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- 御国を来たらせたまえ(補)
(本シリーズの過去記事 1 2 3 4 5 6 7 8 9)本シリーズは一応前回で終了のつもりだったのですが、はちこさんこと中村佐知さんのブログ「ミルトスの木かげで」上でとても重要なご質問をいただきました。これは本シリーズでこれまで述べてきたこと全体の理解に関わる問題ですので、それに応答する形で補足記事を書きたいと思います。詳しい質問の内容はリンク先のブログ記事を見ていただくとして、このご質問の核心は、「世の終わりに神(と神の民)が『支配する』とはどういう意味なのか?」ということだと思います。このシリーズでも繰り返し、「神の国basileia」とは神の王としての支配であり、「御国が来る」とは神が天のみならず地においても王となられて支配されることだと書いてきました。けれども、「支配」というと何
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- 『焚き火を囲んで聴く神の物語・対話篇』書評
以前紹介した本ですが、私も執筆者の一人に加えていただいた『焚き火を囲んで聴く神の物語・対話篇』の書評が『本のひろば』9月号に掲載されました。評者はこのブログでもおなじみの藤本満先生です。藤本先生は本書の魅力を的確に、分かりやすく紹介してくださっていますが、特に強調しておられるのが、本書はいわゆる対談集ではない、ということです:本書は、主著者(大頭)との刺激的なキリスト教テーマをめぐっての「対談」ではない。つまり二者が相対して座し、持論を展開し、互いに腹をさぐりながら、何かの結論を引き出そうという試みではない。ましてや、昔のヘーゲルの弁証法、命題、反対命題、統合、というような目的はない。それぞれは「焚き火を囲む」感覚を大切にしている。(10頁、強調は山崎ランサム)互いに向かい合って相手を説得し
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- N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版①
この度、新しい翻訳書を出版しました。N・T・ライト著『聖書と神の権威』(あめんどう)です。 英国の新約聖書学者N・T・ライトについては、本ブログでも度々取り上げてきましたので、改めて紹介する必要はないでしょう。私がライトの著書を翻訳させていただいたのは、『シンプリー・グッドニュース』に続いて2冊目となります。先月末に発売されて以来、公私ともに多忙が続き、ブログでの紹介が遅くなってしまいましたが、本書の簡単な内容紹介と、本書についての個人的な思いを綴っていきたいと思います。副題の「聖書はどのような意味で『神の言葉』であるのか」は、本書の内容を要約しています。私が属する福音派と呼ばれるグループは特にそうですが、広い意味で言えばキリスト教会全体は聖書を何らかの意味で権威ある「神の言葉」ととらえてお
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- ピーター・エンズ著『聖書は実際どう働くか』(2)
(その1)随分間が空いてしまいましたが、ピーター・エンズの最新刊、『聖書は実際どう働くか』についての紹介記事の続きをアップします。前回、聖書は解答を与えるのではなく知恵を与えるというエンズの主張を見ました。今回は、聖書の中に見られる知恵の表れの一つについて見ていきます。それは、より新しい時代のテクストが古い伝統を新しい状況の下で再解釈する現象です。新約記者が旧約聖書を解釈するとき、場合によってはかなりラディカルな再解釈を施すことは良く知られています(詳しくは使徒的解釈学に関する過去記事のシリーズを参照)。けれども、この現象は新約と旧約の間にだけ起こることではなく、実は新約の中でも旧約の中でも起こっています。たとえば、マタイ福音書の有名な山上の説教の中で、イエスは離婚についてこう教えています。
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- 創造という愛の狂気
最近、シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil:フランス語では「ヴェイ」と発音するらしい)の生涯と思想に心を惹かれて、折に触れてその著作を少しずつ味読しています。彼女は第二次世界大戦中に34歳の若さで亡くなったユダヤ系フランス人で、哲学者・政治活動家・神秘主義者でした。生前に出版した著作は多くはなく、無名に等しい存在でしたが、死後彼女の遺稿が次々と編集・出版され、多くの人々に影響を与えてきました。シモーヌ・ヴェイユ(1909 – 1943)ヴェイユをクリスチャンと呼ぶことには異論があると思います。彼女は晩年はキリスト教に接近し、聖書に親しみ、主の祈りをギリシア語で好んで暗唱し、カトリックの神父と親交を持ったりしていましたが、組織としての教会に加わることを拒み続け、ついに洗礼を受けるには至り
