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御国を来たらせたまえ(5)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4)前回に引き続き、「携挙」について考えます。携挙の聖書的根拠として取り上げられるもう一つの箇所は、マタイ福音書の次の箇所です。37  人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 38  すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 39  そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 40  そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 41  ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。 42  だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの

御国を来たらせたまえ(8)

(本シリーズの過去記事 1 2 3 4 5 6 7)前回の記事では、ルカ福音書の最初の3章において、作者はナラティヴの重要な節目ごとに3つの年代的記述を挿入していることを見ました。それらの年代記述は次第に複雑さとスケールを増してきており、3章冒頭の記述がクライマックスを形成しています。3章でルカはイエスの宣教の始めを包括的な歴史的文脈の中でとらえています。ルカが見ている世界は、ローマもユダヤも、また政治も宗教も渾然一体となった複雑な構造を持っており、その頂点にはローマ皇帝がいました。そのような背景の中で主イエスの福音宣教はなされていったのです。しかし、これらの支配者たちは単に福音書の物語の歴史的な背景を明らかにするためだけに登場するのではなく、ルカのナラティヴの中でもっと重要な役割を果たして

祈りII(詩)

祈りII―詩的変奏―黒く乾いた炭の上に一片の香を そっと載せ静かに 火を待ち望むやがて火がともると一すじの祈りが生まれ炉の中でくゆり立つ祈りは香の煙のように細く細く天に向かってのぼりたゆたいひろがりやがて 虚 空 に 消 え る祈りが終わったとき世界はいつものように回り続け天は黙って見下ろしているあとに残るのは堂に満ちる芳香 静寂 そして雪白の灰これは以前に掲載した詩「祈り」のヴァリエーションです。(本ブログは当記事で300回目の投稿となります。お読みくださっている方々に心から感謝します。)

男と女―相互に向き合うパートナー(藤本満師ゲスト投稿4)

(その1 その2 その3)藤本満先生によるゲスト連載、その4回目をお届けします。*     *     *女のかしらは男?前回の投稿を読んでくださった方は、私が神学的な男女平等論に立っていることをご理解されたことでしょう。男女が等しく神のかたちに創造されているばかりか、社会や家庭における役割においても平等、さらに聖職的な立場においても等しく奉仕ができるという立場です。今回、そのような立場の背景にある聖書理解を記してみます。神は人を男と女に創造された創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に創造された」。すぐそのあとの28節に「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と、神は人を男と女に創造することによって、人に新しい生命の誕生の恵みを授けられました。こう

祈り

早いもので、2015年も半分が過ぎ去りました。次の祈りは年頭に書いたものですが、今日改めて読み、祈ってみました。(多少オリジナルに手を加えてあります)今年の後半も、慌ただしい生活に流されることなく、主とともにゆっくりとした歩調で進んでいきたいと思います。主よ、人の一生は夢のよう、一年はあなたにとって瞬きする間にも及びません。 けれどもあなたは私たちと同じ速さまで歩みを遅めてくださり、 私たちと共に泣き、笑い、言葉を交わしてくださいます。今日も、私があなたの歩調に合わせて歩み、 あなたの定めを超えて先を急ぐことがないようにしてください。 なぜなら急いで焼いた陶器は割れ、あわてて建てた家は傾くからです。今日の私が昨日よりもキリストの似姿に一歩近づきますように。 葡萄の木が時間をかけて実を結ぶよう

受難日に聴いた音楽

今日はイエス・キリストの十字架の死を記念する受難日(Good Friday)です。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う社会的混乱によって、今年の受難日は例年とは全く違う状況で迎えることになりましたが、それだけにイエスの苦しみと死の意味について、深く考えさせられる受難日となりました。昨年のレントの時期に書いた記事(「受肉というスキャンダル」)でも書いたように、レントと受難週にはバッハのマタイ受難曲をよく聴いてきました。けれども今年聴いたのは、つい先日(3月29日)亡くなったペンデレツキによる「ルカ受難曲」でした。クシシュトフ・ペンデレツキ(Krzysztof Penderecki、1933ー2020)は現代ポーランドを代表する作曲家の一人であり、ルカ受難曲はカトリック教徒であった彼の代表作と言わ

