさに十字架を通して、狭い門から入り、狭い道を通って命に至る道を歩んでくださいました。今年のレントでは、主の受難を覚える中で、イエスという道を歩むことの意味を考えてみたいと思っています。

それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16章24節)

 

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