ヨブは神の顔を見たこともなければ神の語る言葉を聞いたこともなく、ましてや神の働きを直接経験したこともありません。それでいながら、神に対するヨブの畏れと、試練の際の彼の証しは誰もが目にしており、神に愛され、喜ばれ、称えられました。人々はヨブをうらやみ、高く評価し、それ以上に讃美を捧げました。ヨブの人生は偉大なものでも非凡なものでもありません。普通の人と同じく平凡な生活を送り、日の出とともに仕事へ出かけ、日が落ちると帰宅して休息しました。他の人たちと違っていたのは、平凡だった数十年間の人生において、神の道に関する洞察を得て、神の偉大な力と主権を認識して知るようになったことであり、それは他の人にはなし得ないことでした。ヨブは他のどの平凡な人よりも賢かったわけではなく、ひときわ強いいのちを持っていたわけでもありません。ましてや目に見えない特殊な能力をもっていたということはないのです。しかし、ヨブには正直で、心優しく、正しく、公正と義、そして肯定的なものを愛するという性格がありました。これらはいずれも大多数の普通の人間にはないものです。ヨブは愛と憎しみを区別し、正義感をもち、断固とした不屈の精神があり、自分の考えの隅々まで細かな注意を払っていました。そのため、地上において平凡な日々を過ごしながら、神がなした驚異的な物事をすべて目の当たりにし、神の偉大さ、聖さ、義を見、人間に対する神の気遣い、恵み深さ、加護を知り、至高の神の高貴さと主権を目にすることができたのです。普通の人が誰もなし得なかったこれらのことをヨブがなし得た第一の理由は、ヨブが純粋な心をもち、ヨブの心が神に属しており、創造主により導かれていたことです。第二の理由はヨブの追求です。つまりヨブは、非の打ち所のない完全な人になること、天の旨と一致し、神に愛され、悪を避ける人になることを追い求めたのです。ヨブは神を見ることも神の言葉を聞くこともできませんでしたが、これらのものを獲得し、追い求めました。また神を見たことがないものの、神がどのように万物を支配するかがわかるようになっており、神がそうする際の知恵を理解していました。そして神の語る言葉を聞いたことがないものの、人に報いたり人から取り上げたりするという業はすべて神に由来することを知っていました。ヨブの人生の年月は普通の人のそれと何ら変わらなかったのですが、自分の人生の平凡さのせいで、万物に対する神の主権の認識や、神を畏れて悪を避ける道が影響を受けることは許しませんでした。ヨブの目から見て、万物の法則は神の業で満ちており、神の主権は人の生活のいたるところで見られるものでした。ヨブは神を見たことがないものの、神の業が至るところにあることを認識でき、また地上で平凡な時間を過ごす間、自分の生活のあらゆるところで神の並外れた不思議な業を見てそれに気づくことができ、神の不思議な采配を知ることができました。神が隠れていたこと、そして無言であったことは、ヨブが神の業を認識する上で障害とはならず、万物に対する神の主権を知る上で影響を及ぼすこともありませんでした。ヨブの人生は、万物の中に隠されている神の主権と采配の認識を、日常生活の中で得てゆくというものでした。また、ヨブは日々の生活の中で、神の心の声と言葉を聞いて理解しましたが、神は万物のあいだで無言を貫きつつも、万物の法則を司ることで自身の心の声と言葉を表わします。それにより、人々がヨブと同じ人間性をもち、ヨブと同じように追求すれば、ヨブと同じ認識と知識を得ることができ、また万物に対する神の主権についても、ヨブと同じ理解と認識を獲得できることがわかります。神はヨブの前に姿を見せず、彼に語りかけることもありませんでしたが、ヨブは完全で正しい人になり、神を畏れて悪を避けることができました。つまり、神が目の前に現われたり語りかけたりすることがなくても、万物における神の業、そして万物に対する神の主権だけでも、人間が神の存在と力と権威に気づくのに十分であり、また神の力と権威は人間に対し、神を畏れて悪を避ける道に従わせるのに十分なのです。