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- 聖書のグランドナラティヴ再考(1)
聖書を真理の命題を集めた百科事典や道徳の教科書のように読むのではなく、一つの首尾一貫した物語として読むというアプローチは、最近日本でも注目されるようになってきました。私もこのテーマについて書かれた、ヴォーン・ロバーツ著『神の大いなる物語』(いのちのことば社)を翻訳させていただきました(過去記事)。旧新約聖書全巻を貫く「大きな物語」はグランドストーリーgrand storyとか、グランドナラティヴgrand narrativeあるいはメタナラティヴmetanarrativeと呼ばれますが、この記事では「グランドナラティヴ」を用いたいと思います。グランドナラティヴとは、聖書の個々の書巻や細かいエピソードを理解するための背景となる、すべてを包括する大きな物語のことです。物語(ナラティヴ)には、きま
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- ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(6)
(その1 その2 その3 その4 その5)『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の5章で、ピーター・エンズは聖書が証しする信仰の本質とは何かについて論じます。エンズは決して、神について知ることや、神について正しい理解を持つことを否定してはいません。けれども、彼は正しい思考をすることに固執しすぎる態度について警告します。なぜなら、聖書において「信じる」という行為の焦点は、人が「何を」信じるかということではなく、「誰を」信頼するかにあるからです。もちろん、誰かを信頼しようとするなら、その相手に対して一定の知識を持つことは不可欠です。その意味で、この二つは切り離すことはできません。しかし、エンズは聖書においてはあくまでも前者が中心であると主張します。信仰とは本質的には人格的・関
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- 十字架に啓示された神の性質(グレッグ・ボイド)
グレッグ・ボイド師による最近のブログ記事の中で、とても参考になるものがありましたので、ReKnewの許可を得て翻訳・転載します(元記事はこちら)。これは少し前に連載したボイド師のインタビュー(特に第4回と第5回)に対する良い補足となると思います。哲学や神学のやや専門的な内容に関心のない方は、最後にいくつか挙げられている質問の部分だけでもお読みになることをお薦めします。* * *古典的神論の仮定への異議申し立て神の性質についての古典的見解として知られるようになった立場は、大多数の人々が神について考える際の一般的・伝統的な方法を形作ってきました。それはヘレニズム哲学の主要な見解からほとんど無意識的に借用されたロジックに基づいています。古代イスラエル人の神概念が、歴史におけるダイナ
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- N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版(完)
過去記事 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧前回は、聖書のグランドナラティヴが示す軌跡trajectoryを考え、その中で現代の教会がどのようにして「次の一歩」を踏み出すべきかを考える必要について述べました。そのためには、旧新約聖書のテクストがそれぞれの時代の文化に順応して書かれていることに注意して読んでいく必要があります。この点で、私は浅野淳博先生の次の言葉に完全に同意します。私たちは――キリスト者であろうとなかろうと――キリスト教会が人権意識と越境性においていつも時代に先んじて、その感性をたえずアップデートしているかを、キリスト教の真価を問う計りとすべきだろう。キリスト教はその聖典である古代テクストから信仰の営みの指針を抽出しつつも、その聖典の表面に現れる古代の価値観を批判的に検証する責任を
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- 「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その2)
関野祐二先生による、「『福音』とは何か」ゲスト投稿、第2回をお送りします。(その1はこちら) 「『福音』とは何か」というテーマ、次は「福音と被造物統治/管理」のお話をしましょう。ここには、終末論、職業観、罪の影響、文化命令、自然観、救済論と贖罪の意味合いなど、多くの要素が複雑に絡み合っています。筆者が新生した大学生の頃、あちこち参加したバイブルキャンプの分科会三大テーマはご他聞にもれず、働く意味と職業選択、人生の意味と目的、そして恋愛と結婚でした。最初に挙げた職業観ですが、多少の誇張と単純化を許していただくなら、「会社には伝道に行くのだ」という考え方が主流だったと記憶しています。この世の仕事には「神の栄光を現す」という意義はあってもそれ以上の聖書的意味付けをせず、むしろ職場という、教職者では
