クリスマスの星

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。 ・・・彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。(マタイの福音書2章1-2、9-10節)

東方の博士たちが星に導かれて幼子イエスを拝みに訪れた話は、聖書にあるクリスマスの物語の中でも、ひときわ印象的なエピソードです。

教会の降誕劇などでも馴染み深いこの話ですが、一般に知られているストーリーには、聖書に書かれていない要素もあります。

たとえば、東方の博士は「3人」であるとされます(メルキオール、バルタザール、カスパールという名前までつけられています)が、聖書には彼らが3人であるとはどこにも書かれていません。これはおそらくイエスに3種類の贈り物(黄金、乳香、没薬)がささげられた(11節)ことから来た後代の想像にすぎません。マタイはただ「博士たち」と複数形で書いてあるだけですので、実際彼らが何人であったかは分かりません。当時の世界では、他国の世継ぎが誕生した時には、公式の使節団を送って祝うのが通例でした。この博士たちがそのような公式の使節団であったかどうかは分かりませんが、ヘロデやエルサレムの住民を驚かせるほどの大集団であったと思われますし、高価な贈り物を持参するだけの地位のある人々だったことは間違いないと思います。

また、降誕劇ではイエスが生まれた夜に羊飼いと共に博士たちが訪れたという設定になっていることも多いですが、これもマタイの記述とは食い違います。16節でヘロデは生まれたばかりの乳幼児だけを殺したのではなく、「二歳以下の男の子」を皆殺しにしたとありますので、この時イエスはほぼ2歳くらい、ヘロデが用心のために殺す子どもの年齢に幅を持たせていたとしても1歳にはなっていたと思われます。博士たちがイエスが生まれた時に自分たちの国でその星を見て、そこから長い旅をしてエルサレムに着くまでには、かなりの時間を要したに違いありません。

さて、東方からの「博士たち」と言われる彼らは、いったいどのような人々だったのでしょうか? マタイが用いているギリシア語は「マゴス(複数形はマゴイ)」ですが、これは使徒行伝13章では「魔術師」と訳されていることばで、おそらく占星術師のような人々であったと思われます。彼らは自分たちの国で特徴的な星が出現したのを見て、それがユダヤ人の王の誕生を表すものだと解釈したのです。彼らがやってきた「東方」はどの地域を指すのか、特定するのは困難です。候補としてはアラビア、バビロン、ペルシアのような国々が考えられますが、重要なのは彼らは異邦人であったということです。

博士たちを導いた星の正体についてはいろいろな説がありますが、超新星のような自然現象でないことは確かでしょう。自然の星が特定の家の場所を指し示す(9節)などということはありえないからです。ですから、博士たちを導いたのは、何らかの超自然的な光であったと思われます。ある人々はこれは天使であったと考えますが、これは現代人が思うほど突飛な解釈ではありません。古代世界の人々は天の星は生きている天使であると考えていたからです(ダニエル12:3、1コリント15:40-41等を参照)。

いずれにしても、この不思議な話のポイントは、異邦人が「ユダヤ人の王」キリストの誕生を祝い、このお方を彼らの王として礼拝した、ということです。マタイの福音書は随所に異邦人宣教の主題がちりばめられていますが、ここもその一つです。東方の博士たちの礼拝は、この福音書の最後に明確に語られている異邦人宣教の主題(28:18-20)を先取りするものになっています。博士たちが幼子イエスに贈り物をしたという話も、旧約聖書にある、国々の民がイスラエルの王にみつぎを納めるようになるという記述(詩篇72:10-11、イザヤ60:1-6など)を想起させるものです。

東方の博士たちが不思議な星に導かれてイエス・キリストを礼拝しに来た、というマタイの記述は、いろいろなことを考えさせてくれます。聖書は占星術を含むあらゆる呪術を禁じています。博士たちが占星術師であったことで、マタイが彼らを否定的に描いている、あるいはこのエピソードの目的はオカルト批判であると考える解釈者もいますが、福音書の文脈から考えると、マタイが彼らを肯定的に描いているのは明らかです。

これは、ルカ10章の「よきサマリア人のたとえ」と比較すると分かりやすいと思います。このたとえの主人公である「サマリア人」は、ユダヤ人からは正統的なヤハウェ信仰の継承者とは見なされていませんでした。(ヨハネ8:48によると、当時のユダヤ人は、サマリア人は悪霊に憑かれていると考えていたようです)。けれどもイエスのたとえの主眼は、まさにそのようにして神の民から除外されているように見えたサマリア人が、律法の命じる模範的な愛の行いをしたことだったのです。それはユダヤの宗教的指導者であった祭司やレビ人が、傷ついた旅人を助けることを拒否した態度とは対照的であり、自分たちの宗教の「正統性」を隠れ蓑にして神の御心を行うことを怠っていたユダヤの宗教家たちへの痛烈な批判になっています。