ヨブのような普通の人間が神を畏れて悪を避けられるのであれば、神に従う普通の人であれば誰でも同じことが可能なはずです。これは論理的推論に聞こえるかもしれませんが、物事の法則と矛盾しません。とは言え、事実が予想と一致したことはありません。神を畏れて悪を避けることは、ヨブだけが到達できる領域のように思えるでしょう。「神を畏れて悪を避ける」と聞けば、それはヨブだけに可能なことだと人は考えます。あたかも神を畏れて悪を避ける道にはヨブの名のラベルが貼られており、他の人には無関係であるかのようです。その理由ははっきりしています。正直で心優しく、正しく、公平と義、そして肯定的なものを愛する性格をもっていたのはヨブだけであり、そのためヨブだけが神を畏れて悪を避ける道に従うことができたからです。この意味はみなさん理解したはずです。つまり、正直で心優しく、正しく、公平と義、そして肯定的なものを愛する人間性をもつ人がいないので、誰一人神を畏れて悪を避けることができず、ゆえに人々は神の喜びを得られず、試練の際に固く立つことができないのです。これはまた、ヨブという例外を除き、すべての人間がいまだサタンに束縛され、サタンの罠に陥ったままであり、みなサタンに断罪され、攻撃され、虐げられていることを意味しています。サタンはそのような人たちを呑み込もうとしており、彼らには自由がなく、サタンに囚われた虜なのです。
今日の人々がヨブと同じ人間性をもっていないのであれば、彼らの本性実質と、神に対する姿勢はどのようなものでしょうか。神を畏れているでしょうか。悪を避けているでしょうか。神を畏れず悪を避けることもない人々は、次の三文字で表わすことができます。すなわち「神の敵」です。あなたがたは頻繁にこの言葉を口にしますが、本当の意味を理解していません。「神の敵」という言葉は実質を伴うものです。それは、神が人間を敵とみなすということ言っているのではなく、人間が神を敵と見なすという意味です。第一に、神を信じ始めるとき、目的も動機も野心もない人がいるでしょうか。一部の人は神の存在を信じ、神が存在するのを見たかもしれませんが、神に対する彼らの信仰にはやはり動機があり、神を信じる究極の目的は祝福と自分の望むものを得ることです。人々は人生経験を重ねる中で、「自分は神のために家族も仕事も捨てた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。数え上げて確かめてみなければ。最近、自分は何か祝福を受け取っただろうか。この間ずっと多くを捧げ、走り回り、多くの苦しみを受けてきた。神はその報いとして何か約束して下さっただろうか。神はわたしの善行を憶えているだろうか。わたしの最後はどうなるだろう。神の祝福を受け取れるだろうか……」とたびたび考えます。誰もが心の中で常にそのような計算をし、自分の動機、野心、そして取引を好む心構えにかなう要求を神にします。つまり、人間は心の中で常に神を試み、神に関する計画を絶えず練り、自分個人の結末のために絶えず神に対して弁護を行ない、神からの弁明を引き出そうとし、自分のほしいものを神が与えられるかどうかを見ているのです。人間は神を追い求める一方で、神を神として扱いません。神と取引しようといつも試み、絶えず神に要求しつつ、一つ与えられればその次は十を取れるよう、事あるごとに神に強要さえします。人間は神と取引しようと試みながら、同時に神と口論もし、中には試練が降りかかったり、ある種の状況に置かれたりするとしばしば弱くなり、働きの際に消極的になって怠けるようになり、神に対する不満で一杯になる人さえいます。人は神を信じ始めた時から、神を豊穣の角や万能ナイフのように考え、自分は神に対する最大の債権者だと見なしてきました。それはあたかも、神から祝福と約束を得ようとするのが自分の当然の権利と義務であり、神には人を守って労り、施す責任があると言わんばかりです。神を信じるすべての人にとって、「神を信じる」ということの基本的な理解はそのようなものであり、それが神への信仰の概念に関する最も根深い認識なのです。