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地図と実際の地形が一致しないなら、地図のほうが間違っている

少し前にある本を読んでいた時、次のような文章に目が止まりました:「もし地図がその場所の様子と一致しないなら、地図が間違っているのです。」その本の文脈は別の主題についてのものでしたが、これは聖書解釈についても当てはまるものだと思いました。地図とは、「地球表面の一部または全部を一定の割合で縮小し、記号・文字などを用いて平面上に表した図」(小学館デジタル大辞泉)と定義できます。地図は実際の地形をただ単に縮小した画像ではありません。実際の地形には「東京」というような地名が書き込まれていたり、等高線が記されているわけではありません。地図上に記されている地名や線や地図記号は、私たちが実際の土地と関わっていく際に必要な「意味」あるいは「情報」を生み出す枠組みを提供しています。これらの助けによって、私たちは

映画「パウロ~愛と赦しの物語」

私はふだんあまり映画を観る方ではありませんが、先週の金曜日に、11月に日本公開される映画「パウロ~愛と赦しの物語」(公式サイト)の試写会に行ってきました(ご招待くださったいのちのことば社様に感謝します)。日本公開前の映画ですので、その内容を細かく紹介することは控えたいと思いますが、試写を観た感想を簡単に記したいと思います。この映画は使徒パウロの最後の日々を描いたものです。皇帝ネロによって帝都ローマのクリスチャンたちは壮絶な迫害を体験していましたが、その中で捕らえられたパウロは死刑を宣告され、牢獄で死を待つ身となっていました。そんなパウロを福音書記者ルカが訪れるところから話は始まります。ストーリーはこの二人と、ローマのクリスチャンたち、そしてパウロを収監するローマ人の看守長を中心に展開していき

ピーター・エンズ著『確実性の罪』を読む(3)

(その1 その2)前回に引き続き、『確実性の罪(The Sin of Certainty)』の第1章を見ていきます。前回見たような信仰の危機が生じる背景には、ある特定の信仰理解があると思われます。エンズ自身がその中で育った、この種のメンタリティにおいては、「真の信仰と正しい思想とは同じコインの裏表であった」と言います(13ページ)。そこでは、自分が何を信じているかということについて確信が持てている限り、人は安定した信仰生活を送ることができます。何が信じるべき「正しい教え」であるかは明確に定義されており、その境界線の中にとどまっている限り、自分は正しい道を歩んでいるという安心感があります。しかし、エンズは最終的にそのような「安住の地」を出て、「自分が確信を感じているかどうかにかかわりなく、幼子

戦争と神学者(1)

今年2015年は太平洋戦争終結70年目の節目の年にあたりますので、戦争と神学の問題について書いてみようと漠然と思っていました。そんな中で、最近ネット上で戦時中に書かれた一つの文書が相次いで取り上げられました(ここやここやここ)。「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」がそれです。この書翰については以前から関心がありましたので、これについて何回かに分けて書いていきたいと思います。日本のキリスト教会の戦争責任については繰り返し議論されてきましたが、神学者の戦争責任、あるいは、戦争において日本の神学が果たした役割については、比較的注目されることが少ないのではないかと思われます。時として、神学という理論的な営みは価値中立的なものであって、政治や社会の動向とは無関係な、純粋に客観的なも

御国を来たらせたまえ(1)

キリスト教の祈りの中で最も有名なものは「主の祈り」でしょう。これはイエスご自身が弟子たちに教えた祈りで、マタイの福音書6章9-13節に収められています。教派を問わず、多くのクリスチャンはこの祈りを定期的に祈っています。翻訳によっていくつかのヴァリエーションがありますが、プロテスタント教会で良く用いられているのは次の形ではないかと思います。天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。この祈りの心臓部と

十字架形の神

所属教会で礼拝説教のご奉仕をさせていただきました。その原稿に多少手を入れたものをアップします。「十字架形の神」 コリント人への手紙 第一 1章18節-25節18  十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。 19  すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 20  知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。 21  この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。 22  ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める

ルカ1-2章における老人(JEA神学委員会論考集)

昨年度から、日本福音同盟(JEA)神学委員として奉仕させていただいていますが、この度神学委員会の論考集『流れ行く時の中で~年齢を重ねることの神学的な意味』が出版されました。私もその中で1章を担当させていただきましたので、こちらでもお知らせします。この論考集は副題が示す通り、「老い」をテーマとしています。超高齢社会に向かう日本にあって、老いという現実を神学的にどのように捉え、またそのような社会での教会と宣教を考えたら良いのか、さまざまな視点から考察がなされています。私はその中で、『ルカ1-2章における老人~ナラティヴ的考察』というタイトルで書かせていただきました。旧約聖書と比べ、新約聖書には老人はほとんど登場しません。しかも新約のナラティヴ部分に登場する老人は、ルカ1-2章にほぼ集中しています

