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『いのちのことば』誌特集「50人が選ぶこの一冊」

本であれ音楽アルバムであれ、自分の好きなもの、思い入れのあるものを人に紹介するのは楽しいものです。他の人たちからおすすめを聞くのも同様です。それは単なる情報共有ではなく、その人のおすすめを通して当人の趣味や考え方、人となりを垣間見ることができるからです。その意味では、人に何かを推薦するのは緊張する体験でもあります。自分のおすすめを通して、自分自身の教養や人間性が見透かされてしまうような気になるからです。それでも、自分が大きな恵みを受けたものを他者と共有する楽しみは、他に代えがたいものがあります。ビブリオバトルが流行しているのも、そんな理由からかもしれません。さて、月刊『いのちのことば』誌が今年の7月号で500号目を迎えます(創刊は1979年1月だそうです)。その節目を記念する特集として、(福

聖書の歴史的コンテクスト

私は神学校で聖書解釈学を教えていますが、学生たちに口を酸っぱくして教えていることは、「聖書解釈はコンテクストがいのちである」ということです。「コンテクスト」という言葉は「文脈」「前後関係」などと訳されますが、聖書のテクストはその置かれている具体的な文脈の中で解釈してはじめてその意味を正確に理解できるということです。聖書解釈におけるコンテクストには大きく分けて二種類あります。一つは「文学的コンテクスト」と呼ばれるもので、これは聖書のテクストそれ自体の文脈、すなわち、当該箇所の前後に何が書いてあるか、ということです。(この場合の「文学的」という表現には「フィクション」というニュアンスは含まれません。)たとえば聖書の中には、「神はない」という言葉が出てきますが、だからといって聖書が神の存在を否定し

物語神学とキリスト者の生(藤本満師ゲスト投稿1)

当ブログではもうおなじみの藤本満先生ですが(過去記事はこちらやこちらを参照)、このたび神学的人間論というテーマで、シリーズで投稿していただけることになりました。今回はその第1回をお送りします。*     *     *神の像に創造され、キリストの像に贖われる――キリスト者の「生」と人間論」の今日的諸課題――2020年5月に福音主義神学会〔東部)で、このテーマで講演をさせていただく予定でした。それは11月に開催予定の学会全国研究会議が「キリスト者の成熟」であるからです。とりあえず、私の講演は来年に21年に延期となりましたが、今回用意したものを東部の許可を得て、山﨑ランサム和彦先生のブログに掲載させていただくことにしました。まだ全部まとめていません。書きやすいところから書き始めました。4つ論考を

墓がひらくとき

さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。(マルコ16章1-4節)昨日はイエス・キリストの復活を記念するイースター(復活祭)でした。イエスが十字架に架けられて殺されたとき、その遺体は岩を掘ってつくった墓に収められ、大きな石を転がして入口がふさがれました。そして四福音書はどれも、イエスが復活した日にその石が墓の入口から取り除かれたことを記しています。イエスの復活は、墓が開いたときで

Global Returnees Conference 2018(その2)

昨日の記事に引き続き、GRC18での聖書講解メッセージを掲載します。集会3日目のテーマは「神の民=家族」でした。前日に行われた1回目の聖書講解は、「福音」とは何か、ということについてのメッセージでした。これは分科会でも取り上げさせていただいたのですが、新約聖書の伝えている「福音」(良い知らせ)とは、「十字架につけられたイエスがよみがえって、全世界を治める王となられたことに関するニュース」です。2回目の聖書講解では、この内容を受けて、それではその「福音」が具体的にどのようにこの世界にインパクトを与えていくのか、ということについてお話しさせていただきました。「教会を築き上げる」26  サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは信じないで、恐れていた

神がデスヴォイスで歌うとき(1)

またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。(ヨハネの黙示録14章2節)私は音楽を聴くのが好きです。いわゆる「キリスト教音楽」だけを聴くわけではありませんが、広い意味で神への信仰を表現した音楽を多種多様なスタイルで聴くのが好きです。クラシック、ジャズ、ポップス、民族音楽・・・イエス・キリストへの信仰が実にさまざまなスタイルで表現されるのを耳にするにつけ、神の創られた世界と教会の豊かな多様性に触れる思いがします。そんなわけで、このブログでも過去にU2やブルース、メシアニック・ジューの賛美など、いろいろな音楽を取り上げてきました。さて、そのような多様な「キリスト教音楽」の中で、私がとりわけ関

ルカ文書への招待(3)

(① ②)Equipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足、第3回は、ルカ文書の著者と読者についてです。*     *     *ルカが語る福音の物語③ 「ルカ文書の著者と読者」今回は、ルカ文書の著者と読者について考えて見たいと思います。キリスト教会では伝統的に、テオピロに宛てて書かれた二つの新約文書を書いたのは、ルカという人物であったと考えてきました。このルカはどのような人だったのでしょうか?使徒の働きの、パウロの伝道旅行を記した部分には、「私たち」という二人称複数形で書かれている箇所があります(たとえば使徒16章10節以降)。これらは、同書の著者が実際にパウロに同行して自ら見聞きしたできごとを記している部分と考えられます。つまり、ルカはパウロに同行し

