神は我々と共に

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「神は我々と共に」

廣石 望
イザヤ書7,1-17 ;

I

 今日の聖書箇所は、イエス・キリストの奇跡的な誕生について物語ります。一般に「処女降誕」と言われます。使徒信条に「処女マリアより生まれ natus ex Maria Virgine」とあるとおり。今でもこのことを歴史的な事実として承認するよう求めるキリスト教もあります。もっともそれが生物学的な父親がいないという意味であるなら、ではイエスのDNAは何なのか、マリアのクローンなのかと現代人は問うのではないでしょうか。

 いったい、このイエス誕生物語の真実とは何なのでしょう? 三つほど申し上げます。

 

II

 まず、一般に「成就引用」とか「省察引用」と呼ばれている、マタイ福音書に独特な旧約聖書の引用をご覧ください。

このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。(22節)

 このタイプの発言は、マタイによる福音書では、物語り手による注釈として現れます。登場人物の誰か――例えばイエス――が、そう言うことはありません。このことは、マタイによる福音書という物語が、イエスの歴史を旧約聖書の光のもとで理解するというスタイルをもっていることを示します。つまりイエスの歴史の真の意味は、そのできごとが起こったその時点ではなく、後になってから初めて発見されたのです。

 その背後には、イエスの歴史の真の意味を求めて旧約聖書を必死に読みつづけた人々がいた。それはある種の学派のような共同体であったかもしれない、と学者たちは推定しています。

 なぜ彼らはそんなことをしたのでしょうか? それはイエスがメシア/キリストであると信じられるに至ったからです。では、それはいつのことか? おそらく生前のイエスの活動が、当時の人々の間に生きていた「メシア期待」との関連で理解されたようです。もっともイエス自身は、「私がメシアです」と公言した形跡はありません。この期待は、しかし、イエスの処刑によっていったんは消え去りました。

 ルカ福音書に保存されたエマオ途上の顕現エピソードから、そのことが読みとれます。復活者イエスから、君たちは道々いったい誰のことを話しているのか、と問われた二人の弟子の一人が――問うているのがイエスその人であるとは気づかないまま――次のように返答します。

ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。(ルカ24,19-21)

 「あの方こそイスラエルを解放してくださる」というのがメシア期待に他なりません。では、イエスがキリスト(メシア)であるという確かな信仰が生まれたのは、いつだったのでしょう? それは復活節(イースター)です。ですから、イエスの歴史を旧約聖書の光の下で理解する根拠は、復活信仰にあります。復活信仰とは、イエスについて「本当のこと」を神の前で発見することでした。

 再びエマオ途上の復活者イエスは、二人の弟子が、「イエスは生きている」という女性たちの話しを不思議なことだと発言したのを受けて、こう言います。

「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。(ルカ24,25-27)

 復活者イエスが、自分について旧約聖書全体を説明した。――これは最初期のキリスト教を生きた人々が、復活信仰に依拠しつつ旧約聖書を必死に読んだということです。「物分かりが悪い」とは、自分自身への叱咤激励であったことでしょう。そしてマタイ福音書に特徴的な成就定式は、その努力のひとつの結晶的な表現なのです。

 

III

 次に、いわゆる「処女降誕」について。

 先ほど、〈生物学的な父親がいないという意味ならば、イエスはマリアのクローンなのか〉と現代人は問うだろうと申しました。この問いには、たいへん大きな特徴があります。「神」を度外視していることです。マタイ福音書のストーリーにとって、イエスの母に性体験があったかどうかは最重要ではありません。そうではなくイエスの誕生が、神の働きによるものであったこと、すなわち「聖霊による」と言われていることが決定的に重要です。――つまりこの発言もまた、復活信仰に基づいてイエスという存在の「真実」を見出そうと試みているのです。

 新約聖書が行うイエスの「真実」に関する、決定的な発言のひとつに次のものがあります。

私は天からくだってきたパンである。(ヨハネ6,41)

 同時にこの発言に対しては、「事実」にもとづく当時の人々の反論が、ヨハネ福音書に次のように記されています。

これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天からくだって来た」などと言うのか。 (ヨハネ6,42)

 「われわれはその父も母も知っている」という発言から分かるように、ヨハネ福音書は処女降誕の伝承を知りません。知っていたのに、あえて採用しなかったのかもしれません。

 ヨハネ福音書は、神のロゴスが肉化したのがイエスであると言います(ヨハネ1,14)。しかしそれは、例えばイエスが「半神半人」であるという意味ではありません。本物の人間であるイエスが、そのまま本物の神だという意味です。カルケドン信条に「まことに人、まことに神」というとおりです。だからヨハネにとって、イエスの誕生は自然なものでなければなりませんでした。