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- 神学的人間論と同性愛・同性婚(藤本満師ゲスト投稿5)
(その1 その2 その3 その4)藤本満先生のゲスト連載、その5回目をお送りします。今回の連載はこれで最終回になりますが、貴重な問題提起を行ってくださった藤本先生に心から感謝します。* * *5.神学的人間論と同性愛・同性婚かつて「聖書信仰」の問題を取り上げたとき、私は福音派の聖書理解が停滞し、神学的にも膠着状態にあることを意識していました。批評学だけでなく、言語学や解釈学に応える「聖書信仰」とはどのようなものなのか? 理性の絶対性への疑いが明らかになった時代にあって、福音派の聖書理解は新しい可能性がどのように展開しているのか、目を上げて見渡してみよう、と。探っていくうちに、私自身、神学的に、信仰的に整理が与えられ、また前進する挑戦をいただきました。しかし、ある方々には、その
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- 釈義連載はじめました
なんだか「冷やし中華はじめました」みたいなタイトルで恐縮ですが、『福音と世界』誌上でルカ福音書の釈義を連載することになりました。第1回はつい最近発売された、2022年1月号です。『福音と世界』の新約釈義は過去には荒井献先生(使徒言行録)や青野太潮先生(1コリント書)といった、日本の新約聖書学を代表する学者の方々が執筆しておられたので、このお話を最初に頂いた時には、驚き、信じられませんでした。「なぜ私?」「私でいいのだろうか?」というのが正直な思いでした。自分にはとても無理だと思いましたが、新教出版社の小林社長の熱意に押されて、拙くてもとにかく全力を尽くしてみようと思い、お引き受けしました。月刊誌の連載ですので、毎月必ず巡ってくる締切までに、一定の量の原稿を書いて出版社に送らなければなりません
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- 御国を来たらせたまえ(9)
(本シリーズの過去記事 1 2 3 4 5 6 7 8)神の国についてとりとめもなく書いてきたこのシリーズですが、今回でとりあえず最後にしたいと思います。最後に取り上げるのはヨハネの黙示録です。「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。」という主の祈りの一節に表されているような終末的希望、つまり神の王としての支配が天においてだけでなく、地においても実現するようにというビジョンは、ヨハネ黙示録の中心的なテーマと言っていいと思います。黙示録の描き出す神学的世界は、「天と地」という空間的座標軸と、「今の世と来るべき世」という時間的座標軸によってとらえることができます。「天」は神の御座のあるところであり、そこでは神の栄光が充ち満ちていて、神の支配が完全に行き渡っているとこ
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- 確かさという名の偶像(3)
(その1 その2)グレッグ・ボイドの著書Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介記事、今回は第1章「苦痛を受け入れる」を見ていきます。ボイドはクリスチャンになってすぐの時期に通っていた教会で見られたタイプの信仰について語りますが、それは彼の経験によると大多数のクリスチャンにも見られるものだと言います。それは前回も見たような「確実性追求型の信仰」、すなわち、「信仰の強さは心理的な確信の強さに比例する」という考えです。このタイプの理解にとって、疑いは信仰の敵と見なされます。本書でボイドはこのタイプの信仰は聖書的なものでなく、かえってクリスチャンの信仰と教会の働きを疎外するものであることを論じていきます。このタイプの信仰は、「人は救われるためには、ある一定レベル以上の確信
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- 平和の君(2)
(その1)14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。(エペソ2章14-17節)前回はエペソ書におけるパウロの議論から、王なるキリストが教会と世界に平和をもたらす方であることを見ました。ところで、この箇所でパウロは、キリストはこの平和の福音を
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(4)
