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- 読書の死
友人の牧師が、ワシントン・ポスト紙に掲載されたフィリップ・ヤンシーの記事を紹介してくれましたが、それを読んで深く考えさせられてしまいました。ヤンシーの記事には、「The Death of Reading Is Threatening the Soul(読書の死が魂を脅かす)」という不穏なタイトルがつけられています。英語の読める方はぜひ元記事の全文を熟読することをおすすめしますが、その要約を紹介したいと思います。記事の中でヤンシーは、現代人が(そして彼自身が)いかに本を読まなくなったかについて書いています。全体的な読書量が減っただけではなく、じっくりと腰を据えて考えながら読まなければならない種類の本を読むことができなくなっている、というのです。ヤンシーはその一因はインターネットとSNSにあると
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- まだ暗いうちに(ナディア・ボルツ=ウェバー説教)
先日の投稿で、レイチェル・ヘルド・エヴァンズの葬儀でナディア・ボルツ=ウェバーが行った説教について紹介しましたが、ボルツ=ウェバー師の許可が得られましたので、全文を翻訳して投稿します(原文はこちら)。* * *まだ暗いうちに:レイチェル・ヘルド・エヴァンズへの鎮魂歌さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。(中略)しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれ
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- 黙示録における「福音」(5)
(このシリーズの先頭はこちら)前回の記事では、黙示録において「ほふられた小羊」としてのキリストのイメージが頻出することから、十字架の贖罪に見られる自己犠牲的な愛が黙示録のメッセージの中心にある、と述べました。そのような愛の神としてのキリストのイメージは、新約聖書の他の文書におけるそれとつながっていくものです。しかしその一方で、黙示録は終末における神の怒り、力による裁きの描写で満ち溢れているのも事実です。それは6章以降で展開する世の終わりのさばきの描写や、19-20章に描かれる再臨のキリストと悪の勢力との戦いなどに明らかです。黙示録に見られる、この二つの一見相反するような特徴は互いにどのような関係にあると考えたら良いのでしょうか?この問題を考えるためには、黙示録の言語がどのように機能するのかを
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- 『聖書信仰とその諸問題』への応答7(藤本満師)
(過去記事 1 2 3 4 5 6)藤本満先生による寄稿シリーズの第7回をお送りします。* * *7 主イエスが旧約聖書を用いるとき第7回、8回目となる二つの論考は、『聖書信仰とその諸問題』に掲載されている鞭木由行氏「キリストの権威と聖書信仰」をきっかけとして記しています。そして、筆者の応答は、1981年のAnglican Evangelical Assemblyで発表されたジェームズ・ダンによる「聖書による聖書の権威」(The Authority of Scripture According to Scripture, Churchman, 1983, 104~122, 201~225) から多くを援用しています。この講演論文でダンは「聖書(新約)は聖書(旧約)をどのように
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- グレッグ・ボイド・インタビュー(1)
このブログを以前から読んでくださっている方々には、アメリカの神学者グレゴリー(グレッグ)・ボイド博士はおなじみだと思います。同師の著書『疑うことの益 Benefit of the Doubt』についての紹介シリーズ(こちらの最終回にすべての記事へのリンクがあります)を掲載したこともありますし、オープン神論についてのシリーズも、主にボイド師の見解を紹介したものです(こちらを参照)。私はアメリカ留学時代にボイド師の牧会するウッドランドヒルズ・チャーチ(ミネソタ州セント・ポール)に通っており、先生とは何度もお会いしたことがあります。昨年末に渡米した際に同教会を訪れ、ボイド師にインタビューすることができました。オープン神論や同師の最新刊『十字架につけられた戦いの神 The Crucifixion o
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- きよしこの夜
するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章13-14節)クリスマスに関連して、何年か前に偶然耳にして衝撃を受けた曲があります。それは旧ソ連の作曲家アリフレート・シュニトケによる「きよしこの夜 Stille Nacht」です。同名の有名なクリスマス・キャロルに基づいて作られた曲なのですが・・・まずはお聴きください。聞き慣れた美しい讃美歌のメロディーが、何度も繰り返されるうちに次第に崩壊していく不気味さに、最初に聴いたときは強烈な不快感を覚えたものです。にもかかわらず、なぜかこの曲は私の中に強い印象を残しました。今年のアドベントになって、その意味を改め
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(14)
(シリーズ過去記事 ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬)前回は、聖書の救済史ナラティヴが教会共同体のアイデンティティを形成するということを述べました。今回はそれへの補足として、このような聖書テキストを通した共同体のアイデンティティ形成における聖霊の働きについて述べたいと思います。プロテスタント信仰において、教会が従うべき最終的な権威は聖書のテキストを通して語られる聖霊にあるとされてきました(たとえばウエストミンスター信仰告白を参照)。しかし、聖霊が教会にあって、聖書のテキストを通して語られるということは、聖書記者の意図した意味を正確に伝達するという以上のことがあります。私たちが言語を使う時、ただ単に情報を伝達するだけではなく、言葉を発することによっていろいろなことを行っていま
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- 聖書プロジェクトBOOK
ずいぶん長い間更新が滞っていましたが、またぼちぼち投稿していこうと思います。以前このブログで「聖書プロジェクト」について紹介したことがあります(こちら)。聖書プロジェクトは聖書に関する有益な情報を簡潔なアニメーション動画で伝えてくれる、とても有益なサイトですが、この働きのもう一つの魅力として、聖書各巻の内容をひと目で見渡せるように工夫した「ポスター」が提供されていることです。これらのポスターは、聖書各巻の全体像をひと目で概観するためにたいへん便利です。これらのポスターは聖書プロジェクトのサイトから無料でダウンロードできますが(こちら)、この度これらのポスターが本になり、本日入手しましたので、ご紹介します。この本は「聖書プロジェクトBOOK」といいます。これはクラウドファンディングによって制作
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- 進化(深化)する信仰(1)
先進的な仕事をする学者や思想家はたくさんいます。しかし、すぐれた思想家が必ずしもすぐれた書き手であるとは限りません。逆に、たとえその道の専門家でなかったとしても、現代の重要な思想を自らの人生経験のうちに内面化して、平易な文章をもって表現することに長けた人々もいます。キリスト教界で言えば、最先端の神学をより身近で親しみやすい形で一般のクリスチャンに紹介する、そんな人々の役割はたいへん重要なものだと考えています。なぜなら、神学は象牙の塔に閉じこもるのではなく、教会に仕えるものでなければならないと思うからです。私にとってそんな魅力的なクリスチャン著述家の一人が、レイチェル・ヘルド・エヴァンズです。1981年生まれのエヴァンズは、私よりも一世代下の若い作家ですが、2010年に出た処女作Evolvin
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- グレッグ・ボイド・インタビュー(2)
前回に引き続き、グレッグ・ボイド博士のインタビューをお送りします。今回はオープン神論の実践的意義について語っていただいた部分です。* * *――未来が開かれていると言う見解には、どのような実践的な意義があるのでしょうか?たとえば牧会において、どのような点が助けになりますか?GB:そうですね。あるレベルでは、アルミニウス主義とオープン神論の違いは単にその論理的一貫性にあります。もし自由意志を認めるなら、私たちが将来行うことがあらかじめ決定されているとどうして考えることができるのでしょうか?アルミニウス主義者は自由意志を固く信じていますが、にもかかわらず将来私たちが行うことは、私たちがそれを選ぶ前から永遠に定められていると考えるのです。けれども、彼らはオープン神論者と同じように行
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- N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(6)