人間の本性実質からその主観的な追求に至るまで、神への畏れに関係することは一切ありません。人が神を信じる目的は、神を礼拝することとは何ら関係ないのです。つまり人は、神への信仰には神に対する畏れと神を礼拝することが必要だとは、考えもしないし理解もしないのです。このような状況を考えれば、人間の本質は明らかです。その本質とは何ですか。人間の心は邪悪で、陰険で、ずる賢く、公正と義、および肯定的なものを愛さず、卑劣で貪欲だということです。人間はこれ以上神に心を近づけることができません。神に心を捧げてなどいないのです。神が人の本当の心を見たことはなく、人間に礼拝されたこともまったくありません。神がいかに大きな代価を払っても、どれほど働きを行なっても、どれほど人間に与えても、人間は盲目のままで、そのすべてに対してまったく無関心です。人間が自分の心を神に捧げたことはなく、自分の心の面倒を見て、自分で決断したいと思うばかりです。それが意味するのは、人間は神を畏れて悪を避ける道に従うことも、神の主権と采配に従うことも、神を神として礼拝することも望んでいないということです。それが今日における人間の状態です。ここで再度ヨブに目を向けましょう。まず何より、ヨブは神と取引をしたでしょうか。神を畏れて悪を避ける道を固く守ろうとしたことに、何か下心があったでしょうか。当時、神は誰かに来たるべき結末について話していたでしょうか。当時、神は誰にも結末に関する約束をしたことがなく、ヨブはこれを背景として神を畏れて悪を避けたのです。今日の人々はヨブと比較になるでしょうか。違いがあまりに大きく、ヨブと同じ土俵に上れる者はいません。ヨブには神に関する認識がさほどありませんでしたが、自分の心を神に明け渡し、その心は神のものとなっていました。ヨブは決して神と取り引きせず、神に対して途方もない要望や要求をすることもありませんでした。むしろ、「ヤーウェが与え、ヤーウェが取られたのだ」と信じていました。ヨブはその長い人生で神を畏れて悪を避ける道を固く守りましたが、そこから理解し、獲得したのはそのようなものでした。同様に、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」という言葉に示されている成果もヨブは獲得しました。この二つの文章は、ヨブが人生経験を重ねる中で神に服従する態度をとった結果、目の当たりにしたこと、知るに至ったことであり、またサタンによる試みのさなか、ヨブが勝利を収めた最も強力な武器、固く立って神への証しをする土台でもありました。いまの時点で、あなたがたはヨブを愛すべき人間だと思っていますか。そのような人になりたいと思いますか。サタンの試みを経験しなければならないことに恐れを感じますか。ヨブと同じ試練を降らせてくださいと神に祈る決意がありますか。間違いなく、大半の人はそのようなことを求めて祈ることなどしないでしょう。そうであれば、あなたがたの信仰が惨めなまでに小さいことは明らかです。つまり、あなたがたの信仰はヨブのそれと比べて触れる価値すらありません。あなたがたは神の敵であり、神を畏れず、固く立って神に証しすることができず、サタンの攻撃、断罪、そして試みに勝利することもできません。それでどうして、神の約束を受け取る資格があるでしょう。ヨブの物語を聞き、人間を救う神の意図と、人間の救いの意味を理解したいま、ヨブと同じ試練を受け入れる信仰があなたがたにありますか。神を畏れて悪を避ける道に従う決意を、少しはすべきではありませんか。