神の愛への招き

『舟の右側』の6月号が届きました。1月号から6回にわたり、「鏡を通して見る――不確かさ、疑い、そして信仰」と題して連載をさせていただきました。このブログでも取り上げたグレッグ・ボイドやピーター・エンズなどの考察も紹介しつつ、不確実性や疑いを信仰者としてどう考えるかということを拙いながらも書かせていただきましたが、一貫して主張してきたのは、不確実性や疑いを持つことは信仰の弱さのしるしではなく、正しく付き合っていくなら、信仰のさらなる深みに導いてくれる友である、ということです。逆に、疑いや不確実性を悪として徹底的に排除していこうとする時、私たちの信仰は不健全で非聖書的なものになっていきます。なぜなら、その時私たちが信仰の土台としているのは、神との生きた人格的関係ではなく、「この自分の揺るがない信

聖書信仰(藤本満師ゲスト投稿 その5)

(その1 その2 その3 その4)藤本満先生によるゲスト投稿の第5回をお届けします。今回は、前回の物語論に関連して、物語と説教について語っていただきます。お忙しい中執筆のご労をとってくださった先生に心から感謝します。『聖書信仰』(いのちのことば社)物語と説教「あとがき」で、私自身が「物語と説教」に目覚めた話を記しました。そのきっかけを与えてくれたノンフィクション作家の柳田邦男さんに言及しました。実は、私はあの文章を、「聖書は神の創造と救済の物語であり、その中へと私たちの物語が取り込まれ、どこかで神の国の新たなる舞台を演じることになる」というような、壮大な神学的想定で記したのではありません。それはもっと小さな物語論で、自分が務める礼拝講壇(説教)のために、小さな物語をどのように捉えて用いている

イエスは起こされた

キリスト教信仰の一番の土台はキリストの復活というできごとであり、したがって復活祭は教会にとってもっとも重要なイベントとされています。今年の復活祭は4月21日でした。レントの期間中、イエスの死と復活について思い巡らしていて、考えたことをブログに書こうと思っていましたが、いろいろなスケジュールに追われてなかなかパソコンに向かうことができないうちに、復活祭当日が過ぎてしまいました。けれども教会暦ではペンテコステまではまだ復活節の期間ですので、イエスの復活について個人的にとても重要だと思ったことを書こうと思います。それは、イエスは自分の力で死からよみがえったのではなく、神がイエスをよみがえらせたのだということです。新約聖書は繰り返し、神がイエスを死者の中からよみがえらせたことを語っています(使徒2:

パンデミックを考える(1)

ここ数ヶ月というもの、「コロナ」という言葉を見聞きしない日はありません。新型コロナウイルスの感染は世界中で爆発的に拡大を続け、今もその勢いは衰えを見せていません。この原稿を書いている時点で、世界の感染者が2千万人を突破しました。感染症がもたらす健康被害はもちろんのこと、それに伴う社会的、政治的、経済的影響は甚大で、世界の国々を大きく揺るがし続けています。私たちの「日常」は一変してしまいました。そして、コロナ以前の「日常」に戻ることは、もうないのかもしれません。キリスト教会ももちろん、この変化と無縁ではありません。多くの教会堂は閉鎖され、礼拝はオンラインやその他の手段で行われるようになっています。私が教えている神学校でも、これまでの授業はすべてオンラインで行われるようになりました。しかし、私た

N.T.ライト『新約聖書と神の民』について(山口希生氏ゲスト投稿 その2)