釈義の方法論としての歴史的・文法的方法の妥当性を測る一つの方法は、それを聖書自体に記録されている聖書解釈の実例と比較することです。そこで今回は、新約聖書の中で旧約聖書がどのように解釈されているかについて見ていくことにしましょう。新約聖書の中にはおびただしい数の旧約聖書への言及があります。それははっきりとした引用の形をとることもあれば(たとえばルカ3章4節「預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおり」やマタイ4章4節「~と書いてある」)、旧約聖句の引用であることを明示しないで言及する(「引喩allusion」と言います)こともあり、さらに微細な「こだまecho」の形を取ることもあります。議論を簡単にするために、 ここでははっきりそれと分かる形で旧約聖句が引用されているケースに限って話を進めるこ
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- 黙示録における「福音」(1)
今回からは、ヨハネの黙示録について何回かにわたって書いていきたいと思います。今年の1月から5月にかけて、名古屋西地区牧師会にお招きをいただいて、「現代に語りかける黙示録」と題して、3回にわたって黙示録についての講演をさせていただいたことがあります。そのうちの最初の2回の内容をまとめたものを、福音主義神学会中部部会の会報第14号に掲載していただくことができました(こちらから閲覧することができます)。そこでは、黙示録の現代的意義、また黙示録における教会という主題について書かせていただきました。このブログでは、中部部会会報に掲載できなかった、第3回目の講義の内容を紹介していきたいと思います。中心的な主題は、「黙示録における『福音』」です。ところで、「黙示録における『福音』」というタイトルを見て、ど
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- 「あなたの信仰があなたを救った」(1)
もう一ヶ月以上前のことになってしまいましたが、6月13日(月)に福音主義神学会東部部会の春期研究会で発表をさせていただきました。研究会の全体テーマは「聖書が教える『信仰』(I)」で、その中で私と東部部会理事長の大坂太郎先生(ベテルキリスト教会牧師)の二人が講演をしました。大坂先生は「なぜ『彼』は引き合いに出されたのか?―パウロによる『アブラハムの信仰』再考―」と題して興味深い発題をしてくださいました。当日の二つの講演の要旨はクリスチャン新聞2016年7月3日号に掲載されましたが、このブログではその内容を一般向けに書き直して掲載したいと思います。私の講演のタイトルは「救いを与える『信仰』~ルカ福音書における『信仰』についての一考察~」で、ルカの福音書、特にその中に特徴的に現れる、「あなたの信仰
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- 聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その2)
藤本満先生によるゲスト投稿の第2回です。第1回目の投稿はこちらです。『聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)聖書信仰(2)ギャップに架けられた橋2――聖霊前回、聖書信仰が向き合うべき二つの命題(①聖書が永遠なる神の普遍的言葉である、②それが特定の古代の言語によって記され、歴史的文化的に規定されている)の緊張関係について記しました。二つの現実の緊張関係・ギャップに架ける一つの橋は批評学です。そして、もう一つの橋があります。福音主義は本来こちらの橋を頻繁に用いてきました。しかし、この橋の使用にたけてはいるはずが、いわゆる聖書の「無誤性」を強く主張する保守的な福音主義においては、第二の橋は、かなり制限されてきました。その第二の架け橋とは、聖霊です。17世紀のプロテスタント正統主義、それを
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- 悪魔の解釈学(3)
さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってきた。 するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。(ルカ福音書 15章1-2 節)(その1 その2)ヘヴィーメタル(あるいは大衆文化一般)における悪魔のイメージをどう解釈するかについて、これまでいくつかのポイントについて考察してきました。最後にもう一つの重要なポイントについて触れたいと思います。「神がデスヴォイスで歌うとき」の第5回でも少し触れましたが、1982年にイギリスのヘヴィーメタルバンド、Iron MaidenがアルバムThe Number of the Beast(邦題は「魔力の刻印」――これに限らず海外ポピュラー音楽の楽曲の邦題は不正確な訳が多いので
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(9)
