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科学と聖書(5)

(その1 その2 その3 その4)使徒行伝には、さまざまな機会に初代教会でなされたスピーチがいくつも収められています。そのうち多くは、まだキリスト教信仰を持たない人々に対して、キリスト教のメッセージを宣べ伝える、いわゆる伝道説教です。これらの説教をじっくりと読んでいくと、それぞれの説教の中で語られている内容には、ある興味深い違いがあることに気づきます。ペンテコステ(聖霊降臨)の日のペテロの説教(使徒2:14-40)、エルサレム神殿のソロモンの廊におけるペテロの説教(3:12-26)、サンヘドリンにおけるステパノの説教(7:2-53)、コルネリオの家族に対するペテロの説教(10:34-43)、ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの説教(13:16-41)、エルサレム神殿の境内におけるパウロの説教

Even Saints Get the Blues(信仰者と嘆きの歌)(2)

前回の記事では、U2のボノの発言にこと寄せて、「詩篇はブルースである」ということについて書きました。今回は同じテーマを、聖書学の観点からもう少し掘り下げてみたいと思います。米国の旧約聖書学者ウォルター・ブルッゲマンはその著書Spirituality of the Psalms (『詩篇の霊性』)の中で、詩篇を三つの類型に分けています。第一は定位の詩篇psalms of orientation、第二は混迷の詩篇psalms of disorientation、第三は新しい定位の詩篇psalms of new orientationです。ウォルター・ブルッゲマン(Image via Flickr)定位の詩篇は神に対する揺るがぬ信頼に裏付けられた、幸福な状態を歌った詩篇です。信仰者は自らの生に満足

『聖書信仰とその諸問題』への応答3(藤本満師)

(その1 その2)藤本満先生によるゲスト投稿シリーズ、第3回目をお送りします。*     *     *3 シカゴ声明のローカルでヒストリカルな限定性『聖書信仰とその諸問題』(聖書神学舎教師会編)にその要約版が所収されている『聖書の無誤性を巡る五つの見解』については投稿1ですでに触れました。5つの見解の3番目に登場するのが、オーストラリアの気鋭な福音主義神学者マイケル・バードです。彼は自分の見解に「国際的な観点から見た無誤性」とタイトルをつけ、「無誤性」は米国の外にある福音主義にとっては必要ではない、とまとめています。無誤に代わる用語として、シカゴ声明の第9項で用いられている「真の、信頼できる」(true and trustworthy)啓示の書とするので良いのではないか、と。バードは、無誤

ラルフ・ハモンド師の想い出―人種問題に寄せて

今、米国で人種間の対立が再び表面化してきています。ミネソタ州ミネアポリスで白人警官に拘束された黒人男性が死亡した事件をめぐって抗議デモが全米各地に広がっていることは、各種報道で広く知られているので、それについて詳述することはしません。ただ、今回の事件が起こったミネアポリスは私の妻の出身地であり、今でも家族がその地域に住んでいます。また私がアメリカで最初に学んだベテル神学校も、隣町のセントポールにありました(この2つの町は合わせて「双子都市Twin Cities」と呼ばれています)。したがって、個人的にもつながりのある地で起こった悲惨な事件に深い悲しみを覚えています。今回の事件についていろいろと思い巡らしていたとき、一人の人物の顔が思い浮かんできました。それはベテル神学校時代の恩師の一人、ラル

確かさという名の偶像(7)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5 6)今回もグレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」の続きを見ていきます。第2章は今回で最後です。傲慢と偽善ボイドによると、確実性追求型信仰のもう一つの問題点は、それがえてして偽善的になってしまうことです。クリスチャンも含め多くの宗教の熱心な信者は、自分たち以外の宗教を信じる人々が、彼らはもしかしたら間違っているかも知れないという可能性を考慮しないと言って、それらの人々を批判します。しかし、確実性追求型の信仰は、まさにそのような傲慢な態度を生みやすいと言います。ボイドはこのようなダブル・スタンダードな態度はたいへん偽善的であると言います。彼らが他人に要求する基準を、自分たち自身にあてはめることを