同様にマタイ2章では、異教徒の博士たちのキリスト礼拝が、イエスを殺害しようとするヘロデの悪意とはっきり対照的に描かれています。つまりここに見られるのは、聖書にしばしば登場する「イスラエルの不信仰と異邦人の信仰」という対比のパターンであり、偏狭な選民主義への批判です。マタイが描いている博士たちは、いわば「よき占星術師たち」でした。この表現に違和感を覚える読者は、ルカ10章のたとえでイエスはサマリア人について「ユダヤ教に改宗したサマリア人」とはひとことも言っていないことに注意すべきです。当時のユダヤ人にとって、「よきサマリア人」という表現は、「よき占星術師」や「よきオカルティスト」と同程度の否定的イメージを持っていたのです。彼について書かれている「よい」点はただ一つ、苦しんでいる人に愛を示したことでした。同様に、マタイは決して占星術を肯定しているわけではありませんが、彼のポイントは東方の異教徒がイエスを王と認めて礼拝したことであり、それは疑いなく肯定的な光の下に描かれているのです。

幼子イエスを礼拝するために東方から訪れた人々が「マゴイ」であったことで、マタイの読者が眉をひそめたということは大いにありえますし、マタイ自身もそのことは意識していたかもしれません。けれどもそのような最初の否定的な印象がナラティヴの進行につれてひっくり返されることこそが、まさにマタイのねらいだったのです。イスラエルの唯一神信仰は占星術を否定します。にもかかわらず、神は占星術を用いて博士たちをキリストのもとへ導かれました。これ以外の方法で、彼らがキリストについて知り、関心をいだき、ユダヤまではるばる旅をすることは不可能だったでしょう。神は彼らの世界観、彼らの理解できる言語を用いて、彼らに語りかけられたのです。クリスマスの星はその愛の光でした。博士たちの目は罪によって歪められ、汚れていたかもしれませんが、そこに真理の光を認め、それを追い求めていったとき、長い旅路の果てに、ついにまことの救い主に出会ったのです。

マタイは幼子イエスに出会った博士たちの変化を細やかに記述しています。まず、イエスのおられる家を見つけた時、「彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。」(10節)とあります。キリストとの出会いは、心に大きな喜びをもたらすものです。そして、幼子イエスを礼拝した後、「夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。」(12節)とあります。もはやヘロデ王に再び会う必要はありませんでした。本当の「ユダヤ人の王」は誰であるかを知ったからです。そして彼らは来たときとは異なる、「他の道」を通って帰っていったというマタイの記述は、滅びに至る道といのちに至る道の対比を思い起こさせます(マタイ7:13-14)。もしかしたらここでマタイは、博士たちに代表される異邦人の回心を暗示しているのかもしれません。彼らがどのような理解と動機のもとにユダヤまで旅をしてきたかは分かりませんが、それはキリストと出会い、それによって変えられることに比べれば、重要なことではなかったのだと思います。

このことは、キリストの受肉というできごとをとおして、神がいかにへりくだってご自分を低くされたかを表していると思います。神が人となられた時、神は神とはかけ離れた存在として来てくださり、そのようなものとして人々に認識されることをよしとされました。人がキリストに出会うのは、いつも思いがけない時と場所と方法を通してです――救い主はエルサレムの神殿でも王宮でもなく、ベツレヘムの貧しい家で、星を頼りにやってきた異教徒の占星術師によって見出されたのです。

*     *     *

今回の記事を書きながら思い起こしたことばが2つあります:

じっと瞬きもせず、青白くまばらな雲をとおして
飼い葉桶に寝かされた幼子の遥か上空から――
宇宙の深淵、反対側の果てから――その星は
岩屋の中を見つめていた。それは御父のまなざしだった。
(ヨシフ・ブロツキイ「クリスマスの星」より)

神は世界の厚みを横切って、われわれのもとにやって来る。
(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』より)

この二つの引用では、受肉のできごとが持つ宇宙的なスケールとひそやかな現れのパラドックスが実にコンパクトに表現されています。ブロツキイやヴェイユが、一般的な意味で正統的な「キリスト教徒」であったかどうか、私の限られた知識ではわかりません。(ヴェイユについてはこちら。ブロツキイは自らの信仰について語ることは少なかったようですし、私が以前読んだインタビューでも宗教に関してはあいまいな答えしか与えていませんでしたが、このような興味深い記事もあります)。たとえそうでなかったとしても、私にとって彼らは、注意深く読むならキリストについての深い洞察を与えてくれる存在です。彼らもまた、星に導かれて旅をした人々と言えるかもしれません。彼らだけでなく、今日も多くの人々が、同様の旅を続けています。そしてある日突然、彼らは教会の戸口に現われて、戸惑う私たちにこう訊ねるかもしれません:

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」

メシアン『幼子イエスに注ぐ20のまなざし』より「父なる神のまなざし」

 

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