聖霊降臨と新時代の幕開け(『舟の右側』ペンテコステメッセージ)

今週の日曜日(5月31日)はペンテコステ(聖霊降臨日)でした。それに先立ち、『舟の右側』誌に依頼されて、6月号にペンテコステのメッセージを書かせていただきましたので、同誌の許可を得てこちらにも掲載させていただきます(ただし聖書の訳をはじめ、いくつか変更を加えてあります)。内容的には過去記事「王なるイエスの元年」と重なる部分もありますが、そこで書いた内容を、もう少し広い聖書の文脈の中で捉え直したものです。 聖霊降臨と新時代の幕開け それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。 (使徒2・ 33)ペンテコステおめでとうございます。教会暦では、復活祭から50日目にあたる日曜日を聖霊降臨の日と

確かさという名の偶像(18)

(シリーズ過去記事 第1部 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第9章「聖書の中心」を取り上げます。前の章でボイドは、キリスト教信仰の中心はイエス・キリストであることを論じました。しかし彼は、十字架上のイエス・キリストに表されているような自己犠牲的な愛の神と、聖書の他の部分に描かれている暴力的な神のイメージとの間に否定しがたい緊張関係があることを意識するようになりました。たとえば、旧約聖書にはイスラエルが入っていこうとする地に住むカナン人たちを滅ぼしつくすようにと神が命じておられる箇所もあります。申命記7章2節では「彼らに何のあわ

「主の祈り」を祈る(4)

(シリーズ過去記事 1 2 3)天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。「・・・我らの父よ。」前回は主の祈りの冒頭の神への呼びかけの部分について、私たちが祈るべき神は「天」におられる神であることについて書きました。この神に対して「父」と呼びかけるように、イエスは弟子たちに命じられました。神が私たちの「父」であるというのは、大きく二つの意味があります。まず第一に、神は私たちの創造者という意味で「

クリスマスの不思議

今年のクリスマスはコロナ禍のために、例年とはまったく異なる雰囲気でクリスマスを迎える教会も多いのではないかと思います。私の所属教会でも毎年行っているアドベントコンサートが中止になり、20日のクリスマス礼拝は教会堂でソーシャルディスタンスを保ちながら集まる少数の出席者と、ズームで参加する出席者からなるハイブリッド礼拝になりました。礼拝の問題だけではありません。感染症自体からくる不安や恐怖以外にも、パンデミックの影響からくる経済的その他の様々な困難により、社会の分断が浮き彫りにされ、全体的に世の中の人々の心に余裕がなくなっているような気がします。私自身、なんとなく落ち着かない気持ちで今年のアドベントは過ごしていました。けれども、このような状況であるからこそ理解できるようなクリスマスの意味があるの

「宗教改革500周年」に思う

本日、2017年10月31日は500年目の宗教改革記念日です。1517年のこの日、マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「95箇条の提題」を掲示したのが宗教改革の始まりと言われています。もちろん、実際の宗教改革はルター個人が始めたものと言うよりは、もっと大きな歴史的流れの中で起きていった運動ですので、正確にこの日に宗教改革が始まったとピンポイントで特定できるようなものではないと思いますが、一つの象徴的なできごとであったことには間違いないでしょう。ルター作「神はわがやぐら(Ein feste Burg ist unser Gott)」プロテスタント教会では国内外で宗教改革500周年を記念してさまざまなイベントが行われています。私自身もプロテスタントに属する一キリスト者として、やはり感

グレッグ・ボイド・インタビュー(3)

(その1 その2)グレッグ・ボイド博士のインタビューを掲載しています。今回お届けする部分では、神の主権や力をどのように理解すべきかという、重要な問題について語ってくださっています。*     *     *――オープン神論を学べば学ぶほど思わされるのは、私たちは神の主権や力、支配と言った概念について聖書的に再定義する必要があるのではないかということです。なぜなら、オープン神論に対して、特にカルヴァン主義陣営からもっともしばしば加えられる批判の一つは、それが神の主権をないがしろにしているということだからです。神の主権、つまり神が宇宙の王であるということと、自由意志や神の愛といった概念を、どのように両立させることができるのでしょうか?GB:私は、これはキリスト教が異教にもっとも取り込まれてしまっ

「主の祈り」を祈る(7)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4 5 6)天にまします我らの父よ。ねがわくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国とちからと栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。」 「糧」は直訳すると「パン」です。「日用の」と訳されているギリシア語epiousiosは、古代文献の中でマタイ6章11節とルカ11章3節、さらに使徒教父文書の『十二使徒の遺訓(ディダケー)』8章2節にしか登場しません。これらはすべて主の祈りを記した箇所ですので、この言葉の