(その1)山口希生さんによるゲスト投稿の2回目をお送りします。お忙しい中、寄稿してくださった山口さんに心より感謝します。4月には山口さんを講師として『新約聖書と神の民』出版記念講演会も行われるとのことです(詳細はこちらとこちらをご覧ください)。日本でのライトをめぐる議論がさらに活性化する、素晴らしい機会になると思います。『新約聖書と神の民』原書(The New Testament and the People of God)第二回・ユダヤ・キリスト教の創造主信仰ユダヤ教とキリスト教が共有する根源的な信仰とは、この物質世界は善なる神の創られた世界であり、元来は非常に「良い」世界だったという信仰です。創造主である神への信仰ということです。この創造主信仰と対立するのは、物質的世界を劣ったもの、一時

藤本満著『聖書信仰』を読む

たいへん素晴らしい本が出版されました。藤本満先生(イムマヌエル綜合伝道団高津キリスト教会牧師・イムマヌエル聖宣神学院教師)による、『聖書信仰―その歴史と可能性』(いのちのことば社)です。本書は昨年11月に行われた日本福音主義神学会全国研究会議における、藤本先生の発表を元にしています。私もその場にいて先生の発表を拝聴し、深い感銘を受けた者の一人でしたので、本書の出版を心待ちにしていました。出版後早速入手して、研究会議の感動を新たにしつつ読了しました。本書の主題は、タイトルにもあるように「聖書信仰」です。この言葉は、福音主義キリスト教の核心をなすものとしてしばしば語られますが、それはそもそもどのようなものなのでしょうか?藤本先生は本書の冒頭で次のように述べておられます。「聖書信仰」という表現には

主にあってむだでない労苦(1コリント15:58)

すでに周囲の方々にはお知らせしてきましたが、本年3月におけるリバイバル聖書神学校閉校にともない、4月から関東に移って、聖契神学校で奉仕することになりました。以下に掲載するのは、新城教会で行なった最後の礼拝説教原稿に少し手を加えたものです。*     *     *主にあってむだでない労苦(1コリント15:58)「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」この箇所はコリント人への第一の手紙の15章の最後の節ですが、15章は復活について教えている部分です。私たちクリスチャンの希望は、この肉体の死が終わりではないということです。いつの日か神さまが定められた時にイ

使徒たちは聖書をどう読んだか(8)

(このシリーズの先頭はこちら)前回の結論は、新約記者たちの聖書解釈法には、旧約記者の意図した意味を超える「より完全な意味」を読み取る側面があった、というものでした。先に進む前に、二つほど確認しておきたいことがあります。まず、私は歴史的・文法的方法の有効性を否定しているのではありません。私自身今でもそれを用いて釈義していますし、自分の学生にも教えています。ただ、このシリーズで訴えたいのは、歴史的・文法的釈義は聖書釈義の唯一の妥当な方法ではない、ということです。また、私は新約聖書における旧約引用のすべてが引用元の意図された意味を超えてなされていると言っているわけではありません。むしろ新約聖書における旧約引用は、引用元の文脈における意図された意味を充分にくみ取ってなされている場合が多いです。にもか

科学と聖書(4)

(その1 その2 その3)前回は、科学理論としての生物進化と「進化思想」を区別すべきことについて書きました。科学と聖書を議論するときにもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「神にとって可能なこと」ことと「神が実際におこなったこと」を区別することです。創世記1章には、神が「6日間」で天地を創造したと書かれています。この「6日間」をどう解釈するかが問題になるわけですが、若い地球の創造論(YEC)では、これを文字通り1日24時間と考えて、その6倍の時間で世界が創造されたと考えます。さらに、聖書にある系図などの計算から、この6日間の創造という出来事が今から数千年前に起こったと主張します。これに対して、創世記の「6日間」は文字通りの時間を表しているのではなく、創造はかなり長い時間をかけて

パンデミックを考える(4)

