日本伝道会議に参加して

聖書に出てくる用語、クリスチャンが使う用語を説明しています。 ヘブル的視点で解説されていますので、すでにクリスチャン歴が長い方にも新しい発見があるかもしれません。

9月19日(火)から22日(金)まで、岐阜市の長良川国際会議場で行われた第7回日本伝道会議(JCE7)に参加してきました。

今回は会場での対面参加とオンライン参加の2つの参加方法がありましたが、私は妻とともに対面で参加することができました。今回私は運営に関わったわけでもなく、また奉仕者として何か役割が与えられたわけでもありませんので、あくまでも一参加者としての感想を記したいと思います。

今回は「『おわり』から『はじめる』宣教協力」をテーマに開催されました。このテーマについてはJCE7の公式サイトで次のように説明されています:

私たちにとっての「おわり」とは、第一に、今の教会が直面している行き詰まりに等しき状況、つまり今やらなければ後がない状況としての「正念場(おわり)」であり、第二は、神が計画しておられる教会の完成のビジョンとしての「ゴール(おわり)」から考えること、そして第三に、開催地域である「尾張(おわり)」、それは各自の地域の現状から出発するという三重の意味を持っています。
 そして「はじめる」とは、第一に、日本の宣教の歴史を振り返り、日本の教会に根付いている教会の習慣や文化などを聖書から見直し、捨てるべきものを捨て、終わらせるものを終わらせることを「はじめる」機会とします。第二に、複雑になりつつある社会の変化に目を向けて、災害、環境破壊、少子高齢化、デジタル化、国際政情不安、多文化共生などの課題に教会がしっかりと向き合い、宣教の働きを新たに「はじめる」ことを意味します。そして第三に、このコロナ禍を神の摂理的な機会と受け止め、日本宣教の転換点となる新たな取り組みを「はじめる」時とする、三重の意味を持ちます。

今回の会議の特徴として、若い世代を前面に押し出す形で開催されたことが挙げられます。形式張った実行委員長あいさつなどは一切なく、登壇者は50歳以下の人々のみ、年配の委員は背後でのサポートに徹するということから、これまで私が参加した福音派の集会であまり見られなかったフレッシュで若々しい印象を受けました。

開催地も東海地域の最大都市である名古屋ではなく岐阜であったこと、会場で参加できない人々のためにオンライン参加のオプションが与えられたこと、ノータイのカジュアルな服装で、互いを「先生」と呼ばず「さん」づけで呼ぶなど、特定の地域やグループを特権化しない、脱中心的でフラットな関係性を志向しているように思え、好感が持てました。

そして、おそらく今回の会議の最大の特徴は、これまでの伝道会議がさまざまな「宣言」を採択することで締めくくられてきたのに対して、「祈り」をもって締めくくられたことです。何らかの確定した主張を「宣言」して終わるのではなく、神の恵みと知恵により頼み、未来の可能性へと開かれた「祈り」をもって一歩を踏み出すというのは、複雑で多様な課題に直面しているキリスト教会にふさわしい終わり方だったと思います。

その一方で、個人的に残念だったこともありました。近年日本の福音派でも議論され、このブログでもたびたび取り上げてきた福音理解の再吟味や、聖書論の見直しといったトピックが、少なくとも全体集会ではほとんど取り上げられなかったことです。(ただし、私が参加した数少ない分科会の中にも、そのような最近の議論を反映したものはありました。他にもあったのではないかと思います。)

「伝道会議は実践的な福音宣教を話し合う場であって、抽象的な神学議論はなじまない」と考える方もおられるかもしれませんが、「福音」の何たるかが分かっていなければ、教会がそれに生きることも、それを宣べ伝えることもできません。またそれらのことを「聖書に基づいて」行っていくためには、聖書がどのようなものであって、どのように働き、どのように読むべきなのかも分かっていなければなりません。つまり、「福音理解」や「聖書論」といったもっとも中核的な概念についての真摯な議論を素通りして「伝道」を論じることなどできないのです。神学なき宣教は病んだ教会を生むだけです。