N・T・ライト著『使徒パウロは何を語ったのか』について

いのちのことば社から出版されたN・T・ライトの『使徒パウロは何を語ったのか』について、同社の月刊誌『いのちのことば』6月号に短い紹介文を書きました。これは「聖書を掘り下げる――豊かな福音理解を求めて」という特集の一部で、岡山英雄先生によるリチャード・ボウカム著『聖書と政治』の紹介記事とともに掲載されました。字数の関係で本格的な書評という形では書けませんでしたが、これをきっかけに多くの方々がこの本を手にしてくださることを願っています。その原稿を、同誌の許可をいただいてブログにも掲載します。 *     *     *使徒パウロは本当は何を語ったのか?――N・T・ライトによるパウロの「福音」N・T・ライトの魅力とは何でしょうか?それは、歴史的正統的キリスト教信仰に根ざしつつ、聖書を深く掘り下げて

焚き火を囲んで(新刊紹介に寄せて)

「焚き火牧師」こと大頭眞一先生の対談相手として参加させていただいた本が出版されましたので、ご紹介します。『焚き火を囲んで聴くキリスト教入門』(いのちのことば社)です。この本はもともと『百万人の福音』で大頭先生がなさっておられた対談シリーズを本にまとめたものです。私は神義論のテーマで語らせていただいていますが、その他にも聖書やクリスチャン生活に関する疑問、キリスト教と他宗教や社会との関わりなど、多彩な主題について、これまた多彩な顔ぶれの方々との対談がまとめられています。「はじめに」で大頭先生は、白か黒かと言い切ることのできない微妙なところを焚き火を囲んでいるように語り合って本にしたかったとおっしゃっています。したがって、私の章も含めて、この本に書かれているさまざまな見解を、それぞれの主題に関す

平和の君(1)

ルカの福音書によると、イエスが誕生した夜、野宿をしながら羊の番をしていた羊飼いたちに天使が現れて、救い主の誕生を告げました。その時天の軍勢が現れてこう歌ったと記されています。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章14節)天使はそれに先だって、羊飼いたちにこう語っています。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。(11節)ダビデの町に救い主(キリスト=メシア)が生まれたというこのメッセージは、この時に誕生した幼子は王であるということを示しています。ルカが世界の王としてのイエスの誕生を、ローマ皇帝との対比の中で描いているということについては、過去記事「本当は政治的なクリスマス物

本当は政治的なクリスマス物語

アドベント(待降節)の二週目に入りました。毎年クリスマスの時期になると、 教会ではイエス・キリストの降誕物語が再現されます。クリスチャンでなくても、子どもの頃キリスト教系の学校で降誕劇に出演したという思い出を持っておられる方々も多いと思います。そのような劇ではたいてい、牧歌的で暖かい雰囲気の中でイエス・キリストの誕生が描かれていきます。馬小屋で生まれた幼子イエスと両親を動物たちが取り囲み、天使が羊飼いたちに救い主の誕生を告げ知らせ、東方から三人の博士たちが星に導かれて登場します。最後にはオールスターキャストで神を賛美して終わる、というパターンが多いようです。現代のクリスチャンたちには、このような「クリスマス物語」が一般的なイメージとして定着しているように思います。このような「クリスマス物語」

日本伝道会議に参加して

9月19日(火)から22日(金)まで、岐阜市の長良川国際会議場で行われた第7回日本伝道会議(JCE7)に参加してきました。今回は会場での対面参加とオンライン参加の2つの参加方法がありましたが、私は妻とともに対面で参加することができました。今回私は運営に関わったわけでもなく、また奉仕者として何か役割が与えられたわけでもありませんので、あくまでも一参加者としての感想を記したいと思います。今回は「『おわり』から『はじめる』宣教協力」をテーマに開催されました。このテーマについてはJCE7の公式サイトで次のように説明されています:私たちにとっての「おわり」とは、第一に、今の教会が直面している行き詰まりに等しき状況、つまり今やらなければ後がない状況としての「正念場(おわり)」であり、第二は、神が計画して

進化(深化)する信仰(2)

(前回の記事)今年に入って、レイチェル・ヘルド・エヴァンズの新刊Inspired(『霊感された書』)が発売されることを知り、早速予約注文して読みました(正確に言うと、多くの部分はキンドル版の音声読み上げ機能を使って通勤途中に聴いたのですが)。Image from rachelheldevans.com今回彼女が取り上げた主題は、ずばり聖書です。本書はこんな書き出しで始まります。昔むかし、あるところに、魔法の本を持った少女がいました。――本書のメッセージはこれまでのエヴァンズの著作と同じパターンに従っています。彼女が生まれ育った保守的福音派の聖書観は、聖書をそのすべての言葉が直接的に神の真理の声を反映している「魔法の本」と見なすようなものでした。しかし、成長した彼女がその知的視野を広げていくに

ルカ文書への招待(4)

