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- 鏡を通して見る
このブログのタイトル「鏡を通して (Through a Glass)」は新約聖書コリント人への第一の手紙13章12節から取っています。「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(口語訳)For now we see through a glass, darkly; but then face to face: now I know in part; but then shall I know even as also I am known.(KJV)ここでパウロは終末(世の終わり)について語っています。「
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- 『シンプリー・グッドニュース』完成しました
すでにお知らせしているN・T・ライト著『シンプリー・グッドニュース』(あめんどう)が完成し、昨日神学校に届きました。この本の翻訳に取り掛かったのはずいぶん前になりますが、ついに完成にこぎつけて感無量です。お世話になったあめんどうさんに心から感謝します。以下に紹介するのは、「訳者あとがき」の抜粋です:矮小化された「福音」理解の問題点言葉というものは、皆が当たり前のように使っている常用語ほど、その理解が曖昧になることがありますが、「福音」はその好例でしょう。この言葉は一般にも使われます(「この新薬はがん患者にとっての福音である」など)が、キリスト教会におけるほど頻繁に使われることはありません。「福音を伝える」「福音を信じる」「福音的」「福音主義」「福音派」等々、教会では日常的にこの言葉が使われま
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(6)
(このシリーズの先頭はこちら)それでは、初代教会のクリスチャンたちの聖書解釈法はどのようなものだったのでしょうか?使徒たちがユダヤ人たちに対してイエスがキリストであることを旧約聖書から論証し、彼らの議論は少なくともある程度の説得力を持っていたことから、彼らの解釈は当時のユダヤ人たちの旧約聖書理解と何らかの連続性を有していたということは確かです。ただし、当時のユダヤ的釈義法は今日の歴史的・文法的釈義とはかなり異なるものでした。当時ももちろん旧約聖書の字義的な解釈法(今日で言う歴史的・文法的方法に近いもの)は存在しましたが、それに加えてミドラシュ、ペシェル、アレゴリー的解釈といった方法で、字義的な意味を超えた意味を旧約テキストに読み取る試みがなされていました。ミドラシュとはラビによる聖書解釈(注
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- 「福音」とは何か(関野祐二師ゲスト投稿 その4)
(その1 その2 その3)関野祐二先生によるゲスト連載、今回は物語神学について語ってくださいます。「『福音』とは何か」の四回目は、「福音の物語」です。これまで述べてきたように、「福音」は「十字架による罪からの救い」のような単純化された表現だけでは言い尽くせない、豊かな内容を包含する概念。これを、旧新約聖書を貫く壮大な神の物語として説明するのが、物語神学による福音提示です。つまり、聖書を形作る諸要素、教理を支える証拠聖句をいったんバラバラにし、聖書論/啓示論から始まり終末論に至る聖書教理の枠組みに従い再構成した上で、主に救済論から「信仰義認」を核とした救いの使信を抽出する従来型の福音理解ではなく、聖書に啓示された神の物語そのもの、王なる主イエスの物語全体を福音と考えるのです。以下、近年邦訳出版
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- オープン神論とは何か(1)
昨年、グレゴリー・ボイドの著書Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)を取り上げて、「確かさという名の偶像」という25回シリーズで紹介させていただいたことがあります(最終回の記事に、過去記事へのリンクが貼ってあります)。これによって、恐らく日本で初めて、ボイドの神学的主張をある程度まとまった形で紹介することができたのではないかと思います。これから何回かにわたって、ボイドが支持するある神学的潮流に光を当てていきたいと思います。それはopen theismと呼ばれるものです。これは日本ではまだ定着した訳語がなく、「開かれた神論」などと呼ばれることがありますが、このブログでは「オープン神論」と呼んでいきたいと思います。オープン神論的な考え方は古くからありましたが、1990年代ご
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- キリストにある和解(録画リンクあり)
11月27日(月)に福音主義神学会東部部会の秋期公開研究会がオンラインで開催され、司会を務めさせていただきました。20231127_jets-e_pamphletダウンロード東部部会では今年度の年間テーマを「キリストにある和解と平和」とし、春の研究会では「キリストにある平和」をテーマに、聖書学の分野からの研究発表を行いました(こちらを参照)。今回の秋の研究会では「キリストにある和解」をテーマとして、藤原淳賀先生と長下部穣先生から講演を頂きました。藤原先生は「和解:キリストを通し天と地をつなぐ生き方」と題して、また長下部先生は「神学の受肉としての和解の実践と葛藤:修復的正義を事例として」と題して、それぞれ素晴らしい講演をしてくださいました。昨年度、2023年の年間テーマを決めた時には、すでにロ
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- 戦争と神学者(4)
(このシリーズの先頭はこちら)前回は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)における、カール・バルトの神学の影響について考察しました。書翰にはバルトからの著作の引喩が多く含まれ、彼の神学からの影響を随所に見ることができます。それでは、当のバルト自身の戦争との関わりはどのようなものだったのでしょうか?1933年にアドルフ・ヒトラーが政権を奪取すると、キリスト教会の統制をもすすめていきました。ナチスに迎合する国粋主義的・民族主義的なキリスト者たちによる「ドイツ的キリスト者信仰運動」は力をつけていき、ヒトラーの下での教会の一元化を目指していきました。彼らはユダヤ人の公職からの追放を定めた「アーリア条項」を教会にも導入することを求めていきます。「ドイツ