もちろん、これらの主題について、福音派の中でも多様な意見があり、数的に言えば今回の伝道会議で語られていたような従来的な福音理解、聖書論が主流派を占めているため、そのような理解が前面に出てくることは仕方がないのかもしれません。けれども、日本の福音派の中に明らかに存在する意見の多様性をもうすこし反映しても良かったのではないかと思います。厳しい言い方をすると、前回の神戸会議で講師のクリストファー・ライトが聖書の物語的理解について語り、JEA神学委員会の主導で「聖書信仰」についての活発な議論が交わされたことを考えると、むしろ後退してしまった印象さえ受けました。

また、若手を起用したのは良かったのですが、まだまだ女性の登壇者は少なかったですし、セクシャルマイノリティの問題など、福音派ではセンシティブな問題はあえて触れられていなかったように思います(祈りの中で少しですが言及されていたのは良かったです)。

けれども、そのような不満はありつつも、全体的にはとても良い集会だったと思います。「良い」というのは完璧だったということではなく、良い方向に向かって一歩を踏み出している、ということです。

たとえば、互いを「さん」づけで呼びましょうと言っていたにもかかわらず、いつのまにか司会者や登壇者の言い方が「先生」にもどってしまっていたりしたことがありました。これに限らず、壇上での「さん」づけに関しては全体的に何か不自然なぎこちなさを個人的に感じたのは事実です。けれども私はこのことを批判として言っているのではなく、むしろ教会がこれまでの安全地帯から抜け出して新しい歩みを始めたしるしとして肯定的に受け止めたことを強調したいと思います。

何事でも新しいことを始めようとする時に、不自然さやぎこちなさ、試行錯誤、元の状態への揺り戻しなどが起こります。けれども、そのような居心地の悪さに耐えながら進み続けなければ、新しい未来は開けてこないと思います。今回語られたメッセージの中で私が一番心に残っているのは、教会が多様性に向けて自らを開いていく時、それは必然的に不快な交わりを生む、ということでした。終末に神の国が完成する時まで、そのような(良い意味での)不快さは教会が正しい道を歩んでいるしるしとなるのではないでしょうか。(もちろん、教会の不健全さからくる不快さは取り除いていく必要があります。)

今回の伝道会議が、教会が自らの成果を誇って終わってしまっては何にもならないと思います。私たちは不完全で、間違いを犯し(折しも大会中にこんなニュースも飛び込んできました)、傷ついている存在です。にもかかわらず、そのような教会を終末の神の国の完成まで神が真実に導いてくださることを信頼し、希望を持って一歩を踏み出したい。そんな思いを一人ひとりの参加者に抱かせてくれることができれば、この大会は成功だったのではないかと個人的に思っています。

以上、思いつくままに記してきましたが、冒頭にも述べたように、私はただの一参加者に過ぎませんので、私の観察は大会のほんの一部を切り取ったものに過ぎません。私の知らないところでこの大会の背後ではさまざまなご苦労や議論があったのではないかと推察します。この大会を実現してくださった関係者の皆さまには心からの感謝を申し上げたいと思います。

最後に、今回個人的に一番嬉しかったのは、さまざまな人々との交流が与えられたことでした。何年も会っていなかった人々と旧交を温めたり、新しい方々との出会いが与えられたりと、対面ならではの祝福をいただいた4日間でした。このようなイベントを通して人と人とがつながることから、次の時代の新しいうねりが生まれていくのではないかと思います。神学校の学期中でもあり、スケジュール的にはきつかったですが、やはり参加して良かったと思っています。

 

The Cross Pendant

He is a cross pendant.
He is engraved with a unique Number.
He will mail it out from Jerusalem.
He will be sent to your Side.
Emmanuel

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