(① ② ③)Equipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足、第4回は、ルカ文書の序文についてです。*     *     *ルカが語る福音の物語④ 「『みことば』の書」どのような本であっても、序文というのは、その本を理解するために欠かせないものです。序文には、その本が何について、どのような目的で書かれたのかが記されています。今回は、ルカ文書(ルカの福音書と使徒の働き)の序文を見てみましょう。 私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのた

聖書を「聴く」ということ

「聖書を読む」というと、どんな情景をイメージするでしょうか。多くの人は、一人で聖書を開いて黙読する様子を思い浮かべるのではないかと思います。しかし、このような「聖書の読み方」は、歴史的に言えば比較的最近に出てきたものです。現代の私たちは簡単に個人で聖書を所有して、好きな時に好きな場所で読むことができます。しかし、神の民の歴史の中で多くの時代には、聖職者のような一部の人間を除いて、大多数の人々は自分一人で聖書を読むことはありませんでした。昔は書物は高価で個人で所有することは困難でしたし、多くの人々はそもそも読み書きができませんでした。古代世界の文化はテクスト中心ではなく、口頭のコミュニケーションが中心でした。彼らにとって聖書に親しむ唯一の方法は、教会で聖書が朗読され、解き明かされるのを「聴く」

ジェームズ・フーストン師との出会い

1月末にワシントン州で奉仕があり渡米したのですが、その際ヴァンクーヴァーにいる知人を訪問するため、カナダまで足を伸ばしました。その折りに、かねてから興味のあったリージェント・カレッジを見学することができました。現地にお住いの荒木泉さんがキャンパスを案内してくださり、チャペルに出席した後、同大学教授であるジェームズ・フーストン先生のお宅に連れて行ってくださいました。リージェント・カレッジにてスコットランド出身のJames M. Houston博士(ラストネームの綴りはテキサスの都市ヒューストンと同じですが、「フーストン」と発音するそうです)はリージェント・カレッジの初代学長を務めた創立者の一人で、福音主義における霊性神学の分野で世界的に著名な神学者です。はじめてお会いした博士は94歳という高齢

信仰、理性、疑い、そして聖書

神学校で教えていると、多くの学生が知的な学びと信仰や霊性との間に葛藤を覚えるという現実に毎年直面します。神学や聖書学などの学びを通して自らの信仰を理性的に反省していくうちに、それまでの人生で育んできた信仰理解との間に齟齬や違和感を感じることがあります。また、これまで何の疑問も感じていなかったテーマについて、同じキリスト者の間でも多様な考えがあることに混乱を覚えることもあります。学べば学ぶほど聖書や神が分からなくなるということも起こってきます。実はこれは珍しい現象ではありません。神学校とは少し環境が異なりますが、アメリカの福音主義キリスト教系大学における、同じような問題について、次のような記事があります。この記事でも述べられているように、信仰について葛藤する(それには様々な種類がありますが、理

科学と聖書(1)

3月29日(水)から31日(金)にかけて、米テキサス州ヒューストンで開催されたバイオロゴス・カンファレンスに参加して来ました。バイオロゴス(BioLogos)とはアメリカ国立衛生研究所(NIH)の所長であり、ヒトゲノム計画の指導者でもあったフランシス・コリンズ博士によって2007年に設立された、科学とキリスト教信仰の融和を追求・促進することを目的とした団体です。BioLogosは、bios(いのち)とlogos(ことば)という二つのギリシア語をもとにした造語です。同団体の説明によると、この名称は神のことば(ロゴス)であるキリスト(ヨハネ1章1節)がすべてのいのちの源であるということを表しているそうです。(ちなみに、ギリシア語には「いのち」を表すことばとしてゾーエーとビオスがあり、前者は生命の

驚くばかりの

このところアメリカの古い黒人音楽ばかり聴いています。神学校の講義を終えて帰宅するために、深夜ひとり車を走らせているときなど、アコースティックギター1本で歌われる素朴なゴスペルやブルースにほっと心が和みます。そんなときによく聴く1枚のアルバムがあります。1966年に録音されたFred Mcdowell の “Amazing Grace: Mississippi Delta Spirituals by the Hunter’s Chapel Singers of Como, Miss.” 。アメリカのディープサウス、ミシシッピ州コモにあった教会の聖歌隊による黒人霊歌集です(私が所有しているのは、もう1枚のアルバムとカップリングになった2枚組CD)。著名なブルー

確かさという名の偶像(23)

(シリーズ過去記事 第1部 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19 20 21 22)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第12章「十字架の約束」を取り上げます。前章でボイドは、私たちが神に対して信仰を持つときに信頼すべきなのは、神が何らかの具体的な祝福を与えてくださるという「約束」ではなく、祝福してくださる神ご自身のご性質であると論じました。この最後の章でボイドは、そのような、私たちが信頼すべき神のご性質は十字架に完全に表れていることを論じていきます。十字架の中心性ボイドによると、クリスチャン信仰の中心は十字架です。すべての余計なものを取り除いたあとに残る

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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bible verses about welcoming immigrants

Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

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