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(10)
(このシリーズの先頭はこちら)前回は、聖書の学問的な読み方とディヴォーション的な読み方を統合していく読み方を模索すべきではないか、というところまでお話ししました。新約時代の使徒たちは、現代の福音派のように釈義(聖書が意味したこと)と適用(聖書が意味すること)を必ずしも明確に区別してはおらず、もっと直接的に自分たちに語られる神のことばとして読んでいました。そして、現代の私たちもそのような読み方に倣うことができるのではないか(あるいはすでにそうしている人々が多い)、ということでした。この主張に対して、そのような聖書の読み方は、ありとあらゆる主観的で恣意的な解釈を許容し、解釈学的無政府状態をもたらすのではないか、と危惧する声が聞こえてきそうです。しかし、必ずしもそうではありません。使徒たちの聖書解
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- オープン神論とは何か(5)
(シリーズ過去記事 1 2 3 4)前回までの記事で、オープン神論の概要を説明してきました。今回からは、クリスチャンの実際の信仰生活において、オープン神論がもつ意義について、いくつかのトピックに従って見ていきたいと思います。今回は祈りについてです。 請願の祈り祈りにはいろいろな種類があります。神を賛美する祈りや、その臨在の中に憩い、御声に耳を傾けるような祈りがあり、また罪を告白する祈りもあります。それらはどれも大切な祈りです。けれどもこの記事で特に取り上げるのは「請願の祈りpetitionary prayer」と呼ばれる種類の祈りです。と言っても、何か特殊な祈りについて語っているわけではありません。これは神に対して願い事を申し上げ、何ごとかをしてくださるように求める祈りのことです。クリスチャ
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- MINAMATAの物語
生きているうちにいつかは読みたい本、というものがあります。歳を取るにつれ、自分に与えられた残り時間が短くなるのに反比例して、読みたい書物のリストは長くなるばかりで、全部を読むことはとても無理だと無力感に襲われることがありますが、せめてその中でも優先順位をつけて、自分にとって重要と思える本から読んでいきたいと思っています。そんな個人的な「人生の必読書リスト」に長い間載っている本の一つに、石牟礼道子さんの『苦海浄土』があります。水俣病を主題にした三部作は、心のどこかでいつも気にかかっており、いつか読みたいと思いつつ、同時にその長大さとテーマのあまりの重さに気後れし、手にとって読むまでには至りませんでした。それは水俣病そのものに対する私の態度とも通じるものがあるのかもしれません。水俣病についての私
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- 『聖書信仰とその諸問題』への応答5(藤本満師)
(その1 その2 その3 その4)藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第5回目です。* * *5 伝承と聖書の関係――語られ、聞かれた「言葉」の意義5回目と6回目は、言葉は、「書かれる・読まれる」以前に、まず「話される・聞かれる」という常識論(私としては)を記してみます。筆者は、この2回も、『その諸問題』への直接的応答を念頭においていません。しかし、逐語霊感説(言語霊感説)の陥りやすい問題に言及しようとする試みです。「神の言葉はまず語られ、聞かれた言葉である」と言うとき、もちろん、書き下された言葉(聖書)に神の霊感が直接に及んでいることを否定することでも、その真実性を減じることでもありません。しかし、言語霊感と言いつつ、あまりにも霊感を「書かれた言葉に限定して」聖書信仰を理解
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- ルカ文書の執筆年代
昨年秋から、クリスマス前後の休みを挟んで8週間にわたって開講されたeラーニング「ルカが語る福音の物語」の講座が先日無事終了しました。40人ほどの方々が受講してくださいました。オンラインのディスカッションを通して、私自身ルカ文書についての理解を整理できたり、新たな気づきを与えられたりして、とても有意義な時を過ごすことができました。あらためてGrace-onlineと関係者の皆様にはお礼を申し上げます。講座の中で配布した資料の中から、ルカ文書の執筆年代について書いたものを、多少修正の上ここに掲載します。* * *聖書の各書巻の執筆年代については、正確な数字をピンポイントで確定できず、人によって意見に幅のあることが多いです。注解書などに書かれている年代はあくまでも学者による推定(e
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- [リソース紹介] The Bible Project 日本語版