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- 王なるイエスの福音
所属教会で礼拝説教の奉仕をしましたので、多少手を加えたものをお分かちします。* * *「王なるイエスの福音」(使徒の働き2章32-36節) 32 「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。34 ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せになった、 35 あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。 36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストと
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- 「パウロ中心主義」を超えて
福音主義神学会の全国研究会議における、「信仰のみ」についての発表で提起した問題の一つは、聖書のすべてをパウロ神学のレンズを通して読もうとする傾向についてでした。「信仰と救い」というテーマが議論されるとき、しばしばパウロ書簡における「信仰義認」をめぐって議論がなされます。パウロによる信仰義認論の解釈、およびパウロ神学におけるその位置づけが聖書学の重要課題の一つであることはいうまでもありません。けれども、その一方で、信仰の問題について、パウロ以外の新約文書、とりわけ大きな割合を占めるナラティヴ(福音書・使徒行伝)による証言が不当に軽視されてきたのではないだろうかと思います。たとえば福音書において「信仰と救い」という主題が語られるとき、福音書のテクストが語ることにじっくりと耳を傾ける前に、条件反射
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- 聖書(ジョージ・ハーバート)
長いシリーズが続いたので、軽めの短い記事もアップしていきたいと思います。ジョージ・ハーバート(George Herbert, 1593年4月3日 – 1633年3月1日)はイングランドの詩人で、信仰にあふれた詩を多数残しています。今日はその中でも特に私の好きな詩を紹介します。The Holy Scriptures II.O that I knew how all thy lights combine, And the configurations of their glory! Seeing not only how each verse doth shine,But all the constellations of the story.This verse marks t
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- クリスマスの星
イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 ・・・彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(マタイの福音書2章1-2、9-10節)東方の博士たちが星に導かれて幼子イエスを拝みに訪れた話は、聖書にあるクリスマスの物語の中でも、ひときわ印象的なエピソードです。教会の降誕劇などでも馴染み深いこの話ですが、一般に知られているストーリーには、聖書に書かれていない要素もあり
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- 戦争と神学者(3)
前回は、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)の内容を概観しました。今回は、神学という視点から本書翰を考察してみたいと思います。その中で特に、スイスの改革派神学者カール・バルト(1886-1968)の神学が本書翰に及ぼした「影響」について考えます。ここで「影響」と「」をつけているのは、それが本当の意味でバルトの真意・神学を正しく受けとめたものか、疑問があるからです。カール・バルトバルトの神学は1925年頃から日本に紹介され始め、1930年代以降にその影響は決定的なものとなり、多くの神学者がバルトの影響を受けたのみならず、西田幾多郎、三木清、和辻哲郎といったキリスト教会外の思想家たちにまで注目されるに至りました。そもそも日本の教会はドイツ神学の影
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- ルカ文書への招待(8)
(① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦)8回にわたってEquipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足をお送りしてきましたが、今回がいよいよ最終回になりました。カンファレンスに参加しない人々にとっても、ルカ文書に興味を持っていただけるきっかけとなれば幸いです。* * *ルカが語る福音の物語⑧ 「すべての主であるキリスト」8回にわたって、ルカ文書(ルカの福音書と使徒の働き)について概観してきました。ルカはイエスと教会の物語を、地上における神の救いのご計画の現れとして描いています。そして、そのストーリーは、地中海世界におけるローマの支配という歴史的現実を背景として展開していきます。「福音」とは、イエス・キリストを通して神の国、すなわち神の王としての支配
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- 待ち望むということ