(その1 その2 その3)前回は、ウォルター・ブルッゲマン著『信仰への召喚としてのウイルス』の内容を紹介しました。今回はそれに対する私なりの応答を記したいと思います。ブルッゲマンの主張は、これまで取り上げてきたパイパーやライトの主張と重なる部分もたくさんありますが、そのどちらとも異なるユニークな側面も持っています。彼はライトと同じように、信仰者がパンデミックの危機の中にあって嘆くことの重要性を強調します。けれども、ライトがコロナウイルスの「意味」を問うことをほぼ全面的に拒否しているのに対し、ブルッゲマンはあえてその領域にも足を踏み入れようとしています。他方で、ブルッゲマンはパイパーのように単純明快な「解答」を提示することはしません。彼の主張はもっとニュアンスに富んだものであり、そのため分かり

確かさという名の偶像(5)

(シリーズ過去記事 1 2 3 4)前回に引き続き、グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)第2章「感情のとりこ」について見ていきます。この章で彼は確実性追求型信仰の持つさまざまな問題点を指摘しています。神観の違いまずボイドは、あらゆる神学や実践の妥当性を判断する際に用いるべき重要な基準について述べます。それは、「そのような神学や実践は、どのような神観を前提としているのか?」ということです。より具体的に言うと、神の真のご性質の究極的啓示はイエスであるので(ヘブル1章3節)、私たちは特定の信条や実践が前提としている神の像が、キリストにおいて表された神について私たちが知っている内容と整合性があるのかどうか、を常に問う必要があるのだ。(p. 37)前回の記事で

天の玉座の間の祈り

前回の投稿では、黙示録4-5章に描かれている、天の御座の幻の箇所をテキストにしておこなった礼拝説教をご紹介しました。宇宙の中心は天の神殿にある神の御座であり、その周りでは天使たちまた全被造物が常に神とキリストを礼拝しています。そして、私たちが地上で捧げる礼拝は、その天における礼拝に参加することだという内容でした。N・T・ライトの著書Simply Christian(近く邦訳が出るそうです)に礼拝について書かれた章があります。ライトは礼拝において聖書ナラティヴの全体を語ることの重要性を述べていますが、そのナラティヴの重要な要素は「創造」と「救済」の二つであると述べています。これはまさに黙示録の4章(創造者なる父への礼拝)と5章(救済者なるキリストへの礼拝)の内容に対応しています。実際、ライトは

『焚き火を囲んで聴く 神の物語・対話篇』

このたびヨベルさんから出版された『焚き火を囲んで聴く 神の物語・対話篇』が手元に届きました。この本はもともと『舟の右側』誌に大頭眞一先生が連載された12回の記事に、12人の「焚き火仲間」が応答すると言うかたちで編まれたものです(ネット上に本書のリンク集もあります)。届いたばかりの本をぱらぱらと見ていますが、キリストのからだの多様性と一致がユーモアを交えながら見事に体現されており、まさに「焚き火を囲んだ対話」というイメージがぴったりだと思いました。他に類を見ない本だと思います。さて、本書では私も焚き火仲間に加えていただき、大頭先生(本書では「先輩」と呼ぶことになっているようですが・・・)の第5回連載「焚き火のまわりで雪合戦」への応答として、「愛なる神が与えてくださる冒険――オープン神論」という

福音主義神学会全国研究会議2017

11月6日(月)から8日(水)まで、東京で行われた第15回日本福音主義神学会全国研究会議に参加してきました。今回は「3つの『のみ』の再発見~宗教改革500年によせて~」というテーマで行われました。160人ほどの参加があり、初めてお会いする方も含め、多くの人との交わりも与えられました。3日間にわたって、楽しく有意義な研鑽の時を持たせていただきました。今回は宗教改革のスローガンである「聖書のみ」「恵みのみ」「信仰のみ」に沿って発題が行われました。最初に内田和彦先生による基調講演と藤原淳賀先生による応答講演があり、その後鎌野直人先生が「聖書のみ」について、稲垣久和先生と河正子先生が「恵みのみ」について講演をなさいました。この他2日目の午後には青木保憲先生、藤本満先生、吉田隆先生によるパネルディスカ

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......

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