以前の記事で、The Bible Projectの紹介をしましたが、いよいよ日本語版がスタートしました。日本語版のタイトルは「ザ・聖書プロジェクト – Japanese」で、第一弾はマタイの福音書の前半(1-13章)を概観するものです。これはバイブルプロジェクトでよくあるタイプのプレゼンテーションで、一つの書巻(あるいはもっと大きなセクション)を一枚のチャートで概観できるようにするものです。今回はもちろんマタイ福音書の前半までしか完成していませんが、一つの書巻を一枚の絵にまとめることによって、その書の構造やテーマを視覚的にとらえることができるので、たいへん分かりやすいです。このような全体像を頭に入れて読むことによって、細かい箇所の理解も深まっていきます。ちなみに、英語版では聖書の
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- パンデミックを考える(2)
(その1)パンデミックについての神学的考察、第1回目はジョン・パイパー著『コロナウイルスとキリスト』を取り上げました。今回取り上げるのは、N・T・ライト著『神とパンデミック:コロナウイルスとその余波についてのキリスト教的省察 God and the Pandemic: A Christian Reflection on the Coronavirus and Its Aftermath』です。N・T・ライトについては、もはや紹介する必要もないでしょう。現在世界で最も影響力のある神学者・聖書学者の一人であり、このブログでもおなじみです。彼は今回のコロナ禍について何を語るのでしょうか?前書きの日付は今年の4月になっていますので、パイパーの本とほぼ同時期か、少し後に出版されたものと思われます。ライ
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- イマジン(もし天国がないとしたら)
Imagine there’s no heavenIt’s easy if you tryNo hell below usAbove us, only skyImagine all the peopleLivin’ for today想像してごらん 天国なんてないとやってみれば簡単なことさ足元には地獄はなく頭上には空が広がっているだけ想像してごらん すべての人は今日この日のために生きているのだとジョン・レノンの有名な「イマジン」の一節です。この歌詞は多くのキリスト者を居心地悪く、またしばしば不快にさせるものだと思います。天国や地獄を否定するような歌は無神論的で受け入れられない、と感じるのでしょう(続く歌詞には「宗教もないと想像してごらん」というフレーズさえ
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- 神がデスヴォイスで歌うとき(6)
さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。(ルカ10章3節)その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。(黙示録7章9-10節)(過去記事12345)一般の音楽界では、1980年代に今では「古典的」とも呼ばれるヘヴィーメタルのスタイルが英米を中心に全盛期を迎えました。1990年代に入るとグランジやオルタナティヴロックの台頭によってメインストリームから後退しましたが、メタルはその後も他ジャンルの要素を取り入れながら、驚くほど多くのサブジャンル
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- N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その1)
今回は新しいゲスト投稿者をお迎えします。N. T. ライト教授の指導の下で昨年セントアンドリュース大学から博士号を授与された山口希生(のりお)さんです。山口さんは最近新教出版社から日本語版(上巻)が出版されたライトの主著『新約聖書と神の民』の翻訳者であられます。同書について2回にわたって投稿をいただく予定です。『新約聖書と神の民』(上)第一回・新約聖書の権威この度邦訳出版されたN.T.ライトの「新約聖書と神の民」はずばり「新約聖書」についての本です。この比類のない書をどう読むべきか、特に神の民としての現代の教会がそれをどう読むべきかということが本書で問われています。新約聖書は教会にとって最も大切な書ですが、その「権威」は近代以降、常に挑戦を受けてきました。啓蒙主義が隆盛してゆく中で、まず新約
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- 「主の祈り」を祈る(1)
このところ、主の祈りについていろいろなことを考えさせられ、また個人的な祈りにおいても祈ることが多くなっています。このあまりにも有名な祈りについてはすでに多くの方々が語っておられますし、自分の乏しい祈りの生活から語るのもおこがましい気がしますが、少しでも誰かの助けになればと思い、何回かにお分かちさせていただきます。今回は導入として、祈り全般について最近思うことについて書きたいと思います。私がクリスチャン生活を送ってきた教会のほとんどは、祈りと言えば自由祈祷が一般的で、それ以外の祈りをする機会はほとんどありませんでした。私自身も、「紙に印刷された文句を唱えるのは本当の祈りではない。その時その時に、自分のことばで、自分の思いを、聖霊に導かれるままに祈るのでなければ・・・」という考えがありました。け