 他方で古代世界には、偉人たちには奇跡的な誕生という伝承が溢れています。多くの場合、父親が神で母親が人間というパターンです。例えば哲学者プラトンについて、次のような噂があったと伝えられています。

アリストン〔プラトンの父〕は、そのころ適齢期にあったペリクティオネ〔プラトンの母〕を無理やりに自分のものにしようとしたが果たさなかった。そして無理強いすることを思いとどまっていたとき、彼は夢にアポロンの神の幻を見た。そこで子どもが生まれるまでは、彼女に触れることをせずに清らかなままでこれを守ってやった、というのである。
(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』「プラトン」加来彰俊訳)

 「というのである」という又聞きの定式が、〈私は真偽のほどは分かりませんけど〉というニュアンスです。それでも父親が妻に触らなかった。神が夢でお告げをしたというあたりは、私たちの物語にそっくりですね。つまりマタイによるイエス誕生物語は、こうした文化圏で生きていた人々には、とても親しいものでした。マタイの教会には、異邦人出身のキリスト者が大勢いたに違いありません。

 では、新約聖書におけるイエスの奇跡的な誕生についての発言に、固有な特徴は何でしょうか? きっと、たくさんあるに違いありません。それでも今日のマタイ福音書のテキストとの関連では、次の天使の一言がそうだと思います。

この子は自分の民を罪から救う。(21節)

 破れていた神と民族との関係を回復する――これこそ真の奇跡と呼ばれるにふさわしい。イエスの奇跡的な誕生についての物語は、民族を「罪」から救うという、この奇跡的なできごとの言い換えであるようにも感じます。

 

IV

 最後に、「神は我々と共に」という大切な言葉について考えてみましょう。

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。(23節)

 ご存知のように、これはイザヤ書からの引用です(イザヤ7,14)。すでに当時のユダヤ教で、メシア預言と受けとめられていたようです。

 注目していただきたいのは、イザヤ書元来の文脈が戦争――いわゆる「シリア・エフライム戦争」――であることです。周辺の国家が、連合してユダ王国を攻撃してきそうだという危機的な状況です。そのことを知った「王の心とその民の心は、林の木が風に揺れ動くように動揺した」とあります(イザヤ書7,2[岩波訳])。

 こうした状況の中で、預言者イザヤは「若い女性が身ごもって男の子を産む」と預言しました。これは、もともと10か月もすれば状況は変わる、という意味だったのかもしれません。しかし後の時代には、〈戦争に勝利して民族に解放をもたらす救い主が生まれる〉という意味に、つまり武力によって勝利をもたらすメシアへの期待と理解されるようになっていきました。

 ではマタイ福音書は、この預言の伝統をどう受け止めたのでしょうか? この福音書の幼子イエスは王ヘロデに命をつけ狙われ、親子ともども難民となって外国に逃げてゆく無力な赤ん坊です(マタイ2,13以下参照)。この無力さを通して、「民をその罪から救う」という神の力を発揮する不思議なメシアです。

 同じ福音書の受難物語、正確にはイエスの捕縛場面で、弟子ユダが接吻によって師イエスを裏切った直後に次のような叙述が現れます。

そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」…(中略)…このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」(マタイ福音書26,51-54.56)

 「必ずこうなると書かれている聖書の言葉」「預言者たちの書いたこと」とは何なのでしょう?――この箇所に明示的な旧約引用はなく、詳しいことは分かりません。マタイとその背後にいる人々は、いったいイエスのどのような真実を発見したのでしょう?

 ひとつの可能性として、マタイが描くイエスのエルサレム入城場面でひかれる旧約引用(イザヤ62,11、ゼカリヤ9,9)が参考になりそうです。

シオンの娘に告げよ。
「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」(マタイ25,5)

 「柔和な」――ギリシア語「プラーユス」(「優しい/謙虚な」の意)――という言葉が、マタイ福音書にとって、どれほど大切な言葉であるかご存知ですか?

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。(マタイ5,5)
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(同11,29)

 大地を継承し、平和を受けとる人たちのための存在であるイエス――福音書が告げる「神は我々と共に」とは、そのようなイエスが私たちのための存在であるというメッセージです。

 
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