(このシリーズの先頭はこちら)前回の結論は、歴史的・文法的方法に必ずしもとらわれない使徒たちの聖書解釈法に、現代の私たちも倣うことができるはずだ、ということでした。このように釈義の概念を拡張することによって得られる一つの利点として、学問的聖書解釈とディヴォーション的聖書解釈の間の乖離が解消(あるいは緩和)される可能性があります。2000年の夏、念願の米国留学が実現し、期待と不安に胸を膨らませながら、私は神学校の最初のチャペルに出席しました。そのチャペルで説教壇に立った教授が、大体次のような内容のことを私たち学生に話されました。聖書には二種類の読み方がある。一つはディヴォーション的読み方で、もう一つは学問的読み方である。皆さんはこれから神学校で聖書を学問的に、体系的に学んでいくことになる。それ
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- ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(7)
(その1 その2 その3 その4 その5 その6)これまで、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』に基づいて、聖書的な信仰のあり方について探求してきました。著者のエンズによると、聖書が証しする信仰とは、神についての正しい思考にこだわるものではなく、不確実性の中でも神に信頼するということでした。なぜこのことが大切なのでしょうか?それは、私たちの神についての確信が揺るがされるようなできごとが人生にはしばしば起こるからです。エンズはそのようなできごとを否定したり避けたりしようとするのではなく、むしろそれらが語りかける内容に耳を傾けることをすすめます。エンズは第6章で、2013年の夏に自身が運営するブログ上で行なったアンケート調査について書いています。彼はブログの読者に次のような
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- 関野祐二先生講演会「『福音』とは何か」
昨日5月11日(月)、日本福音主義神学会中部部会の春の公開講演会が金山キリスト教会を会場に開かれました。毎年中部部会の春の講演会は、中部以外の地区の先生を講師としてお招きしていますが、今年は関野祐二先生(聖契神学校校長)をお招きして、「『福音』とは何か」というテーマでお話しをいただきました。 関野先生は昨年11月に関西聖書学院で行われた福音主義神学会の全国研究会議でも、教理部門の主題講演を担当されました。こちらのサイトにその時のレジメと講演動画(部分)がアップされています。その講演内容を元に、『福音主義神学』45号に「震災後の日本における福音主義神学の教理的課題」という論文を発表しておられます。これらの講演及び論文では、現代福音主義神学の多様な課題を概観する内容になっていましたが、今回の中部
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- Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(3)
(その1 その2)アメリカ・ミシシッピ州クラークスデール。ハイウェイ61号線と49号線の交わる十字路に、一人の男が立っていた。時刻は真夜中を回ろうとしていた。男は手に使い古したギターを持ち、何かを、あるいは誰かを待っていた。男の名はロバート・ジョンソン。彼は悪魔と契約を結ぶためにそこに立っていた。おのれの魂を売り渡し、それと引きかえに、ほかの誰にもまねのできないギターの演奏技術を手に入れるために――20世紀のポピュラー音楽史に名を残すブルース・マン、ロバート・ジョンソンをめぐるこの「クロスロード伝説」はあまりにも有名ですが、そこには数々の曖昧さが残されています。まず、この逸話の主人公はロバート・ジョンソンではなく、もともとはトミー・ジョンソンという別のブルース・マンの話として語り継がれていた
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- イエスという道
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」(ヨハネ14章6節)これはイエスが受難前に弟子たちに語られた有名な言葉です。イエスは多くの偉大な宗教家や哲学者のように「道を示す」とか「真理を教える」とか「いのちに導く」と言われたのではなく、御自身が真理であり道であり、いのちそのものだと宣言されました。これは非常に大胆な発言と言わなければなりません。今日はその中でも、「道」ということについて考えてみたいと思います。イエス御自身が道であると聞いて、どのような「道」を思い浮かべるでしょうか? 私自身が初めてこの箇所に触れた時にイメージしたのは、天国に向かって真っすぐ伸びる、広くてなめらかな高速道路でした。イエス・キリス
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- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
