N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版⑦

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

過去記事 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥

前回はライトの5幕劇のアナロジーを再び取り上げ、聖書のグランドナラティヴの展開の中で、現代に生きる神の民としてふさわしいパフォーマンスをアドリブで行うべきだと述べました。これこそ、現代のキリスト教会が聖書の権威にしたがって生きるということです。ここまでは私はライトに完全に同意します。

けれども私は、一夫一婦制だけが許されるべき結婚のあり方であるというライトの考えには同意しません。同じような聖書解釈を行っているようなのに、なぜ意見が異なるのでしょうか?

そもそも、現代の教会が行う「アドリブ」が良いものであるのかどうかは、どうやって判断するのでしょうか? 即興演技が良いものになるための条件をライトは『聖書と神の権威』176頁以下で列挙していますが、その筆頭に挙げられているのが、「完全に文脈に沿った聖書の読み方」です。そこでライトは、「聖書のすべては『文化的に条件づけられた』もの」であることを指摘し(177頁)、同時に私たち自身が生きている現代の文化的文脈にも注意を払うべきであると述べています(178頁)。

この2点に関して、私も同意見です。これまで述べてきたように、聖書のメッセージのすべてはそれぞれのテクストが書かれた時代の文化に完全に埋め込まれています。同時に忘れてはならないのは、それを解釈する私たち自身も、現代の文化的文脈から自由ではないということです。歴史や文化から完全に自由にされた、客観的な「神のような視点」から聖書を読むことは誰にもできないのです。

にもかかわらず私がライトと異なる結論に至った理由は、聖書が書かれた時代の文化と現代の文化のそれぞれに対する評価の違いがあるからです。まず、ライトが普遍的な原則と見なしている、旧新約聖書に表現されているバイナリー的・異性愛主義的な性の理解を、私は文化相対的なものと考えるところが違います。これについてはすでに述べたので、ここでは繰り返しません(過去記事③を参照)。今回はもう一つの重要なポイントである、現代の文化の中で聖書をどう読むか、という問題について考えたいと思います。

ライトが現代の文化について論じている箇所をもう少し詳しく引用します。

しかし、私たちが理解しなければならないのは、単に聖書の文脈だけではありません。多くの人が指摘しているように、私たちが自分自身の文脈と、それがどのように私たちに影響し、聖書の中のある事柄をハイライトし、他の事柄をこっそりと無視するようにさせるかを理解し、評価することも、同じくらい重要です。(178頁)

ここから分かることは、ライトは現代文化が私たちの聖書解釈に与える影響を基本的には否定的なものとして捉えているということです。私たちのものの見方は現代の文化によって必然的に歪められているので、聖書のメッセージを正確に受け取ることはできない、ということなのでしょう。つまりここには、聖書の「本来のメッセージ」がただ一つ存在するだけでなく、何らかの方法でそれを知ることが可能であるということが前提とされているようです。本来のメッセージが何であるかを知らなければ、それを現代文化がどのように「歪めている」かも分からないはずだからです。

しかし、そのようなことが果たして可能なのでしょうか?

もし聖書テクスト自体も文化的に順応され、それを解釈する現代の読者も自らの文化に拘束されているとするならば、聖書のメッセージを純粋に、神ご自身が見ておられるように100%正確に理解することは原理的に不可能ということになります。なぜなら、聖書から普遍的なメッセージを抽出しようとする私たちの努力そのものが、必然的に自分たちの文化の制限を受けているからです。

これはたいへん悲観的な結論に思えるかもしれません。つまり具体的な歴史的現実に生きる私たち人間には、どうあがいても聖書を完全に正確に理解することはできない、ということだからです。けれども、私はこのことを必ずしも否定的にばかり捉える必要はないと思います。