「愛」~ハーバートとヴェイユ

先日ご紹介したシモーヌ・ヴェイユが愛唱していた「愛(Love)」という詩があります。これは、以前「聖書」という詩をご紹介したことがある、イギリスの形而上派詩人ジョージ・ハーバート(George Herbert. 1593–1632)によるものです。ヴェイユは1938年の春に、グレゴリオ聖歌で有名な、フランスのソレムにあるベネディクト派の修道院に10日間滞在していたときに、そこで出会ったイギリス人からこの詩を教えられ、「世界で最も美しい詩」として愛唱するようになりました。Love (III)Love bade me welcome: yet my soul drew back,        Guilty of dust and sin. But quick-ey’d Love,

確かさという名の偶像(1)

私が個人的に最も敬愛する現代の神学者の一人はグレゴリー(グレッグ)・ボイドGregory A. Boyd博士です。ボイド師はミネソタ大学、イェール大学とプリンストン神学校に学び、以前は米国ミネソタ州セント・ポールにあるベテル大学で神学の教鞭をとっていました。同地にあるWoodland Hills Churchの創立者・主任牧師であり、私たち家族がセント・ポールに住んでいた時には同教会の礼拝に出席し、ボイド師と個人的にお交わりする機会も与えられました。私の知るボイド師は大変気さくな温かい人物で、イエス・キリストへの愛と福音宣教の情熱にあふれた素晴らしい信仰者であり、そして非常に有能な神学者でもあります。(Photo from ReKnew)ボイド師には専門的な神学書から一般向けの書籍まで多数の

確かさという名の偶像(14)

(シリーズ過去記事 第1部 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 第2部 11 12 13)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き第6章「法的取引から愛の結びつきへ」を取り上げます。前回は「法律的契約contract」と「人格的契約covenant」の違いについて考察しました。ボイドによると、聖書における神と人間との関係は基本的に後者にもとづく関係です。この人格的契約関係を理解するために最も適切なアナロジーは、結婚のアナロジーであるとボイドは言います。今回はこのことについて見ていきましょう。信仰の本質とは、私たちの天の花婿としてのキリストのうるわしい人格を信頼することであり、その尽きることのない愛によって内側から

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その3)

(その1 その2)藤本満先生によるゲスト投稿、第3回をお届けします。『聖書信仰』(キンドル版)前置き(あらためて)あの本を著して以来、私は「包括的福音主義」者と呼ばれているらしいのです。そのカテゴリーに入れていただけることに何ら不満はありません。私は神学が信仰信条という枠にはめられたものではなく、モザイク的でよいと主張しています。また、批評学やポスト近代による近代主義批判に耳を傾けようという姿勢を表明しています。ただ、私が提示したかった趣旨は、少し観点が違います。私は、「聖書信仰」を神学的に論じる場合、改革派・長老派系の論ばかりに偏っていると感じてきました。もちろん、聖書信仰の巨人にプリンストン(当時は厳格な改革派神学)のウォーフィールドのような人物がいましたので、神学的にはそちらの論が中心

使徒たちは聖書をどう読んだか(11)

(このシリーズの先頭はこちら)前回の投稿では、歴史的・文法的方法を超えた聖書解釈が無制約な恣意的解釈に陥らないための歯止めの一つとして、「救済史」の考え方をはじめとする、いくつかの神学的枠組みについて書きました。しかし、そのような枠組みを設定したとしても、使徒たちの解釈法に倣っていこうとする時に、そこから出てくる解釈はそれでもなお一意的に定まるものではなく、ある程度の幅、多義性が生まれてきます。これについてはどう考えたら良いのでしょうか?私は個人的には、このようなある程度の解釈の多様性を恐れる必要はないと考えています。使徒たちの解釈学は厳密な科学というよりは、むしろアートと呼べる側面があります。この表現は誤解を招く可能性がありますので、少し丁寧に説明したいと思いますが、この問題を考える際には