(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5)今回は第3部「イメージを反映させる」を概観したいと思います。この部分で著者ライトは、第2部で提示したようなキリスト教信仰の要点に基づいて、今日の私たちがクリスチャンとして生きるとはどういうことなのかについて語っていきます。すでに見たように、第2部でライトはクリスチャンの世界観と、クリスチャンが語る物語(救済史)を提示しました。世界観はいわば舞台設定であり、救済史はその舞台上で展開していく神のドラマであると考えられます。しかし、聖書の物語は紀元1世紀の初代教会の物語で終わる、単なる過去の歴史物語ではありません。聖書の物語は今も継続中であり、私たちはその現在進行中の物語に参加するように招かれているのです。つまり、現代の私たちがクリスチャンとして生きると言う
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- 悪魔の解釈学(1)
そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。(使徒行伝17章10-11節)「神がデスヴォイスで歌うとき」の第4回で取り上げた、1980年代のアメリカで起こった反ロック/メタル運動には、保守的キリスト教会も深く関わっており、今日の日本のキリスト教会にとってもいろいろと意義深い教訓を残していると思います。そこで、キリスト者が一般社会、特に大衆文化の中にある悪魔的イメージをどう捉えるべきかについて考えてみたいと思います。アメリカの社会学者Deena Weinsteinのヘヴィー
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- 新改訳2017 最初の印象
先ごろ出版された、新改訳聖書の改訂版「新改訳2017」を入手しました。予約注文の機会を逸してしまいましたので、もう少し後になるかと思っていましたが、ある方のご厚意で手に入れることができました。心から感謝します。もちろん、まだ全巻をじっくりと通読したわけではありませんが、特に新約聖書を中心にざっと目を通して受けた印象(厳密な学問的コメントではなく)を記したいと思います。ちなみに、私は今回の改訂事業には一切関わっていませんので、あくまでも一読者としての感想であることをお断りしておきます。私がまず読んだのはルカ文書(ルカ福音書と使徒行伝)です。自分の専門分野でもあり、また近々これについてのコースを始めるということもあって、まずルカ文書全体を通読し、それから新約聖書の他の部分にもぱらぱらと目を通しま
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- 確かさという名の偶像(8)
(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5 6 7)このシリーズでは、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)に基いて、「確実性追求型信仰」の問題点を考察してきました。今回は第3章「確実性という偶像」を見ていきます。ボイドはこの章で、「確実性追求型信仰」の最大の問題点と彼が考える主題を取り上げます。彼は、このような信仰モデルは、聖書中最大の罪である偶像礼拝に陥っていると主張します。ボイドはこのような種類の信仰を持つ人々が意図的に偶像礼拝を行っているとか、彼らは救われないと言っているのではありません。しかし、確実性を追求し、疑いを避けようとするタイプの信仰は、確実性というものを偶像視することになってしまうと言います。ところで、「偶像礼拝」とは何でしょうか?それ
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- パンデミックを考える(3)
(その1 その2)このシリーズの第1回目はジョン・パイパー、第2回目はN・T・ライトによる、今回のパンデミックの考察を紹介してきました。今回取り上げるのは、ウォルター・ブルッゲマン著『信仰への召喚としてのウイルス:喪失・悲しみ・不確実の時代における聖書的省察 Virus as a Summons to Faith: Biblical Reflections in a Time of Loss, Grief, and Uncertainty』です。ブルッゲマンはアメリカの旧約聖書学者であり、このブログでも取り上げたこともあります(たとえばこの記事)。彼の膨大な著書の何冊かは日本語にも訳されています。ブルッゲマンの前書きの日付は今年の棕櫚の主日(4月5日)ですが、Nahum Ward-Levによ
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- ジョン・ウォルトン博士来日講演(1)