聖書の様々なテクストが書き記された時に、神がそれぞれの時代の文化に順応して聖書を与えられたということは、神が具体的な歴史的現実に生きる生身の人々に愛をもって寄り添ってくださったことの現れであると思います。最初に聖書を書き記し読んだ人々の神理解は、それぞれの時代に特有の制約の中にありました。それは今日から見ると間違っていると思えるような認識も含んでいますし、そもそも当時の人々は自分たちの理解が相対的なものであると意識すらしていなかったと思われます。けれどもそれは、歴史的・文化的制約の中にしか生きられない人間に対する、神からの最も効果的なコミュニケーションでした。それは「完全な」コミュニケーションではなかったかもしれませんが、神の愛と知恵に満ちた「最善の」コミュニケーションだったのです。

そうであるならば、神は現代に生きる私たちにも同じように順応し、愛をもって寄り添って語りかけ、聖書を解釈するように導いておられるということは、十分信頼できる考えだと思います。私たちの聖書理解は決して完全なものにはなりえませんが、それでも現代の文化的コンテクストの中で最善の努力を尽くして聖書を現代にふさわしく理解し、それにしたがって行動すべきです。それこそが、ライトの言う、神のドラマの中で私たちが置かれている場面にふさわしい演技をアドリブで行っていくことなのです。

さて、このように考えてくると、私たちの聖書解釈が現代の文化的コンテクストに必然的に影響を受けるということには、肯定的な面も多々あることが見えてきます。たとえば、私たちは聖書が書かれた当時の人々が知り得なかったような、様々な学問研究の恩恵を受けています。考古学や古代文献学等の発展によって、聖書が書かれた当時の文化的背景が明らかになり、それに照らしてより正確に聖書テクストを釈義できるようになりました。また科学の発展によって、この世界や人間存在(たとえばセクシュアリティ)に対する理解も深まりました。また一般に人権意識が高まり、すべての人の平等を多くの人々が尊重するようになってきています(それが具体的に実現できているかはまた別問題ですが)。私たちはそのような現代ならではの情報や価値観に助けられて、より現代にふさわしい聖書解釈ができるようになったと言えるのではないでしょうか。

以上述べた内容に照らして、私はライトによる一夫一婦制の議論は、新約聖書の文化相対的な性理解を実際以上に普遍的に捉え、逆に現代のジェンダー/セクシュアリティの理解や人権概念を軽視しすぎていると考えます。

これは決して、「聖書の真理を妥協してこの世の価値観に引きずられている」ということではありません。そもそも、聖書自体が各時代の一般的価値観に寄り添うように書かれているのです。もちろん、聖書は同時代の価値観に対する批判を投げかけることもあります。しかし、だからと言って、同時代の文化のすべてを罪深く神に反対するものと考えるべきではありません。神はそのような文化を常に用いてきましたし、時には文化を通して神の民を教えることすらあると思います。

私たちは現代の文化に順応した形でしか神の言葉を受け取ることしかできませんし、またそのようにして理解したメッセージを同時代の人々に伝えるに際しても、現代文化の中でしかそうできないのです。それが100%神の意図を反映したものではないかもしれませんが(それは不可能です)、私たちに与えられた時代的制約の中で最善を尽くしていくしか道はありません。そしてそれは、神が選ばれた最も有効なコミュニケーションの方法なのだと思います。繰り返しますが、順応とは神の愛と知恵の表現なのです。

19  わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。20  ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。21  律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。22  弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。23  福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。
(1コリント9:19-23)

ここに書かれているパウロの言葉は、ただ単に彼の宣教のアプローチを表しているだけでなく、神ご自身がどのように人間と関わるかについても、深い示唆を与えていると思います。

ちなみに、ここで述べたことに関連して、南野浩則先生の『聖書を解釈するということ』(いのちのことば社)、特にその第5章「読者について―読者のコンテクストが解釈に影響する」を一読することをおすすめします。これは日本の福音派ではおそらく初めて、聖書解釈における読者とその文化的コンテクストの役割を積極的に評価した本ではないかと思います。

(続く)

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