新しい世界のはじまり

だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(2コリント5:17)2019年が始まりました。ところで、1年の始まりはなぜ1月1日なのか、考えたことはおありでしょうか。日本の暦では月の名称に数字が使われているので、1月が1番目の月というのは当たり前に思うかも知れません。しかし、たとえば英語のJanuaryはローマ神話のヤーヌス神から来ているもので、必ずしも最初の月である必然性はありません。実際、古代ローマでは一年の始まりは今で言う3月でしたが、ユリウス・カエサルがユリウス暦を導入したとき、1年の始まりをIanuarius(January)にし、それが現行のグレゴリオ暦にも受け継がれたと言います。実際、世界では私たちと異

ルカ文書への招待(6)

(① ② ③ ④ ⑤)12月に入り、南カリフォルニアで行われるEquipper Conference 2016も間近に迫ってきました。この集会に向けたルカ文書の入門コラムとその補足を8回シリーズでお送りしていますが、その6回目をお送りします。*     *     *ルカが語る福音の物語⑥ 「教会のルーツを明らかにする物語」今回は、ルカ文書が書かれた目的について考えてみましょう。ルカ文書は簡単に言うと、イエスから始まる教会の歴史を記した書であると言えます。しかし、なぜルカはテオピロのために教会の歴史を書く必要を覚えたのでしょうか?以前のコラムでも書いたように、著者のルカも、その読者のテオピロもおそらく異邦人クリスチャンであり、彼らが属していた教会も異邦人クリスチャンが多かったと思われます。ど

N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版③

過去記事 ① ②前回の記事では、N・T・ライト著『聖書と神の権威』の単婚制に関するケーススタディにおけるライトの主張を紹介しました。そこで述べたように、ライトによると、聖書的な結婚のオプションは一夫一婦制のみであり、それは創造のはじめから神によって与えられたデザインであり、終末論的なゴールでもあります。したがって、彼はたとえば同性単婚のような結婚のあり方を認めません。しかし、私は結婚に限らず、そもそも聖書は(新約聖書も含めて)特定の社会制度を人類の普遍的な基準として提示してはいないと考えています。なぜそう言えるのかを以下に述べていきます。ライトは、彼が男女の一対一の結婚(一夫一婦制)が神によって意図された「創造のデザイン」であると考える根拠として、マルコ10:2-9とエペソ5:22-33を挙

アドベントに寄せて

(10) 天使は言った。「恐れてはならない。なぜなら見よ、私はこの民全体のための大いなる喜びの福音をおまえたちに告げるからだ。 (11) すなわち、今日ダビデの町で、おまえたちのために救い主がお生まれになったのだ。この方こそ主キリストである。 (12) そして、これがおまえたちへのしるしである。おまえたちは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」(ルカ2:10-12私訳)今年もアドベント(待降節)が始まりました。今日がその第一主日となります。アドベントとは「到来」という意味のラテン語adventusから来た言葉で、二千年前のイエス・キリストの到来(初臨)を覚えるとともに、将来の到来(再臨)を待望する期間でもあります。教会暦の新年にあたるこの日に考えたことをいくつか

パレスチナ人クリスチャンの声(2)

シリーズ過去記事 1前回紹介した、パレスチナ人クリスチャンの神学者、ヨハンナ・カタナチョー師の詩を、作者の許可を得て翻訳します。これは2014年のガザ侵攻に際して発表されたものですが、現在のパレスチナ/イスラエル情勢にもそのまま当てはまる内容だと思います(原詩はこちら)。ガザ侵攻の両当事者のための哀歌ヨハンナ・カタナチョー今は嗚咽と嘆きの時 でも望みが絶たれたわけではないわれらの涙は 獣性から人間性へ渡るための架け橋われらの涙は ことなる現実を透視するための塩辛い門われらの涙は 心ない国々と干からびた精神に立ち向かうわれらの涙は 敵意の奔流をとどめる堰悲しむ男たちのため われらとともに哭け 友であるしるしとして貧しき子らのため われらとともに哭け 正気をとりもどすため悲嘆にくれる母たちのため