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- オープン神論とは何か(3)
(その1 その2)前回の投稿では、オープン神論の主張を支持すると思われる聖書箇所について概観しました。今回は逆に、オープン神論の主張に反するように見える聖書箇所について見ていきたいと思います。 神は悔いることがない?神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか。(民数記23章19節)28 サムエルは彼に言った、「主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた。29 またイスラエルの栄光は偽ることもなく、悔いることもない。彼は人ではないから悔いることはない」。(1サムエル15章28-29節)前回の記事で、神が考えを変えられることについて書かれている箇所を見まし
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- 福音主義神学会全国研究会議
私が所属している日本福音主義神学会では、通常は東部・中部・西部の3部会に分かれて部会単位で毎年研究会等の活動を行なっていますが、基本的に3年に1回(コロナ禍で1年延期になったことがあります)の頻度で、合同で全国研究会議を開催しています。第17回全国研究会議が今年11月18~20日に行われますので、ご案内します。全国研究会議特設サイトこの研究会議は完全オンラインで行われますので、宿泊や移動に煩わされることなく、全国(あるいは世界中)どこからでも参加することができます。今回はオンライン会議の特性を活かして、海外からも講師をお招きしています(論文の日本語訳と質疑応答の通訳が提供されます)。今回のテーマは「平和」です。昨今の世界情勢に鑑み、平和問題がキリスト教会にとっても喫緊の課題であるとの認識から
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- 神がデスヴォイスで歌うとき(4)
サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた。(使徒行伝9章26節)(その1その2その3)クリスチャンメタルは、その始まりから論議を呼ぶ存在でした。そしてそれは、Marcus Mobergが指摘するように、キリスト教会内での論争と、一般のメタルコミュニティの中での論争という、「二重の論争」の様相を呈していたのです。一般のメタルコミュニティにおいては、クリスチャンメタルは布教目的のプロジェクトであって、音楽的には既存のメタルバンドの貧弱なコピーに過ぎないという批判が根強くあります。けれども、30年以上の歴史を経てクリスチャンメタルは多様化と発展を遂げてきており、その批判が正当なものであるかどうかは個別に判断していくべきものでし
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- 『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師)
以前当ブログで藤本満先生の著書『聖書信仰 その歴史と可能性』(いのちのことば社)の紹介をさせていただき、それに関連して先生にゲスト投稿をいただいたこともありました。『聖書信仰』は現代日本の福音派プロテスタント教会の聖書観のルーツを歴史的に検証し、その意義を問い直す意欲作でしたが、福音派内で活発な論議を呼び起こしました。そんな中、同じいのちのことば社から『聖書信仰とその諸問題』が出版されました。同書は藤本先生の『聖書信仰』だけをとりあげて論じた本ではありませんが、藤本先生の名前は随所に登場してその主張にたいする反論がなされています。表題からしても『聖書信仰』が中心的な批判対象であることはほぼ間違いないと言ってよいでしょう。私はこのような問題に関してオープンな議論ができる雰囲気を作ることこそが、
- 1「この人たち以上に」ヨハネ21:15-25 中村吉基
- 2誌上ミニ講座「地域の高齢者と共に生きる」 第7回 時空を共に、時空を超えて
- 3Please Investigate fake Masakos in Armenia
- 4神は我々と共に
- 5三浦綾子に出会って 『塩狩峠』のモデル長野政雄さん愛読の聖書を発見
- 6特集 聖書を知らせたい!―日本人に届くバイブル・ラーニング ちょっと変わった聖書への導入書
- 7天と地を満たす神
- 8まんがで知る 聖書のこと、信仰のこと 子ども伝道まんが雑誌月刊『らみい』
- 9【疑問】「主の祈り」を繰り返し唱えるのは意味あるの?<後編>
- 109か月も続いた霊的戦いの中で、彼女が神の証を立てた方法とは

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