Racismの意味

少し前に投稿した、「ラルフ・ハモンド師の想い出―人種問題に寄せて」は、最近の記事の中では飛び抜けて高い関心を集めました。その中で私は、人種差別(racism)とは単なる人種的偏見ではなく、偏見に基づいて制度的に特定のグループの人々を抑圧することだ、と述べました。これに関して、今日インターネットで興味深い記事を見つけましたので、紹介します。米辞典、「人種差別」の語義変更へ 制度的抑圧を考慮(フォーブス・ジャパン)(同じトピックに関するニューヨーク・タイムズの英文記事はこちら)これらの記事によると、現在最も広く用いられている英語辞典の一つである Merriam-Websterのオンライン版で、 “racism” の定義が変更されたそうです。フォーブス・ジャパンの記事から引

N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版⑤

過去記事 ① ② ③ ④前回の記事では、旧新約聖書のすべては文化的に順応して書かれていることを述べました。聖書の各書巻は、それが書かれた当時の文化的コンテクストに完全に埋め込まれた形で書かれています。したがって、聖書のテクストには今日の大多数のクリスチャンが肯定しない社会制度が前提とされていることもあります。たとえば、普遍的な道徳命令の典型と思われるようなモーセの十戒の中には、次のような内容が含まれています。あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。(出エジプト20:17)ここで、「隣人の妻」は隣人の奴隷や家畜等と同列に記されていることに注意してください。つまり、この戒めは、妻は夫の所有物であることを前提として書

パレスチナ人クリスチャンの声(1)

7日早朝に始まった、パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスによるイスラエルへの大規模攻撃と、イスラエルによる報復は双方に甚大な被害を出し、近年なかったほどに緊張が高まっています。キリスト教会の一部には、イスラエル国を無条件で支持する人々がいます。それはある種の聖書解釈に基づいて、1948年のイスラエル建国を聖書預言の成就と考えるところから来ていると思われます。今回のできごとに関しても、「イスラエルのために祈ろう」という声をネット上で何度も耳にしました。もちろん、悲惨な状況の中にあるイスラエルの人々のために祈ることはぜひとも必要なことですが、イスラエルだけのために祈るのではなく、イスラエル/パレスチナ問題の複雑な状況を見据えて、当該地域に根本的な平和が訪れるように祈っていく必要があります。ま

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(5)

(本シリーズの過去記事 1 2 3 4)今回は『クリスチャンであるとは』第2部の6-10章に基いて、ライトが再構成する聖書ナラティヴのストーリーラインについて概観します。聖書の物語の「主人公」は言うまでもなく神ご自身ですが、実際の事件はほとんどが地上で起こります。先に見たように、神は天におられ、その天は地と部分的に重なり、かみ合っています。天の神は地に住む人々の歴史に介入され、人々との間にやりとりがなされます。つまり、聖書の物語は神と人が織りなす物語と言えます。ライトは本書では人類の創造と堕落については軽くしか触れていません。彼の物語る聖書のナラティヴ(少なくともその本編)はイスラエルから始まります(6章)。現代のクリスチャンの多くは、あたかもイエス・キリストが歴史の真空からある日突然現われ

N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(4)

(その1 その2 その3)前回に引き続いて、第2部「太陽を見つめる」を見ていきます。前回とりあげた第5章では、ライトはキリスト教の世界観を提示しました。すなわち、神がおられる場としての「天」と、人間が住む場としての「地」は、完全に一致しているわけでも完全に分離しているわけでもなく、部分的に重なり合い、かみ合っている関係でとらえられています。第6章から第10章まで、いよいよライトはキリスト教が提示する物語(ストーリー)とはどのようなものかを語り始めます。第5章で彼が世界観について語ったのは、いわばその物語のための舞台を設定する作業だったと言って良いと思います。キリスト教のメッセージとは何かということについて、ライトは第5章の冒頭で次のように語っています。クリスチャンは、神と世界についての真実の

確かさという名の偶像(21)

(シリーズ過去記事 第1部 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19 20)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回も前回に引き続き、第10章「実体的な希望」を取り上げます。前回取り上げた部分でボイドはマルコ11章24節(「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」)などの箇所に見られるイエスの教えは、祈る時に心理的な確信を持ちさえすれば、その祈りがかなえられるという意味ではない、と論じました。確かにこれらの箇所でイエスは信仰の重要性を語っていますが、それは人格的契約covenant関係に基づく信仰なのです。そ

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