今週からアドベント(待降節)に入り、教会暦では新しい年を迎えました。アドベントについてはこちらの過去記事でも書きましたが、二千年前のキリスト降誕のできごとを思い起こすとともに、キリストの再臨を待ち望むという意味があります。そしてまた、信仰者が1月1日から始まるこの世の暦とは異なる時間のサイクルに生きることは、この世の世界観とは異なる神の国の時空に生きることにほかなりません(これについてはこちらの過去記事を参照してください)。個人的に、今年の待降節は文字通り「待つ」ということの意味を深く考えさせられています。ルカ福音書の降誕物語では、イスラエルの救いを待ち望む忠実なユダヤ人が何人も登場しますが、興味深いことにそのほとんどが老人です。バプテスマのヨハネの両親であるザカリヤとエリサベツしかり(1章
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(2)
前回の投稿で、「歴史的・文法的方法」という聖書解釈法について書きました。これは読んで字のごとく、聖書の各文書が書かれた歴史的背景と、原語(ギリシア語・ヘブル語・アラム語)テキストの文法的分析とを考慮して、聖書記者がオリジナルの読者に伝えようと意図したメッセージを読み取ろうとする方法ということです。聖書はある日突然天から降ってきた書物ではありません。何千年にもわたる歴史の中で、さまざまな時代や場所に生きた何十人もの人々が書き記した書物のコレクションです。もちろん、福音主義的クリスチャンは、聖書の究極的な著者は神ご自身であると信じているわけですが、一つ一つの聖書の書巻は特定の歴史的状況の中で、実在の人間である聖書記者によって、ある特定の読者層に向けて書かれたものです。そういう意味で、聖書は「神の
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- 山口希生師オンラインセミナー
以前ご紹介した、山口希生先生の『ユダヤ人も異邦人もなく パウロ研究の新潮流』の出版記念オンラインセミナーが、聖契神学校主催で行われますので、ご案内します。 パウロ研究の新視点(NPP)の旗手の一人であるN・T・ライトに学んだ講師による本格的な入門セミナーとして、心からおすすめします。セミナーは11月4日から12月2日まで5週にわたり、毎週土曜日13:00~15:30にZoomで行われます。オンラインのセミナーですので、世界中どこからでも参加できます。もちろん、講師の山口先生に直接質問をすることもできます。また、ご都合のつかない回があっても、後から録画で視聴することもできますので、興味のある方はぜひご参加ください。申込締切は11月1日(水)です。詳しい情報とお申し込みは、聖契神学校のホームペー
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- オープン神論とは何か(4)
(その1 その2 その3)第2回、第3回の投稿では、オープン神論の聖書的根拠について、ごく簡単に概観しました。これまで述べてきましたように、オープン神論の特徴的な主張は、「未来は部分的に開かれている」ということです。今回はこの点についてもう少し詳しく説明していきたいと思います。部分的に開かれた未来オープン神論によれば、未来は部分的には確定したものとして存在し、部分的には可能性として存在しています。神はこれらの存在をそのまま、つまり確定したことがらは確定したことがらとして、可能性として存在するものは、可能性として認識しています。つまり、神は未来に起こるできごとすべてを確定したものとして予知しているのではなく、あることがらに関しては起こるかも知れないし起こらないかも知れないできごととして認識して
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- イスラエルの王イエス(1)
今年もアドベント(待降節)に入りました。イエス・キリストの最初の到来(クリスマス)を覚え、次なる到来(再臨)を待ち望む期間です。そこでこの機会に、イエスの到来の意味について考えてみたいと思います。 マタイ福音書から、イエスの誕生告知の箇所を取り上げます。イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと
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- 戦争と神学者(6)
(このシリーズの先頭はこちら)「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」(以下「書翰」。全文はこちら)について述べてきたシリーズも、今回で最終回としたいと思います。まとめに入る前に、第一回でも述べたことをもう一度確認したいと思います。このシリーズの目的は、特定のグループや個人を批判することにあるのではありません。戦時中の極限状況の中で先人が取った言動を、現代の平和な時代に生きる私たちが軽々しく裁くことができるものではありません。しかし、歴史の中で過去にどのようなことが起こったかを知ることは、現代に生きる私たちが今後同じ過ちを繰り返さないために必要不可欠な作業であると信じるために、敢えて歴史の暗部に光を宛てるような内容を書いてきました。同様の検証作業はすでに多くの方々がなさってお
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- 「聖書信仰」についての覚え書き
『舟の右側』の最新号(2016年11月号)には興味深い記事がいくつも掲載されていますが、その中の「今『聖書信仰』を考える」という特集を読みながら考えたことを書き留めておきます。今回の特集では特に聖書の「無誤性」(聖書は科学や歴史等に関する内容も含めてあらゆる点で誤りがないとする考え)について繰り返し取り上げられていました。その中で、「聖書の無誤性は妥当な概念か」「無誤性と無謬性(聖書は救いと信仰生活の領域において誤りがないという考え方)のどちらを取るべきか」という、福音派キリスト教会の中で従来ありがちだった議論を超えていこうとする方向性が見えて好感が持てました。このブログでは、無誤性そのものというよりは、それが前提としている聖書観について考えたことを書きたいと思います。無誤性と関連した概念に
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- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