聖書・近代・物語―藤本先生講演会報告

先日の投稿で予告したとおり、16日(火)に名古屋で藤本満先生をお迎えしての講演会が開かれました。午後1時半から行われた福音主義神学会中部部会主催での公開講演会と、6時から行われた東海聖書神学塾主催の公開クラスの内容の一部を、個人的な感想も交えながらお伝えします。「近代主義――聖書のバビロン捕囚」中部部会の公開講演会では、聖書と近代主義(モダニズム)の関係についてお話しくださいました。これは大きな反響を呼んだ先生の著書『聖書信仰』につながる内容でした。藤本先生は、18世紀末の近代聖書学の始まりから説き起こし、教会の神学から自由になろうとした聖書学が、結果として普遍的人間理性に信頼を置く哲学に呑み込まれていった様子をわかりやすく描いてくださいました。アメリカにおいては、ドイツから入ってきた自由主

御国を来たらせたまえ(6)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5)神の国についてのシリーズの中で、過去2回にわたって「携挙」の概念について書いてきました。なぜ「携挙」の概念がこれほど人気があるのでしょうか?それは一つには、これまで論じてきたような、ギリシア的霊肉二元論に基づく通俗的天国観があると思います。つまり、クリスチャンの最終的希望は、滅び行く地上世界を離れ去って、霊的な楽園としての「天国」で神と永遠に過ごすことだという考えです。もちろん、1テサロニケ4章16-17節でパウロは携挙について語っていると信じるならば、その時には同時に死者の復活も起こることも認めなければなりませんので(16節「その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、」)、これは厳密には「死後霊魂が肉体を離れて天国に行く」というもの

ルカ文書への招待(7)

(① ② ③ ④ ⑤ ⑥)Equipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足、その7回目はルカの語る「救い」について考えます。*     *     *ルカが語る福音の物語⑦ 「ルカ文書における救い」ルカ文書の重要な主題の一つは「救い」です。ルカ福音書のクリスマス物語では、ベツレヘムで生まれたイエスが「救い主」と呼ばれています(ルカ2章11節)。神に献げるために幼子イエスが神殿に連れてこられたとき、シメオンはイエスを抱いて言います。 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、 みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが 万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、 御民イスラエルの光栄です。

終わりと始まり

ここ数ヶ月、神学校で黙示録の講義をさせていただきましたが、昨日の最終講義の終わりにC・S・ルイスの「ナルニア国物語」の最終巻の結びの部分を朗読しました。こう、その方が話すにつれて、その方は、もうライオンのようには見えなくなりました。しかし、これからはじまることになるいろいろな出来事は、とうていわたしの筆で書けないほど、偉大で美しいものでした。そこで、わたしたちは、ここでこの物語を結ぶことにいたしましょう。けれどもわたしたちは、あの人たちがみな、永久にしあわせにくらしたと、心からいえるのです。とはいえ、あの人たちにとって、ここからが、じつは、ほんとうの物語のはじまるところなのでした。この世にすごした一生も、ナルニアでむかえた冒険のいっさいも、本の表紙と扉にあたるにすぎませんでした。これからさき

ルカ文書への招待(1)

今年の12月に米国カリフォルニア州で行われるEquipper Conference 2016(EC16)の講師としてお招きを頂きました。これは以前もご紹介したことのある、JCFNが主催しているものです。集会について詳しくはこちらをご覧ください。集会では4回にわたって、ルカ福音書から聖書講解をさせていただきますが、それに先立って8回シリーズで、ルカについての入門的コラムを書いて欲しいと依頼されました。それを通して参加者が講解で扱われる聖書箇所だけでなく、ルカ文書全体により親しみ、理解を深めることが目的です。EC16ではクリスチャンになって間もない参加者もおられますし、字数も限られていますので、コラムではごく基本的な内容を簡潔に書いていきたいと思っていますが、こちらのブログでは、その内容をJCF

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Emmanuel

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