N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版③

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

過去記事 ① ②

前回の記事では、N・T・ライト著『聖書と神の権威』の単婚制に関するケーススタディにおけるライトの主張を紹介しました。

そこで述べたように、ライトによると、聖書的な結婚のオプションは一夫一婦制のみであり、それは創造のはじめから神によって与えられたデザインであり、終末論的なゴールでもあります。したがって、彼はたとえば同性単婚のような結婚のあり方を認めません。

しかし、私は結婚に限らず、そもそも聖書は(新約聖書も含めて)特定の社会制度を人類の普遍的な基準として提示してはいないと考えています。なぜそう言えるのかを以下に述べていきます。

ライトは、彼が男女の一対一の結婚(一夫一婦制)が神によって意図された「創造のデザイン」であると考える根拠として、マルコ10:2-9とエペソ5:22-33を挙げています。

(ところで、マルコ10章で議論の対象となっているのは離婚の問題であり、エペソ5章では家庭内のメンバーが互いに愛し合うこと(21節参照)です。つまり、どちらの箇所でも、婚姻関係が一人の男性と一人の女性の関係に限られるのかどうかについて問われているのではありません。ライトが一夫一婦制の聖書的根拠としてこれらの箇所を持ち出すのは奇妙であり、説得力を感じませんでした。これらの箇所で述べられていることのポイントは、ライト自身が認める通り(252頁)、当時のユダヤ人の間で標準として受け入れられていた一夫一婦制を前提とした上で、結婚関係が愛と誠実に基づくべきだということだと思います。しかし、この投稿の中心的論点ではありませんので、この点について深く追求することはしません。)

いずれにしても、ライトは一夫一婦制の聖書的根拠として、創造における神の目的に訴えます。つまり、男性と女性の一対一の関係からなる結婚こそが、創造の始めから神が意図した唯一の結婚関係であり、それは終末まで一貫して提示されているビジョンだというのです。

ライトはこのことについて、具体的に聖書箇所を挙げて論じている訳ではありません。しかし、上で上げたマルコ福音書とエペソ書の中で引用されている創世記の箇所を念頭に置いているものと考えられます:

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1:27)

それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。(創世記2:24)

それでは、これらの箇所は一夫一婦制が神によって定められた唯一の結婚の形だと述べているのでしょうか? 私にはそうは思えません。これらのテクストが明確に述べているのは、1)人間は男性と女性という2つの性別に分けられる集団として創造された、そして2)結婚は男性と女性の結合として定義される、ということです。これらのテクストには、今日明らかになってきているような人間の性の複雑な様相も見られませんし、同性同士の結婚の可能性はまったく言及されていません。

では、ここで描かれているような、(今日の用語で言えば)性別二元論(バイナリー)的・異性愛主義的な考えは、終末に至るまであらゆる歴史と文化に適用される、神の普遍的基準なのでしょうか?

多くのキリスト者はそう考えます。しかし、同じ創世記の次の箇所を見てみましょう。

神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。(創世記1:6-7)

ここで「おおぞら」と訳されているヘブル語ラーキーアは固体のドーム状のものを指し、その上に水の層があると考えられています。これを図示すると次のようになります。

つまり創世記1章の天地創造の記述は、古代イスラエル人が持っていた宇宙観に基づいて書かれていることが分かります。それは現代の科学的世界観とは異なっていますが、創世記の記述を現代科学に基づいて解釈すること(これを調和主義concordismと言います)は避けなければなりません。例えば、ノアの洪水の際に「天の水門が開かれた」(創世記7:11)という記述も、古代の宇宙観で考えて初めて意味をなします。私たちは聖書の記述が古代人の世界観に基づいているという前提のもとでテクストの意味を読み取った上で、そこに含まれるメッセージを現代人の世界観に変換して受け取っているのです。この場合で言えば、神が(私たちがイメージするような)世界と人間の創造者である、ということです。

さて、このことが、本シリーズの主題である結婚の問題とどう関係しているのでしょうか。創世記の天地創造の記述が古代イスラエル人の宇宙観を反映しているとしたら、人間の性別や結婚に関する創世記のバイナリー的・異性愛主義的な記述も、当時の人々の一般的理解を反映しているとは言えないでしょうか? 

現代においては人間の性の科学的研究が進み、単純な男女の2項図式では捉えられないグラデーションがあることが明らかになってきています。また、「同性愛」という概念自体、聖書の時代にはなく、近代になって初めて現れた考えです。だとすると、表面上の文言だけから、男女の一対一の結婚だけが「聖書的結婚」であると結論づけるのは、創世記1章の記述から空は固体であると主張するのと同様に短絡的すぎると思います。私たちは聖書テクストの表面に書かれた文言の下にある神のメッセージを読み取り、それを現代の人間理解にふさわしい形で語り直す必要があるのです。

このように考えてくると、創世記の文言とそれを引用している新約聖書のテクストから直接的に「創造のデザイン」を引き出し、それを現代にも適用しようとするライトの議論はかなり乱暴なものであり、あえて厳しい言い方をするなら、天動説に固執してガリレオを裁判にかけた当時のカトリック教会に通じる危うさを感じてしまうのです。

ところで、このような主張をすると、ただちに次のような反論が予想されます。

古代の宇宙観に基づいた創造記述は、神が例外的に当時の人々の世界観に合わせて語られた部分であり、それを文字通りに受け取る必要はない。しかし、人間の性や結婚について書かれた箇所は普遍的な教えであって、これらを安易に混同すべきではない。我々は聖書のどの部分が書かれた当時の文化の限界内にある相対的な教えであり、どの部分が普遍的な真理なのかをしっかりと見分けていく必要がある。

これは至極まっとうな意見に見えますが、これについてどう考えたら良いのでしょうか?

(続く)

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