ヨブの試練が終わり、彼から証しを受けた神は、ヨブのような人々の一団、あるいは複数の集団を得ようと決心しましたが、サタンが神と賭けをし、ヨブを試み、攻撃し、そして虐待した手段を使って他の誰かを攻撃したり、虐待したりすることを二度と許すまいと決意しました。弱く愚かで無知な人間に対してそのようなことを繰り返すことを、神はサタンに許しませんでした。サタンがヨブを試みただけで十分だったのです。サタンが思いのままに人々を虐げることを許さなかったのは、神の憐れみでした。神にとって、ヨブがサタンの試みと虐待に苦しんだだけでもうたくさんだったのです。サタンがそのようなことをするのを神は二度と許しませんでした。神に従う人々の命、そして彼らのすべては神によって支配され、指揮されており、神の選民を思いのままに操る権利はサタンにないからです。この点ははっきりと理解しなければいけません。神は人の弱さを気遣い、人の愚かさや無知に理解を示します。人が完全に救われるために、神は人をサタンの手に渡さなければなりませんが、人がサタンにもてあそばれて虐げられるのを、神が喜んで見ることはありません。人が常に苦しむのを、神は見たいと思っていません。人間は神によって創られたのであり、人間に関するすべてのことが神によって支配され、采配されるのは、完全に自然で理にかなったことです。それは神の責任であり、神が万物を支配する権威なのです。神はサタンに対し、思いのままに人間を虐げたり、ひどい扱いをしたり、様々な手段で人間を迷わせたりすることを許さず、またそれ以上に、人間に対する神の主権を犯すこと、神が万物を支配する法則を踏みにじって壊すことを許さず、人類を経営して救う神の偉大な働きについては言うまでもありません。神が救いたいと望む人、神に証しをすることができる人は、六千年にわたる神の経営計画の中心であり、その結晶であると同時に、六千年にわたる働きで神が払った努力の代価でもあります。そのような人たちをどうしてたやすくサタンに渡せるでしょうか。
人々は神の試練をしばしば懸念し、恐れながら、常にサタンの罠の中で生き、サタンに攻撃され、虐げられる危険な領域で生活しています。それでも人々は恐れを知らず、動揺することもありません。これはどういうことでしょうか。神に対する人間の信仰は、その人が見える物事に限られます。人間に対する神の愛と気遣い、あるいは神の優しさや配慮に対してまったく感謝することがありません。神の試練、裁き、刑罰、威厳、怒りに対するわずかな不安と恐れを別にして、人間は神の善意をほんの少しも理解したことがないのです。人々は試練と聞いただけで、神にあたかも隠れた動機があると感じており、また神が自分たちに対して何をするかに気づかないまま、神は邪悪な意図を抱いていると信じる人さえいます。そのため、人々は神の主権と采配に従うと叫びながら、同時にあの手この手で人間に対する神の主権と采配に反対するのです。気をつけなければ神によって間違った方向へ導かれてしまう、自分の運命をしっかり握っていなければ、自分がもつものをすべて神に取り上げられてしまい、人生すら終わってしまうかもしれないと信じているからです。人間はサタンの陣営にいますが、サタンに虐げられることを恐れず、またサタンに虐げられていながら、サタンに囚われることを恐れません。人間は神の救いを受け入れると言い続けながら神を信頼せず、神がサタンの爪から人間を真に救うことも信じません。人がヨブのように神の指揮と采配に従うことができ、自分の存在全体を神の手に委ねることができれば、ヨブと同じ結末を迎えられる、つまり神の祝福を受け取れるのではないでしょうか。神の支配を受け入れ、それに従うことができれば、失うものなどあるでしょうか。ゆえに忠告しますが、あなたがたは自分の行ないに注意し、自分に降りかかろうとしているすべてのことに気をつけるべきです。軽はずみに、あるいは衝動的になることなく、神、および神があなたに用意した人や物事を、自分の激情や天性によって、または自分の想像や観念に従って扱ってはなりません。自分の行ないに気をつけ、さらに祈って求め、神の怒りを招いてはいけません。それを憶えておきなさい。
『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)
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Emmanuel
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