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- 教会史上最初のメッセージ
今週の日曜日(2023年7月30日)は畏友・山口希生先生の牧会されている中原キリスト教会(日本同盟基督教団)で礼拝説教のご奉仕に伺い、使徒行伝2章36節から「教会の最初のメッセージ」と題してお話をさせていただきました。ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。(新改訳第3版)使徒行伝2章に収められているペテロの説教は、ペンテコステの日に聖霊が注がれ、教会が誕生したその日に語られたものですので、教会史上最初の説教であると言えます。そこで語られているメッセージは、すべてのキリスト教会の説教の基礎となるような重要なものと言えます。それでは、そこで語られたメッセージの要
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- All Truth Is God’s Truth
私の好きな英語の表現で“All Truth Is God’s Truth” (すべての真理は神の真理)というものがあります。キリスト者が聖書と教会の中に真理があると考えるのは当然のことですが、このことばが語っているのは、一見キリスト教とは直接関係ないと思える領域にも真理は見出すことができる、ということです。もしキリスト教の証しする神が本当にこの宇宙を創造し、今も統べ治めている神であるならば、その神は聖書の中だけに見出される抽象概念ではなく、現実世界のあらゆる領域においても見出される生きた神であるはずです。古来、神は二冊の本を書かれたと言われます。その二冊とは、「聖書Scripture」と「自然Nature」です。この二つと完全に対応するわけではありませんが
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- “Jesus Creed”(スコット・マクナイト)への寄稿
アメリカの新約聖書学者スコット・マクナイトのブログ “Jesus Creed”に私の文章が掲載されましたので、紹介します。“Can Verbal Inspiration become a Deism?”これは少し前にこのブログで公開した「『聖書信仰』についての覚え書き」に加筆修正した上で英語で書き直したものです。スコット・マクナイト(Photo by Flofor15 via Wikipedia)マクナイト博士はアメリカを代表する新約聖書学者の一人で、現在はイリノイ州ロンバードにあるノーザン・バプテスト神学校で教鞭を執っています。彼は私がトリニティ神学校に留学していたときには近くのノースパーク大学で教えており、トリニティに招かれて講演を行ったの
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- 「あなたの信仰があなたを救った」(2)
(その1)前回は、「あなたの信仰があなたを救った」という表現が現れるルカ福音書の4つの箇所(7章50節、8章48節、17章19節、18章42節)について概観しました。これらの4つのエピソードでは、まったく同一のギリシア語の表現hē pistis sou sesōken seが見られるだけでなく、その表現が各エピソードの結末部におけるイエスのことばとして記されていることから、各エピソードの中核的なメッセージを担っていることが分かります。そして、ルカがこの同一の表現を福音書の中で4回も繰り返し用いているのは、ある特定の意図に基づいていると考えることができます。この4箇所には、共通して見られる次のようなナラティヴのパターンがあります:1.何らかの形で社会(と神)から疎外されている人々がイエスに近づ
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- 確かさという名の偶像(20)
(シリーズ過去記事 第1部 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16 17 18 19)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第10章「実体的な希望」を取り上げます。本書でボイドは確実性を追求し、疑いを排除するような信仰のあり方を批判してきました。しかし、多くのクリスチャンは、このような「確実性追求型」信仰のモデルには強固な聖書的根拠があると考えています。本章でボイドは、代表的な聖書箇所を二つ取り上げ、はたしてこれらの箇所が「確実性追求型信仰」を支持しているのか、吟味します。ヤコブ1章6-8節6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の
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- 教会が育てる翻訳聖書(月刊『いのちのことば』)
月刊『いのちのことば』2018年2月号で「私はこう読んだ――『聖書 新改訳2017』を手にして」という新連載が始まりましたが、その第1回目の評者として原稿を書かせていただきましたので、許可を得てこちらでも掲載させていただきます。(「新改訳2017 最初の印象」もご覧ください)「教会が育てる翻訳聖書」新改訳聖書の新しい改訂版『聖書 新改訳2017』がついに出版されましたので、さっそく手に入れて読み始めました。前回の改訂は二〇〇三年に出た第三版ですが、こちらは差別語の表記を見直すなど小規模な改訂にとどまっていましたので、長らく全面改訂が望まれていました。奥付の発行日は二〇一七年一〇月三一日となっていて、五百回目の宗教改革記念日に新しい翻訳聖書を世に出す意気込みを感じます。具体的な変更箇所などにつ
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- パレスチナ人クリスチャンの声(4)
シリーズ過去記事 1 2 3前回に引き続き、パレスチナ人クリスチャンであるグレース・アル・ズグビー博士の証詞と祈りをお届けします。私には何も付け加える言葉はありません。どうぞお読みください。*****幼い頃、イエスが打ちひしがれた者や弱い者にどのように手を差し伸べられたかを読むと、いつも感動しました。私はまた、神がいかにして「打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり/へりくだる霊の人に命を得させ/打ち砕かれた心の人に命を得させる」(イザヤ57:15)かを知って心を打たれたものです。このような人々は私たちの周りにたくさんいます。この聖句を思い出すたびに、私は今でも強いインパクトを受けます。打ち砕かれ、傷つき、軽蔑され、疎外され、虐げられた人間を、忍耐強く、愛情をもって包み込んでくださるイエスの