ホィートン大学の旧約学教授であるジョン・ウォルトン師が来日し、東京を中心として各地で講演会が行われています。そのうちのいくつかについて、概要を紹介していきます。まず5月12日(土)に、来日に合わせて発売されたウォルトン師の著書『創世記1章の再発見』(いのちのことば社発売)の出版記念講演会が御茶の水で行われました。この講演会では、同書の基本的内容を分かりやすく一般向けに説明されました。聖書解釈の原則はじめにウォルトン師は、聖書を誠実に解釈するにはどうしたらよいかということについて語られました。そこでは、「聖書は私たちのために書かれたものであるが(for us)、私たちに対して書かれたものではない(not to us)」ということが強調されていました(これは同師がいろいろなところで繰り返しておら
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- 人種差別と女性差別(藤本満師ゲスト投稿3)
(その1 その2)藤本満先生のゲスト投稿、3回目をお送りします。今回は先日私が投稿した記事とも重なる、差別の問題を取り上げてくださいました。時期的にもとてもタイムリーな寄稿をいただき、心から感謝しています。* * *「神の像」をゆがめて用いるとき――人種差別と女性差別 「キリスト者の生」「キリスト者の成熟」を念頭に置きながら、その根底にある「神学的人間論」を論じること、所詮、それは筆者にとっては手の届かぬ試みです。H. W. ヴォルフによる『旧約聖書の人間論』(1983年に邦訳)辺りから聖書の人間論に関心が持たれるようになりました。W. パネンベルク『人間学――神学的考察』(2008年に邦訳)はおそらく最も包括的な論でしょう。福音派では、河野勇一『わかるとかわる!《神のかたち
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- 受肉と順応(クリスマス随想)
さだめたまいし 救いのときに神のみくらを はなれて降りいやしき賎の 処女(おとめ)にやどり世人のなかに 住むべき為にいまぞ生まれし 君をたたえよ(讃美歌98番、2節)今年もクリスマスの時期がやってきました。クリスマスは、イエス・キリストの誕生を祝う時です。キリスト教会は、このことを、神が人となった受肉のできごととして理解してきました。つまり、宇宙の創造主なる神が自ら人間となることによって、ご自分を人間に啓示されたのです。神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。(ヨハネ1:18)しかし、神は抽象的・普遍的な意味で「人間」となられたわけではありません。そうではなく、「神のことば」(ヨハネ1:1、14)は特定の時代と地域に生きた、一人の個
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- 南野浩則師『聖書を解釈するということ』書評
今年の6月に南野浩則先生の『聖書を解釈するということ―神のことばを人の言語で読む』(いのちのことば社)が出版され、早速読んでとても感銘を受けました。南野先生は福音聖書神学校で教鞭を執っておられ、私も福音主義神学会などでお世話になっている先生です。このたびクリスチャン新聞に私が書いた書評が掲載されましたので、同紙の許可を得てその全文を掲載させていただきます(クリスチャン新聞のリンクはこちら)。多様性と幅を許容する聖書解釈―新たな議論の糸口に「聖書のみ」を掲げるプロテスタント教会において、聖書解釈は極めて重要な位置を占めている。本書は聖書解釈の理論的側面について、日本語で福音派の立場から書かれた良書である。著者は聖書を、神のことばであると同時に人間の言語を用いて生み出されたテクストとして捉える。
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(12)
(このシリーズの先頭はこちら)前回述べたソフト・ポストモダニズムのアプローチでは、聖書の解釈にはどうしてもある程度の幅が原理的に生じてきます。これに対して、第10回で提案した救済史的な視点を導入することによって、解釈の主観的暴走を防ぐことができると考えられます。今回はそれに加えて、もう一つの重要な枠組みについて考えてみたいと思います。それは教会共同体として聖書を読むという視点です。前にも書きましたように、歴史的・文法的方法によると、少なくとも理論的には、適切な方法を用いて聖書を解釈すれば、誰が読んでも同じ結論に達することになります。モダニズムの立場では、普遍的人間理性に従っていく限り、誰でも唯一の真理に到達することができるはずだからです。聖書も同じように、基本的には誰が読んでも(信仰者である

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