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- 受難週に聴いた音楽
教会暦では昨日が受難日でした。2年前のこの日に「受難日に聴いた音楽」という記事を書きました。そこではポーランドの作曲家クシシュトフ・ペンデレツキの「ルカ受難曲」を取り上げました。今年の受難節も、イエス・キリストの受難について思い巡らしていましたが、今年はパッション2000のために作曲された受難曲を全部聴いてみようと思い立ちました。「パッション2000」というのは、シュトゥットガルトにある国際バッハ・アカデミーがバッハ没後250年を記念して、世界の多様な文化圏に住む4人の作曲家に、それぞれ受難曲を委嘱したプロジェクトです。この4曲と作曲家は以下の通りです:マタイ受難曲:タン・ドゥン(中国)マルコ受難曲:オスバルド・ゴリホフ(アルゼンチン)ルカ受難曲:ヴォルフガング・リーム(ドイツ)ヨハネ受難曲
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- 創造の神――ジョン・ウォルトン博士来日講演を受けて
前回の更新から間が空いてしまいましたが、ようやく少し時間ができたので、今回のジョン・ウォルトン師の一連の講演(その1 その2 その3)を拝聴して考えたことを簡単に書き記しておきたいと思います。ウォルトン師の講演ではいろいろと興味深い主題が取り上げられていましたが、その中には自分の中でまだ十分に整理し切れていないものや、納得しきれない主張もありました。けれども、少なくとも次の3つの点については、全面的に同意できると思いました。1.旧約聖書はそれが書かれた古代近東の文化に照らして理解すべきであり、聖書の「字義的」な解釈とは、その文化の中で聖書記者の意図したメッセージを読み取ることである。2.聖書の記述は科学的知識を教えることを目的としているのではない。したがって現代の科学的知識を聖書テクストに読
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(1)
今月のはじめに日本福音主義神学会の全国研究会議があり、そこで発表の機会が与えられましたので、その内容を元にして、専門外の方々のためにもできるだけ分かりやすく書き直してお分ちしたいと思います。会議の主題は「福音主義神学、その行くべき方向―聖書信仰と福音主義神学の未来―」というものでした。「福音主義神学会」という名前が付いている会ですので、「福音主義神学」について研究するのは当然なのですが、あえてこのようなテーマが選ばれた背景には、何があるのでしょうか。「福音主義」を簡単に定義するのは難しいのですが、とりあえずここでは「聖書は誤りなき神のことばである」と信じるプロテスタントの流れであると(あえて単純化して)とらえておきます。上の主題文にも出てきた「聖書信仰」ということが重要なキーワードになります
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- 要約すると
1962年のこと、カール・バルトはシカゴ大学のロックフェラー・チャペルで講演をしていました。講演後の質疑応答の時間に、一人の学生が、「先生のこれまでの神学的業績のすべてを一文に要約すると、どのようになりますか?」と訊ねました。カール・バルトこの質問に対して、この20世紀最大の神学者は、次の有名な子どもの讃美歌の一節をもって答えたと言われています。Jesus loves me this I know, for the Bible tells me so.(私は知っている。イエス様に愛されていることを。なぜって、聖書にそう書いてあるから。)簡潔にしてポイントをおさえた、実に素晴らしい要約だと思います。バルトが本当にそのようなことを言ったのかどうか、定かではありませんが、神学者ロジャー・オルソンに
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- [リソース紹介] The Bible Project
先週、シンガポールで開催されたアジア神学協議会(ATA)の総会に出席してきました。今回のテーマは「未来の教会:その神学的応答 The Future Church: A Theological Response」で、次世代に対する神学教育のあり方について議論がなされ、多くのことを学ばされました。Image by Asia Theological Association今回フォーカスが当てられたのは、特にミレニアル世代(1980年代はじめから1990年代半ばまでに生まれた世代)です。(1990年代中盤以降に生まれたさらに若いポストミレニアル世代もいますが、今回議論の中心となったのはミレニアル世代でした。)ミレニアル世代はインターネットと共に育った世代であり、スマートフォンやソーシャルメディアが生
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- ルカ文書への招待(5)
(① ② ③ ④)Equipper Conference 2016に向けたルカ文書の入門コラムとその補足、第5回は福音の伝統の継承ということについて書きました。* * *ルカが語る福音の物語⑤ 「世代を超えて受け継がれるメッセージ」 今回も前回に引き続き、ルカ文書の序文(ルカ1章1-4節)を見てみましょう。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事
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- N.T.ライト『クリスチャンであるとは』を読む(3)
(その1 その2)今回は第2部、特にその中の第5章「神」について見ていきます。第二部 太陽を見つめる第5章 神第6章 イスラエル第7章 イエス―神の王国の到来第8章 イエス―救出と刷新第9章 神のいのちの息第10章 御霊によって生きる第1部でライトは、人間の持つ4種類の渇望について記し、それらがこの世界を越えたもう一つの世界、またそこから語りかけている存在(=神)を指し示していることを論じました。第2部ではこれを受けて、ではその「もうひとつの世界」あるいは「神」はどのようなものなのかについて、キリスト教が語る物語を紹介していきます。第2部の冒頭に置かれた第5章は世界観の問題を扱った章で、本書の中でもきわめて重要な位置を占めている部分です。ここでライトは、神(と神のいる世界)が、私たちの世界と
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- 確かさという名の偶像(17)
(シリーズ過去記事 第1部 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 第2部 11 12 13 14 15 第3部 16)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズも第3部に入っています。なるべく1回で1章を紹介しようと努めていますが、内容が濃くて1回では紹介しきれない章もあります。今回も第8章「強固な中心」の続きになります。信仰の同心円モデル前回も見たように、ボイドは福音派によく見られる「トランプの家」的な信仰モデルを批判します。このモデルにおいては、すべての信仰箇条が他のすべての信仰箇条に依存しているので、一つの要素が否定されると、全体が崩れてしまいます。それに対してボイドは同心円的な構造を持った信仰のあり方を提案します。それはいのちの源
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- Equipper Conference 2016
12月27日から31日にかけてJCFNの主催でカリフォルニア州マリエータで行われたEquipper Conference 2016 (EC16)に参加して来ました。会場となったMurrieta Hot Springs Christian Conference Centerすでにシリーズ「ルカ文書への招待」(最終回の記事に各回へのリンクがあります)で書いてきたように、今回私は講師の一人としてお招きいただき、朝の4回の「聖書講解」の時間でルカ福音書からお話をさせていただきました。箇所とタイトルは以下の通りです。第1回 「信じる者になること」(ルカ1章26-38節)第2回 「弟子になること」(ルカ5章1-11節)第3回 「隣人になること」(ルカ10章25-37節)第4回 「証人になること」(ルカ2
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- 使徒たちは聖書をどう読んだか(7)
(このシリーズの先頭はこちら)前回までの記事では、新約聖書における旧約聖書の解釈は、現代福音主義の標準的釈義方法である歴史的・文法的方法の枠に収まりきらないものである(あるいは少なくともそう見える)ということを見てきました。私たちはこのような「現象」をどう考えたら良いのでしょうか?多くの福音派の聖書学者は、たとえ一見奇異に見えても、新約記者たちの聖書解釈法が歴史的・文化的方法と適合する(つまり彼らは旧約聖句の元来意図された意味に忠実な引用を行っている)と言うことを示そうと努力して来ました。これからもそのような試みはなされていくでしょう。私はそれらの真摯な努力を否定するものではありませんが、二つのことを指摘しておきたいと思います。一つは、聖書自体が行っている解釈の方法が現代の私たちのそれと異な
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- 御国を来たらせたまえ(3)
(シリーズ その1 その2)神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。(ルカ17章20-21節)「その2」から間が空いてしまいましたが、神の国についてのシリーズを続けて行きたいと思います。主の祈りの中で「御国を来たらせたまえ」という祈りが重要であることについてはすでに見てきましたが、今回は神の国(神の支配)が地上に到来するとはどういう意味なのかを考えてみたいと思います。冒頭に引用したルカ福音書のエピソードでは、パリサイ人がイエスに対して「神の国はいつ来るのか」と訊ねています。つまり、彼らの質問の主眼は、神の国の到来
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- N・T・ライト『聖書と神の権威』翻訳出版⑥
過去記事 ① ② ③ ④ ⑤前回まで、旧新約聖書のすべては文化的に順応して書かれているため、表面上の文言をそのまま現代に適用することはできない、と書いてきました。それにもかかわらず、聖書を現代の教会にも語りかける神の言葉であると考えるなら、テクストの表面下にある、より普遍的なメッセージを抽出していかなければなりません。ここにおいて、これまで比較してきた、「聖書のデフォルトは普遍的メッセージである」という考えと「聖書のデフォルトは順応されたメッセージである」という聖書観の違いが明らかになります。前者では聖書テクストの大部分は普遍的な真理としてそのまま現代に適用できるとされます。そうすると、聖書を真理の情報のデータベース、あるいは道徳のルールブックのように読むことも(それが正しいかどうかは別とし
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- 確かさという名の偶像(13)
(シリーズ過去記事 第1部 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 第2部 11 12)グレッグ・ボイド著Benefit of the Doubt(『疑うことの益』)の紹介シリーズ、今回は第6章「法的取引から愛の結びつきへ」を取り上げます。この章でボイドはまず、「信仰faith」と「信条belief」を区別します。「信条」とはあることがらが正しいという精神的確信です。これに対して、聖書的な「信仰」とは、他の人格と結ばれた関係において相手を信頼すること、また自分が信頼に価する存在になることを意味しています。たとえば、私たちは「1たす1は2である」という数学的真理を信条の意味で「信じる」と言いますが、私たちはその命題と人格的信頼関係にあるわけではありません。反対に、「私は妻(夫)を信じる」と言

- The Cross Pendant
He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel
Bible Verses About Welcoming ImmigrantsEmbracing the StrangerAs we journey through life, we often encounter individuals who are not of our nationality......
